「すいませんさん。今日の日直さん見ませんでしたか?」
 この先生の一言が、本日の私の災難のきっかけだった。


 こぼれ話2.出会い:クリスと水島編


「日直の彼女なら、美術室に行っちゃいましたよ?」

 放課後の教室。黒板消しをクリーナーにかけ終わった後には、もう誰も残ってなかった。
 私と一緒に掃除当番をしている子たちはみんな運動系部活所属。
 時間に厳しい運動系で遅刻は厳禁だから、あらかた掃除が終わってしまえばゴミ捨てなんかの細かいことは私が引き受けることにしてる。

 で、その中に今日の日直で若王子先生が探してる子もいたんだけど、彼女は美術部所属。
 でもなんだか今日は美術部顧問の先生に呼ばれたとかで、彼女もそそくさと去ってしまっていた。

「やや、一足違いでしたか」
「今行ったばかりだから、美術室に行けば会えると思いますよ?」
「うーん、実は先生これから職員会議なのですぐに教員室に戻らないといけないんです。……あのーさん」

 申し訳なさそうな顔をして、ぽりぽりと頭を掻く先生。
 言わんとしてることは容易に想像がつくし、今日はバイトのない日だし。

「何か言伝ですか? 私でよかったら美術室までお遣いしますけど」
「ややっ、さすがは優等生さんです。先生が言う前に察してくれるなんて」

 誰でもわかります、先生。

 先生は首をちょっと傾げて、にっこりと微笑んだ。

「すっかり忘れてるみたいなので伝えてください。今日の日誌がまだ出てませんよー、って」
「わかりました。えっと、化学準備室のほうに届けてもらえばいいですか?」
「はい。お願いします」

 生徒の私に律儀に頭を下げる先生。

 さてさて。それじゃあ行き違いになる前に伝言してこようかな。



 はね学の校舎1階奥にある美術室。実は入るの初めてだったりするんだよね。
 芸術科目の選択は一番購入品目の少なかった書道にしちゃったし。
 中学生の頃は美術部所属だったから、初めてなんだけど少し懐かしいカンジもする。

「失礼しまーす……」

 油絵の具の独特なにおいが充満する部屋に、おそるおそる踏み入ると。

 いたいた、日直の彼女。
 脚立に上って、棚の上のキャンバスを取り出そうとしてる。

「ん? あれ、どうしたのさん」
「若王子先生から伝言頼まれたの。日誌まで出てませんよーって」
「あーっ、忘れてた! まだ何にも書いてないや!」

 引き出しかけたキャンバスから手を離して、彼女は脚立から飛び降りる。

「あ、でもどうしよう。このキャンバスを顧問にすぐ届けなきゃいけないのに」
「じゃあ私がキャンバスを顧問の先生に届けておこうか? 日誌は日直が書かなきゃマズイだろうし」
「いいの? ごめんね、さんっ! あれ、私が少し引っ張り出したキャンバスから右5枚なんだけど、お願いしていい?」
「うん、任せて。あ、日誌は化学準備室に届けてくださいって」
「ありがとうっ!」

 ぱちんと両手を合わせて私を拝んでから、彼女は急ぎ足で美術室を飛び出していった。
 慌しいなあ……と彼女を見送ってから、私は棚の上のキャンバスを見上げる。

 彼女が言っていた、引っ張り出しかけのキャンバスから右5枚、だっけ。

 私は脚立に上って手を伸ばした。

 が。

「うっ、くっ、し、身長が足りない……」

 不安定な脚立の上で目一杯背伸びしても、彼女が引き出したキャンバスの端を軽くつまむ程度しか届かない。

「ふはぁ……」

 一度手を引っ込めて、まわりに他に足場になりそうなものがないか見回すけど……ないなぁ。
 ううう、仕方ない。
 私はもう一度脚立にのぼって、引き出すキャンバスに慎重に狙いを定めた。

「こ、この角度と踏み切り位置、えーとジャンプの勢いで、いける! ……多分!!」

 いつか聞いた若王子先生のジャンプの口真似を適当にして、私はぐっと膝にバネを溜めた。

「えいっ!」

 そして私はジャンプした!
 私の伸ばした右手は、狙いたがわずキャンバスを掴む!

「よしっ!」

 そのまま落下の勢いでキャンバスをぐいっと引き出す。

 と。


 ずぽ


 私が掴んだキャンバスから右5枚……だけじゃなく左右全て……っていうか、棚の中のキャンバス全てが全部抜けた!!
 ぎゅうぎゅうに詰め込みすぎだよ、美術部!!

 当然、天地左右の支えを失ったキャンバスは自由落下。
 勿論、先に落ちるであろう私の上目掛けて。

「うきゃああああああっ!!」

 キャンバスって表面は布だけど、大部分は木枠だから、あたると普通に痛いんだろうな。
 なんて冷静に分析してる間もなく。

 私は突然のキャンバスの雨に打たれて意識を手放したのでした……。



 さん! さん!

