壁にかけてある制服を見た。
これを着るのも明日で最後。そう考えるとなんだか感慨深いな。
一人で北海道を出てきて3年間……少しは成長できたのかな。
66.羽ヶ崎学園第21回卒業式
教室で配られる造花。制服につけて、これで卒業式にのぞむ。
「とうとう来てしもうたな、卒業式……」
「そうだね。早かったな」
桜が咲くにはまだ早い3月1日。
いつもの登校時間に、いつもどおりにやってくるクラスメイト。
それも今日で見納めだ。
早めに来てたはるひとしんみりおしゃべりしてたら、元気良く教室のドアが開く音がして、案の定元気な声も聞こえてきた。
「おっはよーちゃん、はるひちゃん♪ とうとう来てもーたんやねぇ、卒業式」
「おはよう、クリスくん、密さん。来ちゃったね」
私とはるひの元にクリスくんがやってきて、いつものようにぴったんこぎゅー。
「なんや、これで明日からいつものように会えへんくなるの、寂しいわー。ちゃん、寂しなったらいつでも呼んでな?」
「うん。クリスくんは国に帰っちゃうんだもんね……。いつでもメールしてね!」
「私も日本を離れるから、簡単には会えなくなっちゃうな。さん、向こうに行っても、メル友してね?」
「あったりまえだよ! サックスデビューしたら、すぐに教えてね!」
背後からクリスくんに抱きつかれたまま、密さんと固い握手。
日本を離れちゃうと、さすがになかなか会いにはいけないけど。
友情に国境はないよね?
「おはよう、くん。門出にふさわしい、すがすがしい天気だね」
「あ、おはよう氷上くん! そうだね、雲ひとつないもんね!」
「おはようございます、さん」
「おはよう、小野田ちゃん。……やだなぁ、小野田ちゃんてば。泣くの早いよ」
「ま、まだ泣いてませんっ! これは、春の日差しが目にきつくて……!」
いつも通り、きっちり余裕を持って登校してきたのは氷上くんと小野田ちゃん。
私は造花をふたりに手渡して、小野田ちゃんの頭をぽんぽんと撫でた。
「一流大学の受験、手ごたえあったんでしょ? 何も憂いなく卒業できるね、二人とも!」
「ああ。それもこれもくんのお陰だと思ってるよ。なぁ、小野田くん」
「はい。さん、ありがとうございました!」
「へ? わ、私なにかお手伝いしたっけ?」
いきなり二人に頭を下げられて困惑する。
すると二人は顔を見合わせてくすっと笑った。
「3年間、くんを目標に切磋琢磨したお陰で勉学に憂いナシ、となったようなものだからね」
「それに、そのお陰で私たち……」
私、たち?
そういえば、先ほどからずっと繋がれてる、氷上くんの右手と小野田ちゃんの左手。
って、なにーっ!?
「こらーっ!! いつの間にっ! 報告遅いよっ。卒業式当日なんて、お祝いできないじゃない!」
「ははっ、予想通りの反応だよ、くん」
「そうですね! ようやくさんを出し抜くことができました!」
「もぅっ。……でもおめでとう! 二人がそうなって本当に嬉しいよ!」
私は繋がれた二人の手をぎゅっと握り締めた。
よかったね、小野田ちゃん。思いが通じて。よかったね!
「おいおい……朝からもう青春モードに入ってんのかい」
「あ、藤堂さんおはよっ!」
「オハヨ。アンタ、元気そうでよかったよ」
にやりと笑みを浮かべて、かばんを肩にかついでやって来た藤堂さんが席につく。
「あれから、黒服は?」
「うん……会ってない。先生のほうにも接触はないみたいなんだけど……」
「そうかい。気を引き締めとかないといけないね」
藤堂さんの言葉に大きく頷く。
卒業という節目に当たって、いまだ気がかりがあるということが嫌だけど仕方ない。
私がしっかりしなきゃいけないんだから。
「だからって学校内にまで踏み込んではこないだろ」
「志波くん」
「西本や海野と、今日は存分に青春してこい」
「え、志波くんもだよ? 今日は帰りにみんなで卒業記念プリクラ撮りに行くんだからね!」
「……マジか」
藤堂さんのあとに遅れてやってきた志波くん。
うんざりした口調だけど、表情は笑顔。
志波くんのその優しさに、どれだけ救ってもらえたことか。
「オッス、」
「あ、ハリー。オッス! 今日も音楽室登校?」
「まぁな。今日でもう遠慮なく音を出せる場所がなくなるっつーのが痛ぇな」
ふふ、ハリーらしい。
ハリーはギターを教室の後ろに置いて、はるひの机に腰掛けた。
「ん? あかりがまだ来てねぇじゃん」
「そうなの。いつもは早いほうなのにね、あかり」
窓際の後から2番目。あかりの席。
結局、瑛とは一度も連絡が取れないまま卒業を迎えてしまった。
謝ることもできないままお別れなんて。
ううん、私よりもあかりのほうが辛いはずだ。
進路を決めて前を向いたつもりでも、大好きな人と仲違いしたまま離れ離れになるなんて、辛すぎる。
と。
「ちゃん!!」
本鈴が鳴って、それと同時にあかりが教室に駆け込んできた。
「ど、どうしたのあかり……」
よっぽど焦って来たんだろう。
髪は乱れてしまってるし、肩で息をついて、みんなの机にぶつかりながらよたよたとやってくる。
「ちゃん、今日ね、来たの!」
「は? な、なにが?」
「メール! あのね!」
あかりが私の両腕をがしっと掴んで何かを伝えようとしてる。
大きく深呼吸してから、私を見上げて。
「はい、みなさん。席に着いてください」
ああもう! 先生タイミングよすぎ!
