「あらぁお嬢ちゃん、大晦日なのに猫先生のお見舞いかい?」
「あ、はい。今日までやってる病院に行くことになってて」
「ツナ缶の先生の足、少しはよくなってるのかい?」
「はい、お陰さまで……」


 63.大晦日


 私は先生のアパートの1階に住む大家夫婦に愛想笑いしながら、ぎぃぎぃ言ってる木造の階段を駆け上がった。

 猫先生って、ツナ缶の先生って。
 初めて聞いたときは目が点になったけど、まさしくその通りだから仕方ないよね。

 先生の部屋は、猫とツナ缶しかないようなものだもん。

 びぶー

「はいはい、どちらさまでしょう?」
「先生、です。そろそろ病院に行く時間ですよ?」
「やや、もうそんな時間でしたか」

 古いタイプのブザーを鳴らすと、先生の声がした。
 がちゃりと開けられた木製ドアの向こうには、寝癖で髪が好き放題はねてる若王子先生の姿。

「……寝てましたね?」
「あの、寒かったので、つい」
「急いで準備してください! もう出ないと予約の時間に遅れますよ!」
「はいはいっ、急ぎます!」

 先生は松葉杖をつきながらばたばたと部屋の中へ。
 私も中に入ろうとしたら、にゃーんと足元に猫がすりよってきた。
 ふふ、可愛いなぁ。この子たちにも会えるから先生の家に訪問するのって楽しみなんだよね。

 私は右足に頭を擦り付けてじゃれていた三毛猫を抱き上げて玄関の中に入り、ドアを閉めた。
 中にはさらに黒猫と白猫が1匹ずつ。今日は3匹か。少なめだ。
 
 猫の存在感が大きいのは、先生の住んでるこの部屋が私の部屋以上に殺風景だから。
 丸テーブルに小さなラジオ、ノートパソコン。押入れの中には衣服が多少入ってるものの、目に見えるものはそのくらいだ。
 玄関脇の未開封のダンボールには、うっすら埃も積もってる。

 先生、ほんとに旅を続けてたんだなって。
 この部屋を見たとき痛感した。

 にゃぁあん

「ん、どうしたの?」

 ぬくぬくと暖かかったから抱き上げたまんまだった猫がじたばたと暴れだした。
 向き合うように抱きなおして、ちゅーしてあげる。
 あはは、舐められた。くすぐったい。

「あ、コラっ」

 コートを着てから、松葉杖をつきながら先生がやってきた。
 私の腕から三毛猫を取り上げると、むっとした表情でその猫とにらめっこ。

さんにそういうことしていいのは、僕だけです。めっ」
「せ、せんせぇ……猫と張り合わないでくださいよ……」
「じゃあ先生にもちゅーしてください」
「はいはい、病院行きますよー」
「……さん、冷たいです……」

 寝癖はついたまんま、先生はぶつぶつ言いながらも猫を下ろして玄関を出た。


 先生の足の具合はもう大分いいみたい。
 松葉杖無しでも歩けるみたいだけど、念のため。
 私は先生のペースに合わせてゆったりと歩いていた。

「いい天気ですね! そのせいか少し寒さがきついですけど」
「うん。僕がこんな足じゃなかったら、いろいろと出かけたいところだけど」
「もう大晦日だからほとんどのスポットは営業終わってますよ。それに私、大晦日は家族でまったり派です」
「それならよかった。でもせっかく天気がいいから、ちょっと寄り道していかない?」

