「やや、降ってきましたね」
「雪ですか?」
「いえ、まだ雨みたいです」


 小話9.勤労学生、目撃ドキュン


 若王子先生は窓から身を乗り出して外を見てたけど、やがて外気に身を震わせて窓とカーテンをしっかりと閉めた。

「今日は冷えますね。……あ、しばれるねぇ、ですね?」
「水道凍るくらいにならないと使いませんよ? この程度なら道民はあったかいねーの一言です」
「や、さすがは北海道です。氷点下の世界って、先生想像つきません」

 先生はテーブルの前に座って、私が差し出したシチューを受け取った。
 焼いたバゲットとミルクシチューだけの簡素な夕食。それでも先生は満足そうに手を合わせた。

「それでは今日もおいしくいただきます」
「どうぞ、召し上がれ」

 私もエプロンをしたまま先生の対面に座った。


 12月最初の週。来週からははね学生活最後のテストが始まる。

 で。

 なんで平日の夜8時も過ぎて先生がうちで夕食を食べているのかと言うと、話は今週頭に逆戻る。
 月曜日の昼休み、お弁当を食べ終わった先生にちょいちょいと手招きされて私は化学準備室についていった。
 化学準備室の扉を閉めるなり、先生はぎゅうぅと私を一度強く抱きしめてから、にこっと笑顔を見せた。

「せんせぇ……学校でこういうのは極力避けましょうね、って言いましたよね?」
「極力避けてますよ? 今が特別です」

 とかなんとか言って、化学準備室に誰もいないときは毎回こうなんだから。
 私は頬を染めつつも、両手で先生を押し返した。

「そ、それで、どうしたんですか?」
「うん。実はさんにお願いがあるんです」
「なんですか?」

 聞き返すと、先生は困ったように眉尻を下げた。

「実は……先生がいつもおいしく晩御飯を食べてる定食屋さんが、1週間お店を閉めるんです。ご夫婦で海外旅行だそうです」
「そうなんですか」
「そうなんです。だから、今日から1週間、さんの家で晩御飯食べさせてもらえませんか?」

「……は?」

 私はたっぷり間を置いて、間抜けな声を出した。

「は、あの、うちで?」
「だめですか?」
「いやあの、だめですか、って言われると……」

 アナタ、自分で教師と生徒の節度を持って、って言ったの忘れてるでしょう。

 突っ込むべきか否か。
 とりあえず私は反論を試みる。

「あの……今週からテスト期間ですよね? 来週にはテストで。その時期に教師が特定の生徒の家に上がりこむというのは、どうなんでしょう……」
「…………」
「別の定食屋さんに行くとか、ファミレスに行くとか……」
「…………」

 すん、と。先生、すすり上げた。

 あああ、拗ねたっ。

さん、冷たいです。恋人の危機に対して、この仕打ち」
「ちょ、せんせぇ、だって今は」
「もういいです。先生は一人寂しく猫とツナ缶で晩酌しますよ1週間」
「せんせぇぇぇ」

 先生はキャスター付きの椅子の上に体育座りして、くるくると回転しだした。
 ……なんなんだ、この拗ね方……。

 あああもう、しょうがない!

「わかりましたっ! もう、拗ねないでくださいよ! でも、私バイトがあるから夕飯の時間遅いですよ?」
「構いません。ありがとう、さん。きっとそう言ってくれると思ってました」

 ぱっと顔をほころばせて、椅子から飛び降りた先生は再び私をきゅぅと抱きしめた。

 これから先、ずっとこんな関係なんだろうな、私と先生って……。
 先生に体を預けたまま、私は心の中で盛大にため息をついた。


 ……ということがあって、今日は4日目の木曜日。
 アンネリーのバイトを終えて、商店街の喫茶店で待ってた先生と合流して、遅くまで開いてるスーパーで買い物して。
 先生も野菜の皮むきを手伝ってくれたりして、今日も一緒に晩御飯。