あかりが何か言おうとした瞬間を見計らったかのように、若王子先生が教室の中に入ってきた。
「さん、海野さん。席に着いてくださいね」
「はい。あかり、あとで教えてね」
「う、うん……」
あかりは落ち着かない素振りを見せながら席につく。
どうしたんだろう、いつものほほんとしてるあかりがあんなに取り乱すなんて。
私が席につくのを確認すると、先生は教壇の上でぐるりと教室内を見回した。
今日の先生はいつもよりももう少しかちっとしたスーツに身を包んでる。
だけど、表情はいつもどおり、優しいみんなの若王子先生。
「おはよう、みなさん。今日と言う日を、ついに迎えてしまいました。3年間、悔いなく過ごしてこられましたか?」
穏やかな口調で切り出して、再びみんなを見つめる先生。
「勉学にかけた青春、部活動にかけた青春、友情を深めた人も、良きパートナーにめぐりあえた人もいるでしょう」
「若ちゃんもなー!」
あはは……
いつもの野次係が叫ぶと、クラス中が一斉に笑い出した。
私のこと言われてるんだってわかってるけど、ついついつられて笑っちゃう。
先生は小首を傾げてはにかむように微笑んで。
「先生からのお話は、卒業式のあとにします。今日はこれから卒業証書授与式です。儀式は君たちにとって退屈なものかもしれないけど、ひとつのきっかけと思ってください。卒業式を境に、君たちは新しい一歩を踏み出すのだから。卒業式は、いわば『扉』です」
卒業式は、扉……。
通過すれば、そこからはまた新しい道が続く。
「……でも、仲間がひとり足りないね」
先生は窓際前から2番目の席を見た。
2月から座るべき人がいなくなってしまった席。
瑛の席。
クラス中がその席を見た。
その席の上には、瑛のための造花が一輪。
「だから今日、呼んじゃいました」
「は?」
先生の言葉に、クラス中が一瞬ざわめく。
呼んだって、まさか。
えっへん、と胸をそらしたまま、先生は教室のドアを見た。
「入っておいで」
まさか。
ドアが開く。
そこには。
「瑛くんっ!!」
あかりが口を押さえて立ち上がった。
そこには、瑛。
見慣れたはね学の制服を着て、戸口に立っているのはまぎれもなく。
照れくさいのが少し俯きがちになって教室に入ってくる。
「みんな、久しぶり」
教壇の前に立って、瑛が顔を上げて挨拶すると。
うおおおおおお!!!
「佐伯っ! 佐伯じゃねーか!」
「佐伯くん、来てくれたんだ!」
「うおーっ! 若ちゃんやるじゃんっ!!」
「佐伯くんと一緒に卒業できるなんて、夢みたいっ!!」
クラス全員総立ちで大歓声。
グッジョブ先生!! すっごいサプライズ!
「はいはい、みなさん静かにしてください。そろそろ出ないと遅れてしまいますから、廊下に整列してくださーい」
みんなの反応に満足そうに頷きながら、先生はぱんぱんと手を叩いてみんなを促す。
みんな思い思いに瑛に声をかけながら教室を出ていく中、私もあかりと一緒に瑛の元へ。
「瑛! 来てくれたんだ! あのね、私、瑛に謝らなきゃってずっと」
「いいよ。あれはオレが悪かったんだ。あれからオレもいろいろ考えてた」
瑛は少し顔を赤くしながら、髪を掻き揚げる。
この仕草、瑛のクセだ。
「若王子先生に頼み込んだんだ。どうしても、卒業式出席したいって」
「うん。来てくれてすごく嬉しいよ!」
「そっか……、ありがとな。いろいろ心配してくれて」
「わ、素直な瑛ってなんか違和感」
「お前な。こういうときくらいさらっと流せよ」
ぽすっ
瑛からのひさしぶりのチョップ。
ああ、本当に瑛だ。
「瑛くん……」
「あかり」
瑛を呼ぶあかりの声は震えていた。
卒業式はこれからなのに、もう目が真っ赤っ赤。
瑛はあかりに向き直って、悲しそうに眉尻を下げた。
「ごめんな。オレ、たくさんお前を傷つけた。ほんとにごめん」
「ううん……いいの。また会えて、嬉しい」
「あかり、卒業式のあと話があるんだ。今さらって思うかもしれないけど、聞いてくれないか」
「うん……うん……私も話したいこと、いっぱいあるよ」
「泣くなよ。もう少し我慢しろ」
そしてあかりにも優しくチョップする瑛。
よかった……本当によかった!!