 診察を終えてゆっくりと帰宅中。
 先生は駅に向かう方向ではなく、反対の海に向かう方を指差した。

「冬の海は人が少なくてゆっくりできます。先生、結構好きなんです」
「いいですよ。今日はもうバイトもないし。行きましょう!」

 私は二つ返事で了承して、先生と並んで浜へと続く道に進んだ。


 海風が静かに吹いてる冬の海。
 真夏の海と違って、その色は濃藍から灰色だ。

「寒くない?」
「平気です」

 先生は砂浜に直座り。私もその隣にちょこんと座った。

 その時、視界の隅に灯台が映る。
 その隣の珊瑚礁は、今はもう活気がない。

「や、佐伯くんのお家が見えます」
「はい……。今頃瑛、なにしてるのかな」
「気になりますか?」
「そりゃあ……」

 私は素直に頷いた。

 クリスマスの翌日だ。
 前日のスキー宿泊でへとへとになっていた私は、翌日のお昼までたっぷり寝てしまって、そのメールに気づくのが遅れたんだ。

 私のパソコンに届いていた、珊瑚礁閉店のメール。

 その日は先生を病院に連れて行く約束をしていたから、私は道すがらあかりに電話した。

『もしもし、ちゃん?』
「あかりっ!? ねぇ、珊瑚礁が閉店したって本当!?」
『あ……そっか、ちゃん珊瑚礁のメルマガ登録してたんだもんね』
「本当なの!? どうして……」
『うん……。マスターがね、瑛くんのためだって』
「瑛のため?」

 電話口のあかりは声をひそめてぽそぽそと語りだした。

 あかりが話してくれた内容を要約すれば、こうだ。
 珊瑚礁のマスターが、瑛の必死さを見かねたんだ、って。
 学校で仮面をかぶって、珊瑚礁のために必死になって、自分をどんどん追い詰めていった瑛を、もう休ませてあげたかったんだって。

 話を聞いて、私は押し黙ってしまった。

 瑛がここ最近体調も崩して精神的にもぴりぴりしてたの、よく知ってる。
 だけど本当にマスターの判断は正しかったのかな。
 確かに瑛は珊瑚礁と学校の両方に必死で疲弊してたけど。
 珊瑚礁は、瑛にとっては支えでもあったんじゃないかって、そう思ったから。

「瑛はどうしてるの?」
『最初は怒ってたけど、今は落ち着いてるよ。これからのこと、いろいろ考えてるみたい』
「そっか……」

 信号待ちで立ち止まって、言葉を切る。
 すると携帯の向こうがちょっと騒がしくなった。

「あかり?」
『……もしもし、か?』
「あれ、瑛? なんだ、今一緒にいたの?」
『どうでもいいだろ、そんなこと』

 無愛想なこの応対は、まさしく瑛。
 そっか。あかり、瑛の側についててあげてるんだ。

「お店閉めちゃったんだね」
『ああ。……ごめんな、急に決まったから』
「私に謝ることないよ。瑛、大丈夫?」
『なにがだよ?』
「なにがって……」
『むしろ万々歳だよ。受験勉強に時間が割けるようになるし、心配事がひとつ減って』

 またそういう強がり言って。
 でも心配だなぁ……あかりが側にいるとはいえ、瑛はあかりにも強がるからなぁ……。

 などと思ってたら。

『オレのことより、お前はどうなんだよ』
「は?」
『針谷と西本から聞いた。クリスマスパーティもスキーも、若王子先生と二人で逢引してたって?』
「な!?」

 うってかわって、瑛の愉快そうな声。

 はるひとハリー! よ、余計なこと報告してっ!!

『なんてはしたないんだ、。おとうさんはそんな娘に育てた覚えはないぞ?』
「べべ、別になにもしてないもん! 瑛こそっ、あかりとクリスマス一緒に過ごしたんでしょ!?」
『な!? な、なんでお前、あかりが一晩うちにいたって知ってるんだ!?』


 …………へ?


「ひ……一晩?」
『あ』
「…………おとーさん、サイテー」
『な、違っ……! 誤解するなよ!? 別に何もなかったんだから! こらあかりっ! お前、に何言った!?』

 あかりからは何も聞いてないよ、おとうさん……。
 携帯の向こうでは瑛とあかりがぎゃんぎゃん言い争いしてるのが聞こえてくる。

 ひ、一晩一緒だったのかぁ……。
 いや、うん。多分落ち込んだ瑛を慰めようとして、あかりが側にいただけなんだろうけどさ。
 ……多分。

『も……もしもし? ちゃん?』
「うん、なに?」
『あのね、本当に何もなかったんだよ? 誤解しないでね?』
「何かあったとしてもみんなには黙ってるよ」
『もうっ! 本当になんにもなかったんだってばっ!』
「あはは、わかったわかったってば。私、これから電車に乗るから、そろそろ切るね」

