「さんに問題です。これは一体なんでしょう?」
「……はい?」
冬晴れの日差しが差し込むお昼休みの化学準備室。
今日もぺろりと私の作ったお弁当を食べ終えた先生は、にこにこしながら白衣のポケットから小さな小瓶を取り出した。
〜ネイルリムーバー〜
「……マニキュア、ですか?」
「ピンポンピンポン。大正解です」
コトリと先生のデスクの上に置かれたのは、どこかで見たようなマニキュアの瓶。
こういうの、何色って言うのかな。青みの強い、淡い紫。藤色っていうのかな?
私はしげしげとマニキュアの小瓶を見つめたあと、にこにこしながら手を叩いている先生を見上げた。
「どうしたんですか、こんなの……。もしかして没収したんですか?」
「いえいえ。さっき藤堂さんにもらったんです」
「えぇっ、藤堂さんに??」
思わず大きな声を出してしまって、私は慌てて口を塞ぐ。教室じゃないし、ここには私と先生しかいないからそう慌てることもないけど、ちょっと恥ずかしくて。私は両手で口元を覆う。
で、でもどうして藤堂さんが先生にマニキュアなんて渡したんだろう?
藤堂さんがネイルの勉強してるのは知ってるけど……。
目をぱちぱちさせて首を傾げながら先生を見上げると、先生はそんな私の反応に満足した様子でなぜか偉そうに胸を張った。
「実は3限が終わったあとの休み時間に、ウェザーフィールドくんと藤堂さんがマニキュア談議しているところに出くわしまして」
「クリスくんが? ああ、そういえば最近藤堂さんにネイルのこと教えてってくっついてましたね」
「そうなんです。なのに藤堂さんが随分と邪険にしてたから、先生ウェザーフィールドくんを応援してあげたんです」
「……へ?」
応援、って……。
ぽかんと口を開けたまま唖然と見上げる私に、先生はにっこりと一言。
「ウェザーフィールドくんが何か言うたびに『そうだそうだー!』って合いの手を入れてあげたんです」
「……藤堂さん、ますます煙たそうになりませんでしたか?」
「やや、さんスルドイ。実はその後『ウゼェ』の一言もらっちゃいました……」
「当然ですよ!」
とほほ、と肩を落とす先生だけど、藤堂さんの気持ちよくわかるなぁ……。
先生もクリスくんの援護どころか邪魔しちゃってるんだもん。悪意がないだけに余計にタチが悪いというか。
「ついでに『にしつけられ直して来い』って言われまして。それで先生、今日のお昼休みにさんを呼んだんです」
「しつけられ直して来いって……」
藤堂さんもすごいこと言うなあ……。
っていうか、それを真に受けちゃう先生も先生だけど。
久しぶりに先生と二人きりの時間だ、なんて思ってたけど。なんかもう脱力しちゃう。
私ははぁぁと盛大にため息をついた。
「やや、ため息は駄目です。幸せ逃げちゃいますよ?」
「ため息つかせてるの先生じゃないですか……」
「や、それは大変だ。だったらまた幸せ注入しなきゃ」
「……え?」
幸せ注入? ってどういうことですか?