私は二人を置いて先に廊下へ。
廊下は卒業生たちがわいわいとおしゃべりしながら、移動の時間を待っていた。
「さん」
「先生! 瑛を卒業式に連れ出してくれて、ありがとうございます!」
「佐伯くんははね学の卒業証書を持ってますから。君たちと同じ待遇を受ける権利を持ってます。先生、がんばって教頭先生と校長先生にかけあいました」
「これで若王子学級勢ぞろいですね!」
「はい。さぁ、そろそろ移動しますからさんも並んでください」
「はいっ!」
私は満面の笑顔で返事をした。
卒業証書授与式は、つつがなく進行していった。
生徒会執行部からの送辞、校長先生の言葉、卒業生代表の答辞(もちろん氷上くん)。
高校に入ってからは歌う機会があまりなかった、羽ヶ崎学園校歌。
そして……仰げば尊し。
卒業式に歌う歌、全卒業生でアンケートを取ったんだよね。
最近流行りの卒業ソングから定番曲までいろいろな案が出たんだけど、意外にも仰げば尊しが一番多かった。
ううん、意外じゃない。
だって、はね学の先生って素敵な先生ばかりだもん。
仰げば尊し、わが師の恩。
感謝してもしきれない、先生への恩。
歌いながら、みんな泣いてた。
職員席にいた教頭先生が、歌の最中ずっと目頭押さえてたのを見て、私もついうるっと来てしまった。
そして、閉会の言葉。
いよいよだ。
はるひとハリーが、まわりに目配せしてる。
「……卒業生の諸君、卒業おめでとう。夢を抱き漕ぎ出そう、大海原へ!」
ワァァァァ!!
全員が一斉に造花を投げ上げた!
あはは、教頭先生、目が点になってる!
防衛大の卒業式の帽子投げみたいなことやってみたいよね、ってはるひと言ってて。
ハリーとはるひが卒業生全員に回覧しちゃったんだもん!
でも、PTA席からは拍手喝采。
やったね、バッチリ大成功!
そして、卒業式を終えて。
みんな、赤い目をして教室に戻ってきた。
口数少なく、ただ先生を待っている。
そこに先生がやってきた。
「やや、みなさんウサギみたいですね」
先生の目は赤くも潤んでもなく。
にこっといつもの笑顔を浮かべて、教壇に手をついた。
「さて……改めましてみなさん、卒業おめでとう。今日で君たちはみんな、ひとつの区切りを迎えます」
穏やかな先生の声。
女子生徒の何人かが、しゃくりあげ始めた。
「君たちがこれから向かうのはきらきらと輝いてる場所です。今まで以上に勇気と努力が必要になるところです。その場所に向かうための力を、この3年間で溜めることができましたか?」
ぐるっと教室を見回す先生。
「……時間は残酷です。全員に平等に流れ、一時も待ってはくれない。準備が間に合わなかった者にも、覚悟がかたまらなかった者にも、同じタイミングでやってくる」
みんな、先生を見つめて、言葉のひとつひとつを受け止める。
「どんなことをしても時間は巻き戻らない。君たちが高校生に戻りたくても、もう戻れません。先に進むしかないんです。……って、これじゃあなんだか脅してるみたいですね」
先生が頭を掻くと、張り詰めていたクラスの空気が和らいだ。
「つまり先生が言いたいのは……君たちには、新たな自分を作り上げていくチャンスがあるということです。過去を悔やむより、この先にある新しいものを見つけるほうがいい。……見つけられるんです。先生も、最近気づきました」
先生は少し遠い目をして、何か眩しいものを見つめるかのように目を細めた。
「でも、辛くなったなら休んでいいです。ここにも、いつでも来てください。先生は、いつでもみなさんを歓迎します」
にこっと微笑むと、すすり泣きの声がさらに増えた。
「あ、そうだ。先生、個人的にみなさんにお礼が言いたかったんです」
ぽん、と。先生が手を叩いた。
なんだなんだと、泣いていた子も顔を上げる。
先生はにこにこしながら教室を見回して、一度私のところで視線を留めた。
……あの?
「みなさんご存知のとおり、僕はさんが好きです」
「な!?」
おおーっ
しめっぽかったクラスが一気に盛り上がる。
……っていきなり何を!?