 電話口のあかりの口調に、思わず笑いがこみ上げる。

 うん。
 きっと瑛は大丈夫だ。
 あかりが側にいるんだもん。きっと、大丈夫。

『先生のとこに行くの?』
「う、うん。先生、昨日怪我したってはるひから聞いた? これから病院に行くの。まだ松葉杖とかもないから、連れて行ってほしいって」
『そっか。……ちゃんも、先生を支えてあげなきゃね?』
「うん。じゃあね、あかり。瑛にもよろしくね!」
『うん、よいお年を!』
「よいお年を!」

 そう言って、私は携帯を切った。

 瑛。
 珊瑚礁がなくなって、きっと道に迷うだろうと思うけど。
 あかりがいれば大丈夫だよね?
 これを機会に、自分を偽ることなく素直に生きられるようになるといいんだけど。


 私はそんなことを思い出しながら、ぼんやりと遠くに見える珊瑚礁を眺めていた。

 ら。

さん」

 顔を両手で挟まれて、強引に向きを変えられる。
 バランスを崩して倒れそうになりながら、180度振り向いた先には、先生のむすっとした表情。

「今佐伯くんのことを考えるのはブ、ブーです」
「せ、せんせぇ……まぁ、確かにそうですけど……」
「今考えるべきことは、僕たちのこれからのことです」
「え、こ、これから?」
「はい」

 にこっと先生は微笑んで。

 こ、これからって。
 つまりその、将来のこと? だよね?
 えええええ!?

 確かに先生はもうオトナだし職に就いてるし、すぐにでも結婚できる歳だけどっ。
 私はほら、まだまだこれからも学生続ける身だし、未成年だしっ!

 おたおた。

「どうしたの?」
「え、だ、だって」
「あ。まだお節料理の準備をしていない。ピンポンですね?」
「ぴぽ、へ、え?」

 ぽんと手を打つ先生の言葉に、私は目を瞬かせてきょとんとしてしまった。

 おせちりょうり?

さん、先生、レトルトおそばだけでも大丈夫です」
「は」

 あ、これからって……。

 まさに、これから、このあとどうするか、って、コト?

 な、なんだ。あははははは。
 うう、舞い上がってた自分が恥ずかしい……。

「いえ、ちゃんと晩御飯作りますよ。怪我を早く治すには栄養しっかりとらなきゃ」
「ありがとう、さん。でもね」

 先生は相変わらずにこにこと優しい笑顔を浮かべたまま、私の耳元に唇をよせて。

「今さんが考えていたことも、ちゃんと話し合わないといけないね?」

 ぴき。

 くすくすとおかしそうに笑う先生をよそに。
 今度こそ私は瞬間ゆでだこ状態になって硬直してしまった。

 お、オトナなんてっ!


 その後風が冷たくなってきたこともあって、私たちははばたき駅へと向かい、帰宅することに。
 先生は最寄り駅で一度下車した。

「猫たちに餌をあげてきます。そのあとでさんのお家にお邪魔しますね」
「そんな、先生、怪我してるのに。私が先生の家にお料理持っていきますよ?」
「ありがとう。でも、先生の家寒いんです。隙間風がびゅーびゅーで、さん、風邪引いちゃいます」
「猫ちゃんを湯たんぽにするから平気ですよ」
「……湯たんぽなら僕がなります」

 などと最後には拗ねてしまった先生。
 先生、実は猫なんです、とかわけのわからないことまで言い出したから、私は先生が私の家に来るという提案を飲むことにした。

 というわけで、現在私は自宅に戻って晩御飯の支度中。
 実家にいたころは大晦日の夜はいつもご馳走だった。
 おにいちゃんが蟹好きだったから必ずゆでた毛蟹が一人1パイでて、大好きなピザも食卓を彩ってたっけ。
 焼酎好きのとうさんはこの日のために芋焼酎を蔵元から取り寄せて、かあさんは私と一日かけてケーキを買い求めて。
 懐かしいな。

 はばたき市に来てからの2年間はひとりで過ごした大晦日だけど。
 今日は先生が一緒にいてくれる。

 へへ、嬉しくって口元が緩んじゃう。

 食卓は比べるべくもない質素なメニューだけど。
 早く先生来ないかなっ。うきうき。

 ぴんぽーん

「はーいっ!」

 私は足取り軽く玄関を開けた。
 ところが、そこに先生の姿はなし。

「……あれ?」

 あ、先生じゃなかったのかな?

