その夜。私はカチカチとノートパソコンをいじっていた。


 59.進む路


 一応調べものの最中なんだけど、全然集中できてないし頭に入ってこない。
 ぼーっと画面を眺めながら頭の中でリフレインするのは、先生の怒りの瞳と悲しい瞳。

 北海道での進学を決めたのは、単純にしっかりと服飾の勉強がしたかったからだ。
 父さんに言われた「自分の足で立つ」という言葉の呪縛を解いて、素直に今の状況を受け入れる覚悟が出来たから。
 バイトに時間をとられて技術習得がおろそかになるのが嫌だったから、叔父さんの家に厄介になろうと決めた。

 でもやっぱり、先生の言葉も図星だった。

 僕から、逃げるの?

 卒業と同時に、先生とはもう会えなくなってしまうのに、こっちで進学なんてしたら未練をずるずる引いてしまうかもしれないって、思った。
 だから決めたんだ。
 逃げよう、って。

 はぁ。

 何度目かのため息をついて、私はぱちぱちと自分の頬を叩いた。

 志波くんどころか、先生まで傷つけちゃった……。
 だってまさか、先生が私のこと好いてくれてるなんて思わなかったんだもん。
 私なんてコドモで生徒で大人の保護下にある存在で。
 オトナの先生に、対等な人間として見てもらえてるなんて、全然思わなかった。

 優しいって思ってたし、ヒイキしてもらってるって自覚してたし、特別扱いしてくれてるってわかってたけど。
 それでもその好意は親が子を思うような愛情であって、まさか恋愛感情なんて。

 ……だって先生、時々、っていうかほとんどいつもだけど子供っぽいから。
 スキンシップしてきたって、同級生がじゃれ合うようなものとしか思えなかったんだもん!!

 そのくせ、いきなりオトナになったりして。
 からかってたのは、先生のほうじゃないの?

 ……なんて思ってももう遅いんだ。
 先生は本気だったのに、その気持ちを私は踏みにじってしまったんだから。

 はぁぁ。

 私はもう一度ため息をついた。

 テーブルの上の学校案内資料。今日帰宅したら、叔母さんが送ってくれた資料が届いてたんだ。
 札幌の服飾専門学校、か。

 もう、先生と仲直りできないのかな……。

 私は近くにあったどくろクマのぬいぐるみを抱きしめた。



 気づくと、私はうつらうつらと船を漕いでいたみたい。
 時計はもうすぐ12時をさそうとしてた。

 パソコンつけっ放し、電気つけっ放しで居眠り。ああ勿体無い。

 私はのろのろと起き上がって、パソコンの終了処理をして。

 ……携帯が鳴ってるのに気づいた。

 こんな時間に誰? イタズラ?
 テーブルでちかちか光ってる携帯を手にとり、私は番号を確かめた。

『若王子先生』

「っ、もしもしっ!」

 私は慌てて電話に出た。
 何回コールが鳴ってたんだろう。出るの、間に合ったかな。

『若王子です。こんばんは』
「こ、こんばんは……」

 よかった。繋がってた。

『こんな時間まで起きてたの?』
「ちょっと調べものをしてて……それで」

 居眠りで回転を鈍らせてた脳を、必死で動かす。
 先生が電話をくれた。
 ちゃんと、話を聞かなきゃ。

『そう。熱心だね』
「そんなこと……。あの、どうしたんですか、こんな夜更けに……?」
『うん……』

 私は落ち着いて座っていられなくて、うろうろと部屋を歩きまわる。
 布団に座ってみたり、台所に手をついてみたり。
 窓辺に腰掛けて、そっと外の様子を見てみたり。

『考え方の違いは、当たり前だ……。つまり、何が言いたいかというと……』
「先生……」
『……さっきは、乱暴なことをしてゴメン。怖かった?』
「ちょっとだけ」
『ちょっとだけ?』
「すっごく怖くて震えて泣いちゃいました、なんて言ったら、先生落ち込んじゃうでしょう?」
『ゴメン。やっぱり、怖がらせたんだね』

 携帯から聞こえてくる先生の声は、少し弱弱しい。
 私はカーテンを開けて、最上階の窓から手招きした。

「先生、寒いでしょう? 上がって来てください」

 先生はマンションの前から、私の部屋を見上げて電話をかけてきてた。
 突然カーテンを開けた私に驚いたようで言葉を無くした様子だけど、私はにっこり微笑んで携帯を切った。
 こうでもしないと、先生風邪引いちゃう。