「このクラスにも知ってる人は何人かいるけれど。実は、さんはこのはね学に入学する直前、不慮の事故でご家族全員を亡くしてるんです」
「え、マジで!?」
クラスの視線が先生から私へ一斉に移る。
せ、せんせぇ……一体、なんの話をしようとしてるんですか……。
私のたじろいだ視線を受け止めても、先生は優しい笑顔を湛えたまま言葉を続けた。
「たった一人で北海道からはばたき市に出てきて、生活費も学費もなにもかも、自分で稼いでがんばってました。あ、お金の面に関しては先生もノータッチです」
「お金以外ではタッチしてんのかよ、若ちゃん……」
「え? ……や、そういうんじゃないです。あの、誤解しないでください」
どっ
先生が慌てて補足する様子がおかしくて、みんなが噴出した。
ご、ごめんなさい先生。私も笑っちゃいました。
「えーとそれでですね……そういう生活、大変だったと思います。遊びに行きたいのも我慢して、奨学金を得るためにがんばって勉強して、毎日毎日バイトして。修学旅行も一時行けるかどうか危ないときがありました」
ね、と私に微笑みかける先生。
いやあの、ね、って言われても。
「でもね、いっぱいいっぱい友達と遊びたい学生時代にそんな生活を続けていくのって苦痛でしかないです。それでもさんが笑顔を絶やさずに3年間過ごして来れたのは、みんなのお陰です」
あ……。
「さんが辛いとき、泣きたくなったとき、支えたのは先生じゃない。海野さんや西本さんを始めとする、みんなです。友達という存在が、さんを支えてくれた」
先生、そんなの、先生が言わなくたって。
私がみんなに言わなきゃいけないことなのに。
「だから、みなさんにお礼を言います。みんながいたから、さんは楽しく3年間を過ごすことが出来ました。僕の大切な人を支えてくれて、本当にありがとう」
「若ちゃんなぁ……お礼言うとんのかノロケとんのか、どっちやねん」
「多分、どっちもです」
どっ
はるひの突っ込みに、先生があんまり無邪気に微笑んで答えるものだから、今度こそクラス中爆笑の渦。
あかりも瑛も、はるひも、志波くんも、みんなみんな。
泣いてた子も笑顔を見せてた。
「うん。感動して泣いてしんみりする卒業式もいいけど、やっぱり最後は笑顔がいい。みなさん、卒業おめでとう。先生からは、以上です!」
「う……うわぁぁぁん、若ちゃぁん!」
「くそーっ、笑ったのに泣けてきたじゃねーかっ!!」
「若王子センセー!!」
がたがたっと。
みんなが立ち上がって、教壇の先生にとびついた。
先生はややっと呻きながらも、みんなに囲まれて嬉しそう。
「おい。お前旦那の教育しっかりしろよ。生徒に彼女のこと惚気る教師ってどーなんだ」
「耳が痛いです、ハリーさん……。でも、先生が言ってくれたことは私がみんなに伝えたかったことそのものだから。みんな、3年間、本当にありがとう!」
「お、おいよせよ!」
ハリーや志波くんや、先生のもとに駆け寄らなかったみんなに向けて頭を下げる。
すると、ぽんと頭に誰かの手が置かれた。
「そうしたかったからそうしただけだ。頭上げろ、」
「志波くん」
「そうやで、ちゃん。困ったときは、お互いサンマや」
「ウェザーフィールドくん、それを言うならお互いさま、だ」
顔を上げると、志波くんもクリスくんも氷上くんも。
みんな優しい顔して私を見てた。
「お前が先に、オレたちに与えてくれた。救いも、支えも。だからお前が礼をする必要なんてない」
「そうですよ、さん。私たちはさんに貰ったものをお返ししただけです」
「小野田ちゃん……それでもやっぱりありがとう。私、はね学に来てよかった。みんなに会えてよかったよっ」
「ったく辛気臭いねぇ。アンタ、せっかく若王子が笑わせて終わったっていうのに」
藤堂さん、苦笑しながらもぽんぽんと私の頭を撫でてくれた。
うわぁん、竜子姐さん優しいっ!
えへへ、と笑いながら、私もこみ上げてきたものを拭った。
と、はるひが口元を押さえて私に合図してきた。
何事?