 私は玄関を閉めて、慌ててインターホンの通話ボタンを押した。

「はいっ?」
『……』
「あれ? もしもし?」

 通話ボタン……うん、ちゃんと押してるよね?

「もしもーし」
『Excuse me?』
「は?」

 返ってきたのは、英語だった。

 ……どちら様?

「あ、あのー……?」
『......Nice to meet you,little Miss』
「ど、どちらさまですか」

 怪しいっ!!
 こんな怪しい訪問者なんて初めてだ!

 お、落ち着いて、
 オートロックなんだから、ここまで勝手にやって来れないはずだから、毅然とした態度で応対しなきゃ。

「ふ……Who are you?」
『……』

 答えない。
 なんか、嫌な予感がしてきた。
 私の知り合いでネイティブな英語を話す人って、クリスくんと先生以外にいないもん。

 もしかしてこの人。

『Be careful......』
「な、なに?」
『You are......』
「え?」

 ね、ネイティブすぎて聞き取れなかったけど、なんて言ったの?

「もしもしっ?」

 反応がない。
 ……行っちゃったのかな?

 通話口に耳を近づけてもなにも聞こえない。
 とりあえず、通話を切っておこう。

 私はしばらくインターホンの通話口を見つめて。

 今の人、多分。
 先生を探してる『黒服』じゃないかな。
 でもなんでうちに来たんだろ。
 先生の身の回りをかぎまわって、私にたどりついた、とか?

 じゃあ今のって。

 ……警告?


 ぴんぽーん


「うひゃあっ!?」
「やや? さん?」

 深刻に考え始めた矢先にインターホンが鳴ったものだから、私は飛び上がって変な声を出してしまった。

 な、なんだ。今度こそ先生だ。あーびっくりした……。

 玄関をあけると、きょとんとした表情の若王子先生。

「どうかしましたか?」
「い、いえ、なにも……」

 言わないほうがいいよね。
 先生に余計な心配も不安も与えたくない。

 私はにこっと笑顔を作って先生に抱きついた。

「待ってましたよ! 寒いから、早く入って暖まってください」
さん」

 先生は私の頬を両手で包み込んで、上を向かせた。

「なにかあったんですか?」
「なにもないですよ?」
さんは素直でとても純粋だから、嘘をつくのが下手です」

 う。

 や、やっぱり先生をごまかすのは、私にはまだまだ無理か……。

さん?」

 コツンと額をつき合わせて、先生が促してくる。
 ううう、どうしよう……。

 私は両手で先生の体を押して、とりあえず拘束から逃れた。

「先生、とりあえず上がってください。あの、ちゃんと説明しますから」
「なにか深刻なこと?」

 先生も眉をひそめる。
 やだなぁ。せっかく楽しい気分でいたのに、こんなことになるなんて。

 私は先生に手を貸して部屋の中へ招き入れた。
 松葉杖を預かって、この前買った座椅子を提供。
 それからひざかけを先生に手渡した。

 先生の家が寒いとは言ってたけど、この家も相当寒いんだよね。
 さすがに先生が来てる時は強めに設定してはいるけど。

 私は料理の手を止めて、シナモンミルクティをふたついれて先生と向かい合うように座った。

「どうぞ」
「ありがとう。……それで?」
「えーっと……」

 先生に優しく微笑まれて、私は視線をそらして手の中のカップを両手で包んだ。

「あの、今先生が来るちょっと前、本当にちょっと前なんですけど。あの、先生、マンションの前で誰かとすれ違ったりしてませんか?」
「いえ、誰ともすれ違ってません。誰か来たの?」
「はい……」

 私がつぶやくように答えて俯くと、先生の表情が少し曇った。

さんのストーカー?」
「は? ……いいえっ、そういうんじゃないです。って、私にストーカーなんていませんよ!」
「じゃあ誰? 知らない人だったの? いたずら?」
「あ、え、えっと……」

 言葉に詰まって視線が泳ぐ。
 どうしよう、言ってしまっていいものかどうか。
 あああ、でも先生、なんか本気心配モードに入っちゃってるし!