 本当はいけないことだってわかってるけど、やっぱり先生と一緒に過ごせるのは嬉しい。
 学校じゃないから、みんなの視線を気にすることもないし。

「やや。さん、楽しそうですね?」
「え? そうですか?」
「うん。口元がほころんでる。何かいいことあった?」

 先生は早々に食べ終わって、頬杖をついて私を見てた。
 私はちょっと赤くなりながらも残りのシチューを飲み込んだ。

「なんでもないです。先生、おかわりいりますか?」
「いりません。話題をそらそうとしても無駄ですよ」

 ずい、とテーブルを脇に押しやって、先生は私の両腕を掴んで引っ張った。

「わ」

 ぽすん、と。
 先生の腕の中に招き入れられて、そのまま拘束される。
 見下ろす先生の瞳は優しくて。
 私もおとなしく先生の肩にコトンと、頭を預けた。

「先生あったかい」
「うん」
「寒くないですか? 私、暖房ケチっていつも布団かぶってるから」
さんがあったかいから平気です」

 そういって、私の頬を優しく撫でてくれる先生。

 ああ、幸せだなぁ……。
 大好きな人と、こんな風にゆったりと過ごせるなんて。

 私は甘えるように先生のセーターの胸元をきゅっと掴んだ。
 先生はその私の手に自分の手を重ねる。

「……こんな風に君と過ごすようになってから、いくつか発見したことがあります」
「なんですか?」
さんは、実は案外甘えん坊さんです」
「私、末っ子でしたから」
「それから、いい子にみせかけて、実は悪い子です」
「それはちょっと心外ですよ。私のどこが悪い子なんですか?」

 む、と口をとがらせて先生を見上げてみれば。
 優しい、というか、妖しい光を湛えた先生の瞳。

「こんな風に、オトナの僕を魅了してしまうところです」

 …………。

「えいっ」

 ずべしっ

「っ! い、痛いです、さん……」
「おとうさん直伝チョップです!」
「うう、さんのおとうさんて、武闘派なんですね」

 そりゃあはね学一のチョップ魔ですから。
 先生は私がチョップを入れた即頭部をさすりながら、うらめしそうに私を見下ろしてる。
 その目はいつもの先生の目。

 よしよし。

 私は先生の腕の中から離れて立ち上がる。

「先生、私ちょっと洗い物片付けちゃいます」
「え〜……」
「寂しいですか?」
「寂しいです」
「じゃあどくろクマでも抱いててください」
「……さん、冷たい」

 すん、とすすりあげながらも、先生はどくろクマを抱きしめて床にごろんと寝転がった。背中と足も丸めて、ごろごろ。
 ……なんでこの人、いちいちこんなに可愛いんだろう……。

 私はエプロンを結びなおして食器を台所に運んで。

 その時だった。

 ぴんぽーん

 インターホンが鳴ったのは。
 私は先生と顔を見合わせた。
 こんな時間にうちに訪問してくる人なんて先生以外いない。
 叔父さんや叔母さんから荷物を送ったっていう連絡もない。

 私は疑問に思いつつも通話ボタンを押した。

「はい?」
ーっ! ちょっと温まらせてんかー!?』
「っ、はるひ!?」
『マジで寒いんだって! 少しでいいからいれてくんねぇ!?』
「は、ハリーも! どうしたの!?」
『ハリーと一緒にライブ行ってきてん! 雨降ってきて、走って雨宿りできるとこまできたんやけど結構濡れちゃって、もーめっちゃ寒いねん!』
『そういえばん家近かったな、って思い出してよ。な、頼むって!』

 ど、ど、ど、どうしよう。

 私は先生を振り返った。
 でも、先生は落ち着いたもので。

さん。西本さんと針谷くんは、君にとって信用に足る人?」
「え、そ、それはもちろん!」
「うん。じゃあ入れてあげたほうがいい。テスト前に風邪を引かせたら可哀想だ」
「先生……」

 先生は立ち上がって私の元まで来て、髪を撫でてくれた。

「二人に、僕たちのことがばれても平気?」
「……先生がいいなら、私はいいです」
「そう」

 先生はにっこり笑って、開錠のボタンを押した。

「西本さん、針谷くん、上がっておいで。今なら、さんのあったかいシチューが貰えるよ」
『へ? ……若ちゃんっ!?』
「うん。上で待ってます」

 先生は通話ボタンを切る。

 どきどきする。
 はるひとハリーとはいえ、先生と付き合ってるんだって、初めて他人にばらすんだもん。

 先生は、そんな私を後ろから強く抱きしめてくれた。

「二人の前でこんなことするわけにいかないから。今のうちに、ね?」
「先生……」
「大丈夫。さんが信用してる二人なら、僕たちのことを悪いようにはしないはずだ」
「はい、そう思います」