かすかに顔が赤いはるひが指差す先には。
窓際の席で、瑛とあかり。
二人、見詰め合って立っていた。
「あかり、ごめんな。オレが本当に馬鹿だった。くだらないプライドにしがみついて、せっかく見つけたお前の手を離すなんて」
「ううん。私の方こそ。ずっと側にいたのに、瑛くんの支えになるどころか、逆に追い詰めちゃってたんだもん」
「離れてみてわかったんだ。オレ、ずっとお前のことばかり考えてた。自分のちっぽけな存在を守るために、一番大切な、一番守らなきゃいけないものを傷つけてたんだ」
まわりの喧騒なんかまるで聞こえていないよう。
瑛とあかり、真剣にお互いの気持ちを伝えてる。
あんなに辛い別れだったけど、どうやらいい方向に進むためのきっかけになったみたい。
……などとしんみり思いながら。
私たちは息をひそめて二人の動向をデバガメしていた。
「親を説得して一流大学を受験したんだ。会場でお前探したけど見つけられなくて、じいちゃんに聞いて驚いた。お前、珊瑚礁を継ぐとか言ったって?」
「うん。瑛くんがいつでも戻ってこられるように、居場所を作っておかなくちゃって思って……。瑛くん、一流大学受験したんだね」
「ああ。決めたんだ。大学で経営学学んで、いつか珊瑚礁をオレの手で再開するって。だからお前、勝手に珊瑚礁継ぐなよな」
「ふんだ。私のほうが瑛くんよりコーヒー入れるのもケーキ焼くのもうまくなってやるんだもん」
「じゃあお前、雇われシェフな。オレがオーナーになって、雇ってやる」
瑛は腕組みして、ふふんとあかりを見下ろした。
あかりは口を尖らせて、上目遣いでデイジー睨み。
でも、瑛はすぐに組んでた腕を下ろしてあかりを真剣な目で見つめた。
「あの夏の日に出会ったお前をずっと探してた。再会できたのに、それなのにオレは手を離してしまった……」
「瑛くん」
「あかり、今度こそ離さない。もう絶対、二度と離さないから。これからもオレの側にいてくれないか」
気づけば。
先生も、先生に抱きついてたほかのクラスメイトも。
瑛が学校に来てることをかぎつけてやって来たほかのクラスの子たちも。
みんな、固唾を呑んでふたりを見守っていた。
あかりは。
その大きな瞳からぽろぽろと涙を零しながらも、とてもとても幸せそうに、嬉しそうに微笑んで。
「うん。私、瑛くんの側にいる」
「あかりっ……」
あかりの返事に瑛は大きく相好を崩して。
華奢なあかりの肩を両手で掴んだかと思えば、そのまま、キスしちゃった!
うおおおおおっ!!!
一斉に歓喜の雄たけびを上げる3−B!!
教室の入り口からは、瑛ファンの子の悲鳴も聞こえるけど、それをかき消すくらいに!!
「よぉぉっし、お前らっ!! 卒業式カップル第1号を胴上げだっ!!」
「「「おーっ!!」」」
「なっ!? お、おい針谷っ!?」
あかりから引き剥がされ、瑛はクラスの男子一同に教室中央まで引っ張られてその場で胴上げが始まった。
「やや、蛍光灯には気をつけてくださいよー?」
先生、止める気全然ないし。
逆にあかりはクラスの女子に囲まれて祝福されてる。
……あ、教室入り口は藤堂さんと志波くんが固めて、瑛ファンの子が入って来れないようにしてるよ。
うう、みんなみんな優しいなぁ……。
「先生っ」
「や、さん」
注目を瑛とあかりに奪われたから、ようやく先生の近くに行ける。
私はてちてちと教壇までよって行って、先生の隣に立って教室を見渡した。
「この教室も今日で見納めだと思うと、なんだかやっぱり寂しいです」
「うん。僕もそう思う。僕はこれからもここに立ち続けるけど、今ここにいる君たちと教室で会えなくなるのは寂しいです。……でも」
「でも?」
私は先生を見上げた。
先生はとても穏やかな瞳をして、教室を、みんなを見つめていた。
「その気持ちが大切なものに気づかせてくれる。ね、さん」
「はい。私もそう思います」
「うん。……ねぇさん」
「なんですか?」
先生は私を見下ろした。
さっきとはうってかわって、少しこわばった……緊張してるような、顔。
「先生?」
「僕も、君に伝えたいことがあるんだ」
「私、に? なんですか……?」
先生の真面目な顔。
両手を包み込むようにそっと持ち上げられる。
な、なんか私も緊張してきたんですけどっ。
「さん。……僕と」
「うわ、なんだあの車? すっげぇゴツイのが校門前に止まってるぞ」
先生が何か言おうと口を開いたとき、クラスの子が窓の外を見ながら言った。
なんだなんだと窓際に集まるみんな。
「すげー! 黒塗り高級車! 卒業式にそんなVIP来てたっけ?」
!!!
私の手を掴んでいた先生の手に、一瞬強い力がこもる。
ゴツい黒塗りの高級車、って。
まさか!
「押忍、志波先輩っ!! 来ました!!」
「あ、天地くん!?」
ガラッと勢い良く教室のドアが開いて、飛び込んできたのは天地くん。
全員が驚いて振り向く中、天地くんはぜえぜえと肩で息をしながら志波くんのもとへ。
「裏門にも2台来てます! 全員黒スーツの外国人ですっ!」
「なっ……」
あまりのことに、先生が絶句した。
そんなまさか。
黒服が、学校にまでやって来たっていうの?
先生を、無理矢理、研究所へ?