さん、こっちにおいで」
「あう……」

 困ったような笑顔を浮かべて、先生に手招きされる。
 一瞬の躊躇のあと、でも誘惑には逆らいがたくて。

 私はぽすんと、先生の腕の中に自分から飛び込んだ。
 先生はそのまま、きゅぅと抱きしめてくれる。

「こうして僕が側にいるから。怖いことがあったなら、話してごらん?」
「……はい」

 仕方ない。
 うまくごまかす方法も思いつかないし、正直に話すしかない。

 私は先生の服をきゅ、と掴んで。

「英語をしゃべってました」
「英語?」
「多分、外国人だと思います。私のこと知ってるみたいでした。それから、えっと……気をつけろって。そのあとはネイティブすぎてわかりませんでした」

 先生の顔色が目に見えて変わったのがわかった。
 目を見開いて、苦しそうな表情をして、何か言おうとして口を開くものの言葉が続かないみたい。

「先生を探してる人、かもしれません」
「こんなところにまで来たのかっ」

 先生は私をきつくきつく抱きしめた。
 正直なところちょっと痛かったんだけど、私は黙って先生の背中に手をまわした。

「大丈夫ですよ、先生。私はなにもされてません。インターホンごしにちょっと話しただけです」
「あいつらは利権に目がくらんだ亡者だ。僕を連れ戻すために、さんを利用しようと考えてるのかもしれない」
「そうだとしても平気です。先生のことは、私が守ってあげますから!」

 私はぎゅっと先生を抱きしめた。
 その途端、先生の腕から力が抜ける。

 どうしたんだろうと見上げてみれば、先生はぽかんとした表情で私を見下ろしていた。

「どうしたんですか?」
さんが、僕を守ってくれるの?」
「そうですよ? あたりまえじゃないですか!」
「やや、立場が逆転してしまいました」

 ぱちぱちと目を瞬かせる先生に、私はくすっと噴出してしまった。

「せんせぇ、今は男が女を守るだけの時代じゃないですよ? 今まで先生が私を守ってきてくらたんだから、今度は私が先生を守ってあげます」
「や、これは勇ましい。でもね、相手は普通じゃない。無理しないでいいです」
「無理します。だって、私、先生がいなくなったら」

 先生がいなくなったら。
 そんなの考えるだけで怖い。

 私は先生の胸元に額をすりつけた。
 先生、あったかい。

さん、猫みたいです。うちの子たちも、よくこうして甘えてきます」

 先生は私の髪をなでて、頭にキスを落としてくれた。
 猫かぁ。先生と一緒にいられるなら、猫になってもいいな。
 私はふざけて猫の鳴きまねをしてみた。

「にゃぁあ〜ん」
「や、これは可愛い猫ちゃんです。よしよし」

 ふふふ、先生の手が私の喉元を撫でる。
 くすぐったくて身をよじると、先生の瞳が見えた。
 不安と安らぎと、相反するものが揺れる瞳。

「先生、心配しないで」

 私は身を起こして、先生と鼻をくっつけた。
 先生は猫と戯れてるとき、よくこうやって鼻を突き合わせてるから。

 今の私は猫なのです。

「何があっても側にいます。脅迫されたって、屈しないんだから。だから先生も、何があっても私を手放さないで」
さん……」

 先生は目を閉じて私の言葉を聞いていた。

「うん。ありがとう。僕も君を手放さないよ」
「はい」
「3年前に会ったときはとても幼い少女だったのに。今はもう、ほとんど変わらない目線にいるんだね」

 先生……。

 なんだか、先生の言葉に感動しちゃった。
 私を認めてくれたみたいに聞こえたから。
 嬉しくて、笑顔がこぼれる。

 と、思ったら。

 先生、ぱちっと目を開けて。

 私の口元を、ぺろん、と!!