 私はくるりと振り向いて、先生の胸に顔をうずめた。

 ぴんぽーん

 玄関のインターホンが鳴る。
 私と先生は名残惜しそうに離れて、はるひとハリーを迎え入れた。



 テーブルを挟んで台所側に私と先生、部屋側にはるひとハリー。
 温めてから二人に出したシチューは、もうだいぶぬるくなってしまっているようだ。
 はるひとハリーは、顔を赤くしながら、先生の口からコトのあらましを聞いて呆然としていた。

「……というわけです。学校やみんなには、シーッ、ですよ?」
「あ、ああ、そりゃ、なぁ……?」
「う、うん。ぜ、絶対言わへん、けど……」

 はるひとハリーは顔を見合わせて、大きく息を吐いた。

「びっくりしたわ! いきなしの声から若ちゃんの声になるんやもん! 学校に隠れてラブラブすんのも、大変やねんな?」
「べ、別にラブラブしてるわけじゃないよっ!」
「だったらなんで若王子がこんな時間にの部屋にいんだよ。認めちまえよ、っ!」
「ら、ラブラブしてるのははるひとハリーでしょ!? テスト前に、仲良くライブなんて行っちゃって!」
「そ、それは、あれだ。……なぁ!?」
「そ、そうやっ、あれやねん!」
「やや、どれでしょう?」

 先生以外の私とはるひとハリーは真っ赤になりながら。
 なんかおかしなテンションになりながらお互いのことを言い合って。

 ぴんぽーん

 またインターホンが鳴った。
 4人で顔を見合わせる。
 今度こそ、誰?

「は、はい?」
『おーか? 悪いな、こんな時間に』
「真咲先輩っ!?」

 通話口から聞こえてきたのはまぎれもない真咲先輩の声。

「ど、ど、ど、」
『……なんだ? どうかしたのか?』
「い、いえっ。どうしたんですか?」
『どうかしたかって……お前気づいてねーな? アンネリーに携帯忘れてっただろ』
「え!?」

 私はぱっと鞄を振り返る。
 バイトが上がる時間はほぼ一定だから、先生とは携帯で待ち合わせのやりとりをしてるわけじゃない。
 そういえば、今日はお店の時計の電池交換で携帯出したんだっけ……。

「す、すいません真咲先輩。今とりに行きます!」
『そっか? んじゃ下で待ってるぞ』

 通話ボタンを切って、私は急いで靴を履いた。

さん?」
「あ、真咲先輩が携帯届けてくれたんです。すぐ戻ります!」

 先生にそう言って、私は家を飛び出した。
 エレベーターははるひとハリーが来たときのまま最上階にあったからすぐに乗ることができた。

 1階の玄関ホールで、真咲先輩は白い息を吐きながら、よ、と右手を上げる。

「すいません! こんな寒い中届けてもらっちゃって」
「いーっていーって。どうせ車だしな。ほら、携帯。もう忘れんなよ?」
「は、はい……」

 真咲先輩から受け取る、ストラップもなにもついてない白い携帯。
 もう一度お礼を言おうと真咲先輩を見たら、先輩はしきりに上のほうを気にしている様子。

「真咲先輩?」
「あ? あー、うん。なんだ?」

 その顔が赤いのは寒さのせいなのか、それとも。

 っ!!!

 私の顔が瞬時に火照る。

「せ、せ、せ、先輩っ……中、見ましたっ!?」
「あー……」

 真咲先輩は一度口ごもって。
 困ったような笑顔を浮かべて、ぱんっと手を打ち合わせた。

「悪いっ! 最初誰の携帯かわかんなくて、着歴だけ見た」
「〜〜〜〜〜!!」

 私の口から声にならない悲鳴が上がる。

 着歴って。

 普段、あかりやはるひとはメールのやりとりしかしない。
 それでもみんなは気を遣って、最小限のメールしか送らないでくれている。

 この携帯に電話をかけてくるのは、若王子先生だけだ。
 私の携帯の着信履歴は、先生の名前だけがずらっと並んでいる。

 そ、それを。
 真咲先輩に見られたぁぁぁぁ!!!