「わかった、天地。サンキュ。先生、オレたちから事情聞いてます。手伝いますから、逃げてください!」
「え……」
目を瞬かせて、先生。私を見た。
「ご、ごめんなさい、先生。私、どうしてもいい案が浮かばなくて。みんなに相談したんですっ……」
「さん……」
一瞬、先生は泣きそうな、苦しそうな表情を浮かべた。
怒られるかと思ったけど、先生はぎゅ、と唇を噛み締めて。
「僕を、心配してくれたんだね。ありがとう。……でも、君たちを危険な目に合わせるわけにはいかない。だから、行ってきます」
「い、行ってきますって、どこへ!? 先生、だめっ、行かないで!」
私は教室を出て行こうとした先生の右腕にしがみついて、全体重をかけて引き止めた。
志波くんと藤堂さんも先生の前に立ちはだかって行く手を遮る。
事情を知らない他の生徒たちは、ぽかんとして。
教室内は異様な空気だった。
「を置いていくのか!? 先生っ、本当に一人で行っちまうのか!」
「アンタ、あきらめがよすぎないかい? ちったぁ根性見せてみろよ!」
「……あの、先生は下まで行って話をつけようとしてるだけです。先生だって、あんなところくそくらえーですから」
だからまずは落ち着いて、と先生が両手を挙げて志波くんと藤堂さんを宥める。
「……先生、ほんとに?」
「本当です。さんを置いて行ったりしません。……信じられない?」
先生にしがみついたまま見上げると、先生は困った様子で微笑んでいた。
でも、その瞳は不安に揺れている。
先生、強がってる。
「じゃあこうしよう。さん、下まで一緒に来てください。そしてその目で、僕がアイツらを説得するのを見ててください。それならいいでしょう?」
「は、はい!」
私は必死で何度もこくこくと頷いた。
そんな私の頭を、先生はぽんぽんと撫でてくれる。
「な、なんだよ、あの黒服の人たち、若ちゃんの客?」
「若サマ、あれって一体なんなの? なんかヤバそうなカンジだけど……」
みんなが不安そうに先生を見つめる。
先生は、そんなみんなを振り返って、ぐるりと見渡して。
真面目な顔をして告げた。
「みなさん、しばらく教室から出ないでください。大丈夫、先生があの人たちに、おいとまするようお願いしてきますから」
「先生」
「若ちゃん」
「すぐ戻ります。……さん、行こう」
「はい」
先生は私の背中を押して教室を出た。
他のクラスの前を通ったときも、みんな黒服に注目してざわついてるのがわかった。
もう、なんでよりによって。
「ごめん、さん。せっかくの卒業式を台無しにしてしまって」
「先生が謝ることないです! 黒服が全部全部悪いんですからっ!!」
もうすっごく悔しくて腹立たしくて、じわっと涙がにじむくらい。
階段を降りて、1階へ。
1年生の教室を通り過ぎて、正面玄関へ。
校門の前には、古文の先生と教頭先生が。
「なんだね君たちは!! ここは学校関係者以外は立ち入り禁止だ!! 今すぐ出て行きたまえ!」
「アンタたちみたいなエージェントが来る様な所じゃないはずだがねぇ? なんとか言ってくれませんかね?」
ふたりに何を言われても、黒服たちは無表情で微動だにせず。
が。
「……ドクター」
私と先生がゆっくりと玄関を出て行くと、黒服たちの先頭にいた男、前にも会った事があるあの男が口を開いた。
「な、なんだね、若王子くんの知り合いか!?」
「やぁ、ひさしぶり。学校に押しかけてくるなんて、そんな非常識なことをされるとは思わなかったよ」
教頭先生の苦情は一切無視して、先生は黒服を睨みつけた。
いつもからは想像もつかない冷たくて厳しい表情。
声も、まるで別人だ。
「ドクター、時間がないのです。我々と共に研究所へお戻りください」
「何度も断ったはずだよ。しつこいね、君も。挙句に、彼女にまで接触したんだって?」
「ドクター、問答をしている時間はないのです。我々の話を聞いてください」
「断ると言ったんだ。二度と僕の前に現れるな」
話し合いは平行線。
私は先生の隣に立っているのがやっとで、恐怖をさとられないように黒服を必死で睨むのが精一杯。
先生を連れて行かないで。お願いだから。
「……Little Miss」
「っ」
「彼女を巻き込むな!」
「巻き込んだのはあなたです、ドクター。そんなに手放したくないのなら、Little Missも連れてくればよろしいでしょう」
「あんなところに、彼女を連れては行けない!」
「Little Miss、あなたにとってドクターがどれほどの価値があるのか知りませんが、ドクターはあなたが独占していい人ではない。ドクターの才能は、もっと高みにあるのです」
黒服は先生を無視して私に話しかけ始めた。
先生はそれを嫌って私を背中に隠す。
「あなたを慰めるだけのちっぽけな存在ではない。ドクターの力が我々には必要なのです」
「先生は計算機じゃないのっ!」
私は先生にかくまわれたまま、というかっこ悪さだったけど、思わず叫んでいた。
悔しくて、悔しくて、悔しくて。
ぽろぽろと涙が出てくる。
「先生をお金になんか換算しないで! 道具扱いしないで! 先生は確かにすごい才能を持ってて、研究所で働けばその才能を生かせるのかもしれないけどっ、そんなの、あなたたち、先生の人格を認めてないくせにっ!」
私は、今度は先生をかばうように黒服の前に立ちはだかった。
「さんっ」
「お金ごときで計れる研究が、先生のもっとも優れたところだとでも思ってるの!? 先生が、学校中のみんなに好かれて、先生が、みんなに温かいものをいつも与えてくれて、先生がっ……」
先生が。
もう一度、私に家族の温もりを与えてくれて。
先生が。
人を好きになる喜びを教えてくれて。
先生が。
笑ったり、拗ねたり、時には怒ったり。
そうして私に3年間、生きる気力を与え続けてくれた。
私を、生かしてくれたんだ。
生きる活力を人に与えられる存在なんて、どれだけいると思ってるの?