「うきゃあああっ!!??」

 いきなりのことに私は物凄い勢いで体を離そうとしたものの、先生の腕ががっちり私の腰にまわってたものだから、上体をそらすのが精一杯。

 い、今っ、今っ、なな、な、なっ、舐め、舐めっ!!??

「せせせせせせせんせぇっ!?」
「だってさん、猫なのに」
「ななななななな」
「うちの猫たちは、いっつもこうしてくれますよ?」

 ま、マズイ。
 あんなシリアスな話してたのに、いつの間に!?

 先生、変なスイッチ入っちゃってるし!!

 こ、こういうときはっ。

「おとうさん直伝、必殺チョーップ!」

 ずべしっ!

「アイタっ!」

 よしっ、クリーンヒット!

「い、痛いです、さん……」
「先生が変なことするからですっ!」

 叩かれた即頭部をさすりながら、先生がうらめしそうな目で私を見る。
 その隙に私は身を離し、台所へと避難した。

「わ、私まだ晩御飯の準備中ですからっ! 先生はゆっくりしててください」
さん、ツレナイ……」
「晩御飯抜きでもいいんですか?」
「おとなしくしています……」
「そうしてください」

 先生は近くにあったどくろクマを私のかわりに抱きしめて、座椅子の上に体育座り。

 ほんとにもう。オトナって油断も隙もありゃしないんだから。


 その後、手持ち無沙汰にしてた先生にも野菜の皮むきを手伝ってもらって、料理は完成。
 料理というか……今日は鍋。魚と鶏肉を叩いてツミレを作った以外は、材料をザク切りしただけの準備だから、すぐに終わっちゃった。

 ラジオで紅白を流しながら、今年最後の晩餐が始まった。

「先生、今年一年お世話になりました。来年も、よろしくお願いします」
「こちらこそ。さんにはお世話になりっぱなしでした」

 烏龍茶の入ったグラスで乾杯。
 そういえば先生ってお酒飲まないのかな。
 何度かうちで食事してるけど、お酒の持ち込みは一回もなかったっけ。

 ……いやいやいや、この人にお酒なんて飲ませたら、最後だ。
 うん、余計な質問はしないでおこう。

「味噌鍋ですね。やや、油揚げが入ってる」
「味噌鍋の油揚げっておいしいんですよ! 藤堂さんに教えてもらったんです!」

「やや、先生この曲知ってますよ」
「あ、CAMINOですね? 3年前までは無名だったのに、すごい飛躍ですよね」
さんも今や花椿グループのトップモデルです。このバンドなんて目じゃねぇです」
「あ、ありがとうございます……」

「……なんかさっきから演歌が続いてますね?」
さんは演歌嫌いですか?」
「あの、その……実は割りと好きです……」
「やや、それは意外な事実です。氷河清ですか?」
「いえ、戸羽一郎の兄弟舟が好きです!」
「それは…………シブイです、さん」

「あ、野菜なくなっちゃった。ご飯入れて、おじや作りましょうか」
「はい! ねこまんま大好きです!」
「ねこまんまと一緒にしないでくださいっ!!」

「は〜……ごちそうさまでした。とってもおいしかったです」
「おそまつさまでした。お鍋かたづけちゃいますね」
「や、紅白も終わりですね。蛍の光が流れてる」
「今年もいよいよ終わりですね」

 先生と紅白の品評やお鍋のうんちくを語り合いながらのんびり食べてたら、随分な時間がたっちゃった。
 お鍋とカセットコンロを片付けてテーブルを拭いた頃には、外から梵鐘の音が響いてきた。

「あ、除夜の鐘が鳴ってる……」

 手を止めて窓辺によると、低くて柔らかな鐘の音色がよく聞こえた。
 すると、ラジオの音が急に小さくなる。

 振り向くと、先生が手をのばしてラジオを止めていた。

 って。

「先生、寒いですか?」

 いつのまにやら先生は、片隅に畳んで積んであった布団から毛布を抜き取り、体に巻きつけていた。
 いけないいけない。ついいつものクセで自分温度に設定しちゃってたかな?