って私が尋ねるより早く、ふわりと嗅ぎなれた薬品の匂いが鼻腔をくすぐって。
視界をあっという間に覆ってしまう、白。
ぎゅっと一度強く私を抱擁した先生は、真上から温かな笑顔を降らせていた。
「学校でこういうの、駄目ですって言ったのに」
「幸せ注入する間だけです。もういっぱいになっちゃった?」
「……もうちょっと」
「……うん」
ぽふぽふと頭を撫でてくれる先生の手が気持ちよくて、私はおずおずと手をまわして先生の背中側の白衣をきゅっと掴む。
幸せな時間。なんだか本当に幸せが注入されてるみたい。ふふ。
……って、話がそれちゃった。
「先生、それであのマニキュアは?」
「や、そうでした。実はそのあと藤堂さんが好きなマニキュア一個くれてやるから自分で勉強しな、って言ってくれまして」
「教え子から恵んでもらわないでくださいよ……」
はぁ、ってついついもう一度ため息ついちゃって、先生はもう一度ぎゅっと私を抱きしめる。
……もしかして、先生にハグしてもらいたいときって、目の前でため息ついたらしてもらえるのかな? なんて不謹慎なことを思ったのは秘密。
私が息苦しさを感じて先生の背中を叩くと、先生はようやく私を解放してくれた。
そしてデスクの上のマニキュアをとりあげて。
「先生、西本さんや水島さんがマニキュア塗ったところは見たことあるんですけど、さんはマニキュアしないんですか?」
「私ですか? 学校にはしてきませんよ!」
「さすがは僕の優等生。でも、デートのときにもつけてきたことないよね?」
先生の口からさらりと出たデートという言葉に赤面しながらも、私はこっくりと頷いた。
「マニキュア、持ってないんです。文化祭のショーで塗ってもらったり、藤堂さんの練習台になったときに塗ってもらったりはあるんですけど……。お店に並んでるの見ると綺麗だなって思うし欲しいと思うこともあるんですけどね」
「買わないの?」
「私、ウイニングバーガーでバイトしてるからマニキュア塗ってもすぐ落とさなきゃいけないし……そんな頻繁に塗ったり落としたりしたら、そんな小さな小瓶すぐなくなっちゃうでしょう? だから回せるお金が無くて」
私だってオシャレくらいめいっぱいしたい。
でもバイト代をそういうことに回す余裕なんてないのに、マニキュアなんて買っちゃったら絶対他も欲しくなっちゃうし。
だから、ガマンガマン。藤堂さんも気を遣ってくれて、私で練習する回数多くしてくれてるみたいだしね。
すると先生はそんな私の返事を、うんうん、って頷きながら聞いてくれてたんだけど。
「じゃあコレは僕から君へのプレゼント」
「えぇっ?」
藤堂さんから貰ったっていうそのマニキュアの小瓶を、私の手の中に落とす。
そして、その手の平を大きな自分の手でくるむようにぎゅっと握らせて。
「だ、駄目ですよ! 先生が使わないなら藤堂さんに返してください!」
「やや、それは駄目です。これは先生が貰ったんだからもう僕のものです」
「貰うまでの経緯聞いちゃってるんだから、私だって貰えませんよ!」
私は慌てて先生の手をほどいて、マニキュアを押し付けた。
そして両手をぱっと後に回して、絶対に貰いませんよって意思表示。
しばらく先生は眉をハの字にして子犬のような目をして私を見てたけど、その手には乗らないんだから。
「……わかりました。じゃあこれは先生が使います」
「そうしてくださ……へ?」
やっと解ってもらえたと思ったら。
先生が、使う? え? 今、先生が使うって言ったの?
私はぽかんと口を開けて先生を見つめてしまって。
すると先生はにっこりと微笑みながら、
「先生、練習します。そして上手くなったらさんに塗ってあげます」
「……先生」
ぽふっと私の頭に乗せられた大きな手。
そのあまりの優しさがなんだか気恥ずかしくて。私は俯いてしまう。
先生はいつだって、私に配慮してばっかりなんだから。でも、嬉しい。
ところが。
「それでさん、お願いがあるんですけど」
「なんですか?」
「お手本見せて下さい。多分藤堂さんにお願いしても断られると思うので」
「お手本?」
お手本って、マニキュアの?
え、でもどうやって?