「……何も知らないんでしょう!?」
涙でぐちゃぐちゃの顔で黒服を睨みあげる。
サングラスの奥は見えないけど、かわらず冷徹で無表情な瞳をしているんだろう。
私は先生の左腕をぎゅっと抱きしめた。
「先生は渡さないっ! 私が、絶対に先生を守るんだから!」
「よく言った!」
黒服に向かって威勢良く啖呵を切ると、背後から声が聞こえた。
振り向いた先には藤堂さんと、志波くんと、密さん。
「みんな」
「そうさ。テメェの男自分で守れるくらい、女だって強くならないとねぇ」
「……降りてきちゃだめだって、言ったのに」
先生はため息をつきながら言うけれど、その顔は明るい。
「気に入らないのよね、私たちの若王子先生を異国で独占しようなんて」
ひ、密さん、その綺麗なお顔でその冷徹な表情、枕投げ以来の猛虎モード。
「あ、もちろんさんはいいのよ? うふふ」
「大人だろうが外人だろうが知ったことか。先生はオレたちの先生だ」
志波くんも、ぺきぽきと指を鳴らしながらやってくる。
そして3人は私たちと黒服の間に立ちはだかった。
「ドクター、この方たちは」
「僕の教え子たちだ。手を出すな」
「しかし、先ほどから言っているように、我々には時間がないのです」
黒服が右手を上げた。
その途端、車からばらばらとさらに黒服軍団が降りてくる。
「やるかっ!?」
「志波くん、だめです!」
思わず構える志波くんたちに、先生が慌てて引きとめて。
と、思ったら。
「くぉらお前たちっ!! いい加減にせんかっ!!!」
大音量で、教頭先生の怒鳴り声が鳴り響いた。
そ、そういえばいたんでした、教頭先生……。
「志波っ、藤堂っ、水島っ! 下がりなさい!」
ずかずかとやってきて、3人のさらに前に割り込む教頭先生。
黒服とは近寄りすぎて、もう鼻を突きつけあうような距離だ。
「さっきから聞いていれば、なんなんだね君たちは! 礼儀のかけらも持ち合わせておらんのか! ここは教育の現場、君たちのような物々しい輩が足を踏み入れていい場所ではない!」
「失礼、こちらのprincipalですか」
「私はvice-principalだ」
うわ、教頭先生、英語出来るんだ。
……そりゃ教師だから、ある程度の英語は出来るんだろうけど。なんか意外。
教頭先生はさらに鼻息荒く、黒服の顔面にずいっと顔を近づけた。
「若王子くんの知り合いかね。しかし、どうも胡散臭い連中のようだな、君たちは。私は学校の秩序を守る者として、また教職員を代表するものとして、『若王子先生』を監督し、同時に守る役目もある!」
「え」
教頭先生のこの言葉には先生もきょとん。
そ、そうだよね。いつもことあるごとに先生を目の敵にしてきた教頭先生だもん。
私もてっきり「さっさと他所に行ってやりたまえ!」って引き渡すのかと思ったもん。
……あ、遅れて感動がこみ上げてきた。
「教頭先生、カッコいい!!」
「くん、ふがいない若王子くんだが、よろしく頼む。さて、話があるならまずは事務所にて記名してもらおうか!!」
教頭先生は腕組みをして仁王立ち。
しかし。
しばらくその様子を黙ってみていた黒服だけど。
「ドクター、時間がないのです。協力していただけないのであれば仕方ない。手荒い方法をとらせていただきます」
「なんだと!?」
「ドクターを捕まえろ。怪我はさせるな。他のものは構わない」
「ちっ! 先生、逃げろ!」
志波くんが怒鳴ったと同時に、黒服が動いた!
藤堂さんと水島さんも構えの姿勢を取って、
そこに!
「生徒会執行部、伝統の最終奥義!!」
高らかに、氷上くんの声が響いた。
……って、正面玄関の屋根の上!? いつの間に!
「遅刻者には問答無用! 校門施錠、生徒手帳を見せたまえ!!」
「「「せいやーっっ!!!」」」
氷上くんの号令と共に、どこからともなく駆けつけた現・生徒会執行部員たちが勢い良く校門を閉めた!
校門をはさんで、外に黒服、内側に私たち。
こ、これはっ……確かに最終奥義と言えるかも……っ!