 エアコンの温度を確かめようとして、私は窓辺から反対の壁のほうへ。

さん、こっち」
「え?」

 エアコン設定を変えようとした私を呼び止めて、先生が私を手招き。

 ……毛布の端を掴んで両手を広げてウェルカムモード。

 えーと。
 私はちょこちょこと寄ってって、先生の前に膝をつく。

「えいっ、捕まえました!」
「わ」

 嬉しそうな声を出して、先生は私を抱き寄せる。
 そのまま私は先生の膝の上にちょこんと座って、背中を先生に預ける。

「あったかいです」
「それはよかった。先生も、とても暖かいです」

 毛布を巻きつけて、先生は私をきゅっと抱きしめた。

 ラジオの音が消えて、除夜の鐘の音だけが聞こえる。
 あと聞こえるのは、先生の息遣いと心臓の音。

 静かだな。

 でも、あたたかい。

「先生は毎年、大晦日はどうしてたんですか?」
「先生ですか? 猫たちと楽しく過ごしてました」
「あ、そっか。猫ちゃんがいたんだっけ」

 背中の温もりにまどろみそう。

「私は2年間一人でした」
「うん」
「出来るだけバイトを入れて忙しくしてるようにしてたけど、大晦日だけは2年連続バイトを入れられなくて」
「そうだったんだ」
「大晦日だけは……ちょっと泣いてました」
「泣いてたの?」
「はい」

 私は温もりが心地よくて目を閉じた。
 きちんとしたリズムで刻まれる除夜の鐘が睡眠へといざなう。

 ああ、急に眠くなってきた……。
 寝ちゃったらきっと、先生そっと出ていくに決まってる。
 やだやだ、ちゃんとお見送りしたい。

「だって、2年前までは父さんも母さんもおにいちゃんもいたんです。一年振り返って、いろんなこと話して、レコ大みて紅白みて……」
「うん」
「それなのに急にひとりぼっちになって、大晦日がただの日になって、でもまわりは年末だなんだって賑わってるのに」
「うん」
「だけど北海道に帰省する勇気もなくて……一人で布団にくるまって除夜の鐘を聞いて……」

 もぞもぞと体を動かして、体を横に向ける。
 先生の胸に頭をことんと預けて、その腕にしがみついた。
 髪を撫でてくれる、優しい手。

「私朝型だから、いつも紅白最後まで見るの辛くて……おにいちゃんに揺り起こされながらがんばって起きて……」
「……うん」
「でもこっちに来てからは眠るのが怖くて……夢に出てくるから……」
「そうだったんだ。でももう大丈夫。これからは楽しい夢だけ見られるよ」
「ん……今日は最後まで自分の力で起きてたよ。すごい?」
「うん、すごいすごい」
「へへ……」

 温かい。

「……眠たい」
「うん。もう眠ったほうがいい」

 温かい。

「明日は寝坊しそうになったら起こしてね」
「うん」

 温かい。

「初詣……来年はおにいちゃんよりもいい運勢引くんだから……」
「うん」



「ん……?」

「来年は、の心がいつも晴れやかであることを祈ってるよ」

「うん……」

「おやすみ……

「おやすみなさい、おにいちゃん……」



 温かい。

 ふと、私は目を覚ました。

 カーテンから薄い明かりが染み込んでいる。
 もう朝だ。
 私、いつのまに寝ちゃったんだろ。
 布団。いつ引いたっけ?

 それに暖かい。
 いつもは寒くて目が覚めてたのに、今日はとっても暖かい。

 今年の元旦は小春日和なんだな……

 などと平和なことを寝ぼけた頭で考えてた私。
 次の瞬間、その思考回路が途切れた。

 私の目の前にある、腕。私の体をかき抱くように回された、腕。
 もぞもぞと布団から自分の手を取り出して見つめてみる。
 ……ここにふたつあるということは、この腕は。

 そういえば。
 やけに背中が暖かいなぁと。

 …………。

 ゆっくりと。もぞもぞと。
 私は寝返りを打って。



「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!??」



 盛大にでかかった悲鳴を、必死で飲み込んだ!