「あ、あー、? お前、若王子と、そういうことになってんの?」
「……………………ハイ」

 消え入りそうな声で返事する私。
 真咲先輩も「そ、そっかー。ははは……」と、作り笑いを浮かべて。

「今も、来てるのか?」
「……はい」
「そっか。……よし、先輩は応援してるからな。何かあったら、いつでも相談しろよ?」
「真咲先輩、ありがとうございます」
「ん」

 わしゃっといつものように私の頭を撫でて、先輩は踵を返して。

 ふと立ち止まり、かと思ったら物凄い勢いで振り返って近寄ってきて、がしっと私の両肩を掴んだ。

「まさかとは思うが、。お前、若王子に、無理矢理、なんてことは……」
「な、な、な、ないですよ、そんなことっ!!!」

 私は真っ赤になって叫んだ。

 ……そりゃ、時々先生の目が妖しくなることがあるけど。
 その時は瑛チョップで正気に戻してるしっ。

「あ、いや、うん。それならいいんだ。はは、変なこと聞いて悪かったな」

 うう、真咲先輩の理性が、今とても貴重に感じられます……。

「じゃ、じゃあな。あんまり遅くならないうちに帰ってもらえよ?」
「は、はい。先輩、ありがとうございました!」

 私は先輩の車が発車するまで見送って、家に戻った。

 玄関の中に入ると、暖房をけちっているとはいえやっぱり暖かい。

「今戻りました〜」

 と。

「ほなな〜、! アタシらもう退散するわ〜!」
「お、おう! もうしっかり温まったしな! じゃあな、!」
「え、ちょ、ちょっとはるひ? ハリー!?」

 私の脇をすべるように玄関を出て行った二人。
 どうしたんだろ、あの慌てっぷり。
 ばたんと目の前でドアを閉められて、追いかけるタイミングも逸してしまった。

さん」
「あ、先生。今戻りま」

 靴を脱いで振り返った先には。

 にこにこ笑顔の若王子先生。
 ただし、背後にどす黒いオーラをプラスして。

「せ、せんせぇ……?」
「西本さんと針谷くんから、今、さんの交友関係についていろいろ聞いてました」
「は、はぁ」
さんはたくさん友達がいますよね? そしてその友達みんなに親身になって接してる。とても優しい人だ。先生、さんのそういうところ大好きです」
「そ、それは、どうも……」

 じりじりとにじり寄る先生に、私もずるずると後退る。
 こ、この笑顔に宿る威圧感はなんなんでしょう……?

「佐伯くんと」
「は、はい?」
「キスしたんだって?」
「〜〜〜!!??」

 私の反応に、先生の笑顔が引きつった。

 は……はるひーっ!! ハリィィィッ!!!
 な、なんて余計なことをっっ!!!

「あああああれは事故チューでっ!!」
「一部始終は聞きました。でも、どうして教えてくれなかったの?」
「だだだだって、そんなの」
「後ろめたいことでもあった?」
「そ、それはないですっ!」
「今どもった」
「どもってないですっ!!」

 動揺のあまり、うまい言い訳も思いつかない。
 私はずるずると部屋の奥へ追い詰められて、ぺたんと壁に背をついた。

 この頃には先生の顔から笑顔も消えて、ただ悪魔のような黒いオーラしか見えなくなって。

「せ、先生だって、あかりと事故チューしたじゃないですかっ!」
「あ、そういうこと言いますか。あの時は君もいたし、ちゃんと理解してくれてると思ってたのに」
「だったら、瑛とのことも理解してくださいよ!」
「佐伯くんは名前で呼ぶのに、僕はいつまでも先生って呼ばれてる」

 そんな無茶な!!

「反省の色が無い」

 先生の目が妖しい光を帯びる。

「いやあのだってそれは」
「そういう子には…………」

 ひ え え え え ! !

「おしおきだっ」
「うきゃあああああっ!!??」





 翌日。

「海野さん」
「ハイ」
「小野田さん」
「ハイ」

 いつものように始まる、いつもの日常。
 教壇では先生が出欠を取っている。

「…………」

 あるとき、一瞬間が開いて。

「佐伯くん」
「はい」

 ゾォォォォォォッ!!

 刹那。
 クラス中を絶対零度の冷気が駆け巡った!! ……ような気がした。

 思わずざわつくクラスメイトたち。
 今の冷気の発信源は、どう考えても。

「やや、みなさん静かにしてください。えーっと、志波くん」
「は、はい」

 先生は何もなかったかのように出欠を取り続ける。

 だめだ。

 このままじゃ。

 瑛が、死ぬ!!


 ……とは思ったんだけど。

さん」
「はひ……」
「やや、具合でも悪いんですか?」
「……なんでもないです……」

 机に突っ伏したまま動く気力のない私は、瑛の無事だけをひたすら祈ることしかできなかったのでした……。

 ……オトナを怒らせるもんじゃないデス……

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