 しばらくして、インターホンが鳴った。

 通話口に出ずに、まっすぐに玄関に向かってドアを開ける。
 そこには、戸惑ったように揺れる瞳の若王子先生。
 それでも先生は笑顔を浮かべて。

「こんばんは、さん」
「こんばんは、先生。……あの、上がってください」
「いえ、ここでいいです」

 後ろ手にドアだけ閉めて、先生は玄関に立ったまま私を見下ろした。

「謝罪に来ました」
「先生」
「教師がとる態度じゃなかった。教え子が、自分の夢に向かって進路を決めたというのに、それを否定するようなことをしてしまって。これ」

 先生がスーツの内ポケットからはね学の校名入りの長3封筒を取り出す。

「成績証明書と卒業見込み証明書です。学校で渡してもいいんだけど、ついでだから渡しちゃいます」
「……はい」

 私はその封筒を受け取った。
 もう作ってくれたんだ、先生。

「最終的に受ける学校が決まったら、先生にも報告してください。学校に提出しなきゃいけない書類もあるので」
「はい」
「……それから」

 先生は眉尻を下げて、寂しそうに微笑んだ。

「今日のことは忘れてください。僕はさんの担任として、最後まで職務を全うしますから。君と一緒にいる時は、つい教師であることを忘れてしまうことが多かったけど、もう君に甘えたりしないから」
「先生……」
「本当に楽しかったんだ。君は僕が経験できなかった青春を与えてくれた。そのことだけで満足するべきだったんだ……。だから」
「先生!」

 先生の懺悔のような言葉を、私は大声で遮った。
 びっくりして目をぱちぱちと瞬かせる先生。
 私は、多分顔を赤くして、勢い込んでしゃべった。

「花椿モード研究所、って知ってますか? あ、研究所なんて冠ですけどれっきとした専門学校です、服飾の! さっき初めて知ったんですけど、あの花椿グループが出資してる学校で、卒業生はモードの第一線で活躍してる人ばっかりなんです!」
「は、はぁ」
「あの花椿先生が講師として壇上に立つってことで入学の倍率も高いんですけど、カリキュラムもすごく充実してて! 学校独自の奨学金制度や特待生制度もあって、私みたいな勤労学生でも日中の通学が出来る制度があって! それでっ……」
「……」

 上体を乗り出して喋りたてる私を、先生は呆気にとられた様子で見てた。
 私はその後の先生の反応を見るのがちょっと怖くて、目線を落として、うつむいて言った。

「は、はばたき市にあるんですっ」
「え」
「さっき、調べものしてたっていうのは、そのことを調べてて……」

 うつむいてちゃ駄目だ。
 私は心の中で気合を入れて、顔をあげて先生の目を見た。

 驚いた様子で見開かれた先生の目。

「先生が、私と同じ気持ちでいてくれたなんて、思いもしなくてっ。ずっと、私が一方的に片思いしてただけだと思ってたから、卒業したら先生を思い出してもどうしようもない場所に行っちゃおうって、そう思って、だから先生」

 私は大きく息を吸って、吐き出して。
 ついでに涙も零れ落ちた。

「だから、だから……」

 なんて言えばいいんだろう。言葉が見つからない。
 ……言葉がみつからないなら。

 私は、自分から先生の胸に飛び込んだ。
 う、わ、と言って、先生はドアに背中をつく。

さん……」

 先生の大きな手が私の髪を撫でる。

「それは、僕と一緒にいることを望んでくれてるって、考えてもいいんですか?」

 返事の代わりに、先生の胸に押し付けた顔をこくこくと縦に振る。
 先生はふわりと私を抱きしめてくれた。
 長く冬空の下にいただろうその体温は、それでもとても温かかった。

「ごめんなさい、先生。私が、どこにも行かないでって、お願いしたのに」
「うん」
「それなのに、私が、自分からっ」
「うん。もういいよ、さん。もういいんだ」

 よしよし、と。
 先生は私の頭を撫でた。

「ありがとう。結婚して2週間でお嫁さんに逃げられたなんて、カッコ悪すぎますから」
「け、結婚してませんっ」
「あれ、でもみんなさんのこと若嫁って呼んでますよ?」
「せんせぇ……悪ふざけが過ぎると本当に実家に帰らせてもらいますよ……」
「やや、それは困ります」