 目の前に、すやすやと安らかに寝息をたてている、先生の顔が。

 え? え? なんで?

 なんで先生、ここで寝てるの!?

 し、しかも、同じ布団で! こ、こ、こんなにくっついて!!

 ちょ、ちょっと待って、なんでこんなことに!?

 …………。

 お、落ち着こう。落ち着け、
 昨日は先生と晩御飯を食べて、紅白をラジオで聞いて……。
 そうだ、その後除夜の鐘が聞こえてきたから、一緒になってそれを聞いてたんだ。

 それから。

 …………。

 思い出せないーっ! っていうか、覚えてないーっ!!

 えええ、もしかしてあのまま私、寝ちゃったの!?
 きっとそうだ……それで先生、布団引いて運んでくれたんだ!
 うわあああああ、すっごく恥ずかしいっ!!

 え、えっと。

 ……何かがあったような様子はナシ……と。
 う、うん。服、着てるもんね? 私も先生も、昨日のまんまだもんね?

 はぁぁぁ。

 先生、か、帰らなかったんだ……。
 そりゃ私と先生はそういう……恋人っていう関係だけどさ。

 教師と生徒の節度を持ってって、先生が言ったんでしょうがっ!

 ……。

 先生。

 き、綺麗な顔してるなぁ、ホント……。
 こんなに間近でじっくり見られる機会ってほとんどないもんね。
 いい機会だから、観察しちゃおう。

 先生の髪。くせっ毛だけど綺麗な色。
 くせっ毛なのは私も一緒だけど、先生の髪はぴょんぴょんはねてるんだよね。可愛い。

 色白な肌だけど不健康なイメージじゃなくて、まるで白人の肌みたい。
 男の人にしては綺麗な肌なんだよね……。
 あ、でもヒゲがある。そっか、朝だもんね。
 先生とヒゲ。……ふふふ。

 でも。

「先生の目が見たい……」

 眠ってる間だから見つめられる先生の顔だけど、私が一番好きなのは先生の瞳。
 日本人離れした色素の薄い瞳。
 優しかったり、冷たかったり、温かだったり、怖かったり。
 いろんな表情を見せてくれる、綺麗な瞳。

「そんなに見つめられると、先生、照れちゃいます」
「……へ?」

 いきなり。
 先生の口が動いた。

 次の瞬間には、ぱちっと目が開かれる。

 突然のことに、言葉も出ない。

 先生はにっこりと微笑んだ。

「おはよう、さん」
「…………」
「あ、間違えました。あけましておめでとう、ですね?」
「……」

 見たかった、先生の瞳。
 ぽかんとしてその瞳に魅入る私。

「やや、まだ寝ぼけてますか?」

 先生は布団にくるまったまま、ぎゅっと私を抱きしめた。

 ☆□Aб×*Г※◎K‘$&っっ!!!!????


「うきゃぁぁぁぁぁぁぁっ!!??」


 瞬間的に覚醒した私は、町内全域に響き渡るかのような悲鳴を上げたのだった……。




 その後。
 初詣に出かけた私と先生は、境内であかりと瑛に偶然会った。

「あ、ちゃん、若王子先生! あけましておめ」

 声をかけようとしたあかりの言葉が途中で止まる。
 瑛にいたっては、端正な顔をぽかんと間の抜けた表情にして口をあんぐりあけたまま固まってる。

「せ、先生、どうしたんですかそのほっぺ……」
「はぁ、ちょっと猫に」
「猫に?」
「いえっ、なんでもないです……」

 あははと笑ってごまかす先生の左頬には、くっきりはっきりと真っ赤な紅葉型。
 あかりと瑛は視線だけ動かして私を見た。

 お前か、と。

 私はぷいっと横を向いた。

 た、確かに今回のは先生が悪いわけじゃないかもしれないけどっ!
 乙女に対する無礼罪だもんっ!!

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