 どこかで私を呼ぶ声がする。

 しっかりしてさん!

 女の人の必死な声が重なる。

 アカン〜、美人発明や〜。

 ……ん?

「クリスくん、それを言うなら美人薄命よ。もう、それに彼女失神してるだけでしょう?」
「あ、それやそれ。惜しい」

 うっすらと目を開けると、飛び込んでくる黒と金のコントラスト。

「あっ、気がついた! 大丈夫?」
「え……」

 長くて艶やかなロングストレートに、美しく響くソプラノ。
 目を開けた私ににっこりと女神の微笑みを向けてくれる彼女は、私が体を起こすのを手伝ってくれた。

「えと……水島さん?」
「私のこと知ってるの?」
「そりゃあ、もう」

 きょとんとする彼女だけど、そんなの知らない人なんているわけない。
 入学早々、はね学お嫁さんにしたい候補ナンバーワンに君臨した、水島密さんだ。
 うわぁ、近くで見るの初めてだけど本当に綺麗な人。

「あ、あれ? なんで私こんなとこで……?」
さん、キャンバスの下敷きになってたのよ? 私とクリスくんが美術室に入ったら、キャンバスが山のように崩れてて。かろうじて足だけ見えてて、ね?」
「せやせや。ボクびっくりしたわ〜。痛いとこないん? ちゃん」

 、ちゃん?

 聞きなれない呼び名に左手方向を振り向けば、そこにはゴージャスブロンドに色とりどりのカラーリボン。
 あ。

「クリストファー……くん? だよね?」
「うん。クリスでえーよ?」

 にこーっと浮かべる笑顔は無垢なエンジェルスマイル。
 この人も知ってる。黒髪だらけの学校で金髪ってだけでも目立つのに、二宮金次郎像を金色にペイントしたりするんだから、校内知名度はむしろ水島さんよりも高いかも。

「なんで二人とも、私の名前知ってるの?」
「さっきちゃん発掘しとる時に、1−Bの美術部員が来てちゃんの名前絶叫しとったで?」

 あ、彼女戻ってきたんだ。

「そ、そっか……。あの、水島さん、クリスくん、助けてくれてありがとう。ふたりとも、どうしてここへ?」
「気にしないで、さん。偶然でも通りかかれてよかったわ」
「ボクの新作を密ちゃんに見せよ思て連れてきたんよ。ボク、美術部員やねん」
「あ、そうだったんだ」

 はぁぁ、助かった。
 あのまま誰にも気づかれずに油絵に埋もれてるのって、ちょっとホラーだよね……。
 散らばってるキャンバスに描かれてる絵って、おどろおどろしい抽象画ばっかりみたいだし。

 って。

「ああーっ!! ったたた……」

 大変なことに気づいて慌てて立ち上がったら、体の節々に痛みが走った。

さんっ、怪我してるの!?」
「あ、大丈夫大丈夫、ただの打ち身だと思う。それよりこれ、どうしよう……」

 慌てて水島さんが駆け寄って、よろけた私を支えてくれた。ああ、美人でなおかつ気配りのいい女神さま。きゅん。

 なんてときめいてる場合じゃなくて。

 私は足元に散らばったキャンバスを見下ろした。
 美術部の彼女に頼まれた仕事。

 『彼女が引き出したキャンバスから右5枚』って……どれ?

「どうしたん、ちゃん?」
「あああ、クリスくん〜」

 同じく美術部員のクリスくんに事情を説明する。
 もう、言われたことも遂行出来ない上に、余計な仕事まで増やしちゃうなんてっ!

 ところがクリスくん。
 私の説明をなんら困った様子もみせずに相槌打ちながら聞いていたと思ったら。

「あー、多分あれやな? この間先輩たちが描いとった印象派の習作探してたんとちゃうかな。ここの棚は抽象画ばかりやし、すぐ見つかるやろ」
「ほ、本当? よかったぁ〜」

 クリスくんの言葉にほっと一息。
 私は水島さんに促されるまま椅子に腰掛けた。

「あ、でも私、抽象画とか印象派とか、あんまりよくわからないから探せないかも」
ちゃんはゆっくりしとればええんよ〜。さっき若ちゃんセンセ呼びに行ってもろたし、センセが来たらちゃん帰ったほうがええよ?」
「でも、私が言われた仕事なのに」
「いいのよ、さん。あとは私とクリスくんでやっておくから。ねっ?」

 ぱちんと片目をつぶって可愛らしく。もてるはずだよ、水島さん。
 クリスくんもにこにこしながら水島さんに同調して、「なー?」と可愛く首を傾げた。

 なんだろうこの癒しのエンジェル隊は……。

 二人のエンジェルスマイルにほんわりする私。
 そこへ。

 ガターン!!