 ぎゅうっと。先生は一度力強く私を抱きしめて。

 どちらともなく、肩を震わせて笑い出してしまった。

 先生はぽんぽんと私の背中を叩いて、一度私を解放する。
 その瞳には優しい光。私が一番大好きな先生の目だ。

さん、僕たち、恋愛をしよう」
「……はい」
「あ、でもまだ僕たちは教師と生徒です。きちんと節度を持って、ね?」
「その言葉、そっくりお返しします……」
「やや、先生は先生らしくないですか?」
「普通、教師というのは、卒業前の教え子に恋愛しようなんて言いませんし、お弁当作らせたりしませんよ! ……あ、今日まだお弁当箱返してもらってません」
「そうでした。いつもおいしいお弁当ありがとう」

 鞄の中からカラのお弁当箱を取り出す先生。
 今目の前で、教師は教え子にお弁当なんか作らせないって言ったのに。
 ほら、全然先生の自覚なんてないんだから。

「……花椿モード研究所、と言いましたか」
「はい。試験は一般入試と面接なんですけど、今度面接の練習してもらえますか?」
「それはもちろん。入試は問題ないとして、面接ですね」

 ふぅむと考え込む仕草をして、先生はすぐに頭を振った。

「それは明日以降おいおい考えましょう。今夜はもうおいとまします。夜分遅くにすいませんでした」
「いえっ、先生、わざわざありがとうございました! あの、それからごめんなさい。知らなかったとはいえ、先生の気持ち傷つけるようなことして……」
「うん、いいんだ。僕が先生だったから、いろいろ気を遣わせちゃったんだね。僕のほうこそゴメン」

 ぽんぽんと、子供をあやすように私の頭の上で手のひらを弾ませる先生。

「それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい、先生。気をつけて!」

 先生はにっこり微笑んでドアを閉めた。
 私は急いで窓辺に寄って、窓を開け放つ。
 しばらくして、マンションから先生が出てきた。
 上を見上げて、私の姿を見つけて手を振ってくれる。
 私も笑顔で手を振り返した。

 先生は先の角を曲がるまで何度も振り返って、何度も手を振ってくれた。
 私は先生が角に消えるまで、ずっとその後姿を見送った。

 窓を閉めて、冷たい空気が流れ込んだ室内で、私はどくろクマを抱きしめた。

 嘘みたい。
 夢みたい。

 時計を見たら、日付がすでに変わっていた。

 今日から、私、先生の恋人なんだ。
 うわぁ、うわぁ、全っ然現実味がないよ!

 でも、そうなんだ……。

 先生、私のどこがよかったんだろ?
 今度聞いてみよう。すっごく気になる!!

 なんて、一人浮かれながら。
 私は電気を消して布団に入ってからも、興奮してなかなか寝付けなかった。


 翌日。
 私は悩んでいた。

 目の前には仲良く談笑してるはるひとあかり。ついでにハリーとすっかり体調を戻した瑛もいる。

 私と先生のこと、言おうか言うまいか。
 はるひとハリーは、私に付き合ってること打ち明けてくれたんだよね。
 あかりと瑛は、そういえば前に先生がご飯食べに来てたところに鉢合わせたんだっけ。

 言うことが友達への誠意なのか、言わずに秘めておくのが教師と生徒という立場の恋愛の節度か。
 うーんといろいろ悩んでいると。

「すいませーん。さーん。今日日直でしたよね? ちょっと教員室まで来てもらえますか?」

 若王子先生がいつもの調子で、教室入り口で私を呼んだ。

「ほら、旦那が呼んどるで、
「旦那より先に気をまわすのが日本の嫁の心得だろ?」
「そうだぞ。人様のところに嫁に行ってそんなことしてちゃ、おとうさん恥ずかしいぞ」
「ハリーも瑛くんも古臭い! いまどきは優しい旦那さんが主婦業を手伝ってくれるものだよね、ちゃん?」

 …………。

 今さら、何を言うまでも無く、私は先生の嫁扱いですか。
 ため息ひとつ、私は立ち上がって、教員室へと向かうのでした……。

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