「今の内だ、くん! 若王子先生を連れて、逃げたまえ!」
「氷上くんっ!!」
氷上くんはいつものメガネを直す仕草をしながら、屋根の上から叫んだ。
「ウェザーフィールドくんが手配してくれている! さぁ、逃げるんだ! ここは僕たちに任せて!」
「そうだ先生、今は逃げろ!」
志波くんも先生の腕を掴んでひっぱった。
黒服たちは車に乗り込んでまわりこもうと発車しだす。
「みなさん……」
先生は頬を紅潮させて、みんなを見つめた。
「若王子くん」
「教頭先生」
「天之橋先生の推薦とはいえ、素性の知れないものを子供たちを預かる教育の現場にはおけない。私はこう見えて、君の過去については少しは知っているつもりだ」
「そうだったんですか……申し訳ないです。ご迷惑を」
「そう思うならさっさと逃げたまえ! 君がいつまでもここにいては、卒業生が帰宅できないではないか!!」
「はいはいっ」
「はいは1回! ……それからっ、陸上部の春休みの活動予定、まだ出ていませんぞ! ケリがついたら、すぐに提出するように!」
「わかりました!」
先生は私の手を取って、正面玄関の中へ。
でも一度くるりと振り向き、みんなに頭を下げた。
「みなさん、本当にありがとう。先生、なまら嬉しいです!」
「そんだけ軽口叩けりゃ上等だね。早く行きな!」
「はいっ! さん、行こう!」
「はい、先生! みんな、ありがとね!」
私と先生は手を取り合って、正面玄関を抜けてグラウンドへ通じる裏玄関へ。
「あ、ちゃん、若ちゃんセンセ! こっちやこっち!」
素早く靴を履き替えてグラウンド側に出ると、クリスくんが待っていた。
隣には……黒服!?
「あ、ちゃうねん。天地クンが勘違いしてもーたんやけど、この人はお父ちゃんのドライバーやってる人やねん」
「そ、そうなの?」
思わず一歩引いてしまった私と先生に、クリスくんはぱたぱたと手を振った。
「そーそー。実はな、志波クンから話聞いて、卒業式に何かが起こる! 言うから、裏門には近づけへんように、ウチのSPたちに張らせておったんよ〜」
「本当!? クリスくん、グッジョブ!」
「やろやろ? さ、若ちゃんセンセ、とりあえずこン人について学校離れて身を隠さな〜。がんばってな?」
「やや、ありがとうウェザーフィールドくん。恩に着ます!」
「うんうん、めいっぱい着ちゃってなー?」
クリスくんは、いつものエンジェルスマイルを浮かべて見送ってくれた。
私と先生と、クリスくんのお父さんが派遣してくれたドライバーさんは、グラウンドをばたばたと横断して裏門へ。
「この車に。学校を離れるまでは、姿勢を低くしていてください」
「わかりました。さ、さん」
「は、はい」
裏門につけてあったのはごくごく一般的な国産スモールカー。
まわりに停めてある高級車と違って、これなら目立たないだろう。
私は先生に促されるまま車に乗り込もうとして。
「ーっっ!!!」
はるひの大声に、振り向いた。
あ。
「先生、屋上見てください!」
「え?」
先生が振り向いて、私が指差す屋上を見上げると。
そこには、3−Bを始めとした、はね学の卒業生たち。
「ちゃん、先生を任せたよーっ!」
「なんとかしろよ!? また4月から、先生しねぇとクビだかんな若王子っ!!」
「さんっ、若ちゃんっ、応援してるぞーっ!」
「若サマがんばれーっ!」
「なんだか知らんけど、とにかく逃げ切れよーっ!」
みんなが口々に声援を送ってくれた。
ああ、こんなにみんなに愛されてる先生を奪おうなんて。
「先生、行きましょう。逃げて、対策を考えなきゃ!」
「うん」
私は車に乗り込んで先生を呼んだ。
先生は。
屋上を見上げたまま、一度右腕で目元をごしっとこすった。
そして車に乗り込んで、ばたん! とドアを閉める。
私を抱きかかえるようにして、窓より少し低い位置に体を沈めて。
「出します。よろしいですか?」
「はい、お願いします!」
車が動き出した。
はね学を離れるまで、少し窮屈だけどがまんしなきゃ。
先生が、ぎゅ、と腕に力を込める。
「先生、大丈夫です。なんとかなります。黒服を追い返す方法、なんとか考えましょう」
「うん。そうだね。……僕がこのままはばたき市にいるためには、ここがふんばりどころなんだ」
「先生」
「僕は今までずっと逃げてきた。だけど、今度のこれは未来を勝ち取るための戦略的撤退だ。僕は必ず、さんと一緒にいられる未来を掴むよ」
「はいっ!」
私と先生は笑顔で頷いた。
額をくっつくて、キスをして。
窮屈な車の中。
ただひと時の休憩に身をゆだねて。
もう二度と奪わせない。
私の家族、先生の人生。
さぁ、戦うんだ。
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