さんっ!! 無事ですか!?」

 美術室の両開きの扉を盛大に壁に打ち付けて、白衣姿の若王子先生が飛び込んできた。
 相当急いできたんだろう。息があがって頬も紅潮してる。
 その後に、日直の彼女。彼女もドアに手をついて、はーはーと肩で息をしていた。

「せ、せんせぇ?」
「大丈夫なんですか!? 爆撃くらったって聞きましたよ!?」

 美術部の彼女、一体どういう報告を。

 先生はずかずかとやってきて、椅子に腰掛けたまま目を丸くしてる私を上から下まで何度も見て。

さん、病院に行こう!」
「うきゃあっ!?」

 ひょいっと。

 お姫様抱っこされてしまった!
 うわ、うわわわわ!!

 水島さんも目を丸くして口に手をあててるし、クリスくんに至っては、

「若ちゃんセンセ、カッコええなぁ!」

 ……ちょっと違う方向に感動してた。

「せ、せんせ、大丈夫です! 脚立から落ちたときにちょっと体ぶつけただけですから!」
「そんなのちゃんと検査してみないとわかりません。もし頭を打ってたら、あとから症状が出る場合もあります」
「コブもできてないし、大丈夫ですってば!」
さん、先生の言うことを聞いてください」

 先生は私を抱き上げたまま、眉根をぎゅっと寄せて私の目を真剣な瞳で見つめた。

 うわぁ、顔近い……。
 女子の間で密に流れてる『はね学イケメン名簿』の上位にいつも名前が載ってる若王子先生。
 こんな間近でその顔を見る機会なんて当然なかったけど、やっぱり端正な顔してる。

 か、かっこいいなぁ……。

「先生は担任として、受け持ちの生徒の健康を守る義務があります。なによりさんは一人暮らしなんだから……あとから症状が出ても、対応が遅れる可能性もあります」
「は、はい」
「だからここはおとなしく言うとおりにしてください。坪内先生に車をまわしてもらって病院に行こう。救急車は嫌でしょう?」
「い、いやです」
「うん。じゃあ行こうか」
「はぁ……って。降ろしてくださいよ! 歩けます、自分で!」
「そうですか?」

 私を抱き上げたまま美術室を出ようとする先生を、慌てて止めた。
 この間『一緒に帰って噂されると困るし……』とかなんとか言って2年生の下校のお誘い断ってたくせに!

 このまま校内歩いてたら、噂どころじゃないでしょうが!

 私は先生の腕から解放されて、一度息をついた。
 すると水島さんが。

「もったいない、さん。あのまま連れていってもらえばよかったのに。若王子先生にお姫様抱っこなんて、二度とない経験でしょう?」

 くすくすと笑いながらも、楽しそうにそんなことを言って。

「私だったらここぞとばかりに甘えちゃうかもしれなかったなー」
「み、水島さん……案外……」

 ミーハーかも……。

「さぁさん、急ごう。検査は早いほうがいい」

 先生に促される。私は先生の後を追おうとして、くるりと水島さんとクリスくんと、日直の彼女を振り向いた。

「仕事増やしちゃってごめんね! あと、よろしくおねがいします!」
「ううん、さん、私こそ無茶なことお願いしちゃってごめんね!」
ちゃん、今日は安静になー?」
さん、またね?」

 優しいお見送りを受けたあと、私は小走りで若王子先生のあとをついていった。


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「これがクリスくんと密さんとの出会いです」
「全くの偶然だったんですね? これはこれは、運命の素敵なイタズラです」
「そして若王子先生がちゃんと先生という仕事をしてるんだなーって、初めて実感した時でした」
「……それ、ヒドイです、ちゃん……」

「こうなると他の人との出会いも気になってきました。ウェザーフィールドくんと水島さんのあとには誰と知り合ったの?」
「えーっと……確か、夏休み中に藤堂さんと知り合いました!」
「夏休み中に?」
「はい。実は……あ、ここに藤堂さんの写真がありますね」

 ぺらり

「あはは、体育祭の応援団やったときのだ。これ、女子の間で焼き増し依頼すごかったんですよ」
「やぁ、これは勇ましい。確かにカッコいいです」
「初めて会ったときから藤堂さんはカッコよかったですよ。ナンパ男をこう、ちゃっちゃっと撃退してくれたんです!」
「ナンパ? ちゃん、ナンパされたの?」
「そうなんですよ。しかも電車の中で! 逃げ場なくて最悪でした。周りの人はみんな見てみぬ振りだし。藤堂さんがいなかったらどうなってたか……って、先生どこ行くんですか!?」
「ちょっと藤堂さんのところへ菓子折り持って謝辞を……」
「いつのお礼言うつもりですか! 鼻で一蹴されて逆に説教されるのがオチですよ!」
「……ちゃん、最近僕の評価ヒドくないですか……」

 こぼれ話3に続く。。。

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