って思いながら先生を見上げたら、もう一度押し付けられるマニキュアの小瓶。
そして先生は満面の笑みを浮かべながら、大きな手を差し出していた。
……って。
まさか先生、爪に塗ってくれって催促してるわけじゃ……。
「大丈夫。ここは化学準備室です。調合ひとつで除光液くらい作れちゃうんです。びっくりした?」
「……呆れました……」
そのまさかを確信してしまって、私は再度盛大なため息をついたのでした……。
「本当に塗っていいんですか?」
「いいんですいいんです。よろしくお願いします、先生」
「せ、先生って言わないでください。私だって、人に塗ってあげるの初めてなんですから……」
目の前のデスクに置かれた先生の手。いつも細くて綺麗な手だなって思ってたけど、やっぱり近くでまじまじ見ると男の人の手なんだなぁって思う。
それにもちょっとドキドキするんだけど、それよりももっとドキドキするのが今の私の位置。
「自分で塗るときの参考にするんですから、対面で塗られても困ります」
って言って、ひょいっと私は先生の膝の上へ。
ここ学校ですから! 何考えてるんですかっ!! ……って怒鳴っても先生は私の腰をがっちりホールドして離す気はないらしくて。
いつかこの日のセクハラを教頭先生に訴えてやるって思いながら、私はマニキュアの蓋を外した。
「あまり参考にならないと思いますけど……」
私はゆっくりとブラシを先生の爪に押し当てた。
緊張して手がちょっと震えてる。
私はゆっくりと先生の親指の爪にマニキュアを塗りつけた。
細かな偏光パールでも入っているのかな。玉虫色に淡く輝く藤色のマニキュア。
……なんか、節くれだった指に塗られた繊細なマニキュアがすごく違和感大だなぁ……。
「こんな感じに塗っていくんですよ」
「お見事です。ブラボーです。よくわかりました」
うんうんって何度も頷きながら、先生はようやく私を解放してくれた。
急いで離れて私は胸に手を置き深呼吸。もう、学校で先生と二人になるときは注意しなきゃだめだ!
先生はそんな私に構わず、いろんな角度からマニキュアの塗られた爪を見ていたけど、やがて予鈴が鳴り出して私に視線を戻した。
「さん、ありがとう。先生とっても嬉しいです」
「それならよかったです。それじゃあ先生、私教室に戻りますね」
「はいはい。午後も目一杯がんばってください。……あ、その前に」
出したままだったお弁当箱をランチマットで手早くくるんで、私は化学準備室のドアノブに手をかけた。
ところがそこに先生の待ったがかかり、私は先生を振り向いて。
先生はにこにこしながら、目の高さまで持ち上げたマニキュアの小瓶を振った。
「さんもご存知、先生は流行に詳しいんです」
「……はい?」
「だから、藤堂さんに好きなマニキュア持ってっていいって言われた時も、流行最先端を選びました」
「はぁ」
「さん、花言葉のマニキュアって知ってる?」
花言葉のマニキュア?
いたずらっ子のような笑顔を浮かべた先生を見ながら、私はどこかで聞いた言葉だなと思って首をかしげた。
「……そういえばはるひと密さんがその話題で盛り上がってたような……」
確か……今女子の間で流行ってるっていう、コンビニマニキュア。人気男性アイドルがCMしてるっていうのもあって、今は入手困難なマニキュアなんだって言ってたっけ? 私の家テレビないからどんなCMなのか知らないけど。
でも他にもうひとつ、人気の理由があったような……?
「そのマニキュアは花の色。大好きなあの人に塗ってもらえば、花言葉通りの関係になれちゃうおまじないつき☆」
すると、先生がぱちんとウインクしながららしくもない台詞を言って。
私がきょとんと先生を見返すと。
「先生、いつもいく定食屋さんでCM見ました。超似てたでしょ」
「あの、私の家テレビないんですけど……」
「やや、そうでした。ちなみにさんが僕に塗ってくれたのはホトトギスです」
「………………は?」
にっこにっこと邪気のない笑顔のまま、さらりと言い放った先生。
私が先生に塗ったマニキュアが、ホトトギス?
ホトトギスなら知ってる。アンネリーでも取り扱うことがある、園芸用のお花。
え? 花の名前? ってことはソレ、花言葉のマニキュア??
次の瞬間、私の顔面は火を噴く勢いで赤面!!
「せ、せ、せ、せんせぇぇぇっっ!!」
「もう遅いです。取り消し無効です。作戦成功!」
「だまし討ちなんてひどいーっ!」
「やや、恋は駆け引きなんですよ? 先生大人だからちゃーんと知ってるんです。えっへん!」
「えっへんじゃないーっ!!」
私は教室に戻ろうとした足を先生へと向けて、せまい化学準備室の中で先生を追い掛け回した。
もう、大人って本当にズルイんだからっ!!
ホトトギスの花言葉くらい、私だって知ってる。
あまりにも有名で、アンネリーで初めて見たときは意味もなく照れたこともある。
『 永遠にあなたのもの 』
「早いとこ上達して、今度は僕が君に塗ってあげるから」
「……もうっ」
ようやく捕まえた、というか捕まってくれた先生は、優しく私を抱きしめながら私にそう囁いてくれた。
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