『もしもし、ちゃん? ごはんちゃんと食べてる?』
「あ、叔母さん。うん、今晩御飯食べたとこだよ」
『頼まれてたもの、今日送ったからね。もう、そんな将来を考える時期だったんだねぇ……』
58.激情
11月も半ばを過ぎて。
受験組は黙々と授業と講習に精を出し、就職組はだいたいが面接を終え、専門学校への進学を考えている生徒は願書提出の時期だ。
文化祭のファッションショーを終えて。
私は自分の道を決めた。
服飾の道へ。
大学進学をやめて、専門学校へ専門技術を学びに行くことに決めた。
ちょっと決断が遅れたから、学校の資料集めはこれから始めなきゃいけない。
急がなきゃ。
とはいえ、大学受験組や就職のまだ決まらない子ほど切羽詰ってるわけでもない。
11月いっぱいで学校を決めて……
などと考えながら、私は当番の化学室の片付けをしていた。
掃除を一緒にやってた子は受験組だったから、器具の片付けは私がやると言って先に帰してあげた。
あの子も一流大学狙ってるって言ってたもんね。
がんばれっ。
「ふんふんふんふん、ふふーんふーん」
のん気に鼻歌なんか歌いながら、日暮れの早まった化学室で一人、脚立の上で器具の片付け。
最後はこれ。一番上の棚にしまわなきゃいけないシャーレ。
ぐっと背伸びして、ぽんと投げ置くようにシャーレを放す。
「あれ、さん?」
「え、あ、わぁっ!」
突然背後から声をかけられて、私はバランスを崩した!
脚立の上で体を反らして、両手をぐるぐる回して、……なんとか倒れずにすんだ。
「あーびっくりした……。先生、脚立上ってるときにいきなり声かけないでくださいよ……」
ゆっくりと振り向いたそこには。
両手を広げて、私を受け止めようと待ち構えていた若王子先生。
「やや、残念。さんとも事故チューできるかと思ったのに」
「な、何言ってるんですかっ」
顔を赤らめて私は脚立を降りた。
先生も「冗談です」と言いながら、広げていた腕を下ろして小首をかしげる。
「片付けお疲れ様。今日はバイトの無い日だよね? コーヒーを沸かしてるんですが、一緒にどうですか?」
「あ、いただきます」
化学室の当番日は、こんな感じでいつも先生のコーヒーをごちそうになってた。
この間そのことをはるひとあかりに言ったら、
「アタシ、若ちゃんのビーカーコーヒーって去年の文化祭の時しか飲んだことあらへん。いやぁ、嫁さんには優しいなー、若ちゃん」
「私も……。ほんとに若王子先生って、ちゃんのこと大好きなんだね」
とかなんとか。
著しい誤解を受けながらそんなことを言われたっけ。
そりゃ先生が私のこと憎からず思ってくれてるのは知ってるけどさ、ちょっとばかり他の子よりはヒイキしてもらってる自覚もあるけど。
それは単なる、私が先生の「お気に入りの生徒」だからってだけで。
ご飯作ってあげたりして、先生の生活の世話だって焼いてるんだから、先生なりのお返しみたいなものだと思う。
先生はフラスコからビーカーにコーヒーをうつして、近くのデスクに置いた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます……って、その前に突っ込んでいいですか?」
「やや、ツッコミですか? 質問は好きですけど、ツッコミはちょっと」
「だったらこんなツッコミどころ満載にしとかないでくださいよ! この床一面のファイルはなんなんですか!」
やー……、と言って先生は頭を掻く。
案内された化学準備室の床。
その床には、先生のデスクからダイビングしたと思われる形で散乱してるファイルで埋まっていた。
「生徒の進路指導に使う資料を作っていたら膨大な量になりまして。机の上に積んでいったら、ついに雪崩をおこしてしまいました」
「だったら片付けましょうよ……。他の先生の邪魔になりますよ」
「やっぱりそう思いますか」
「そりゃそうですよ! コーヒーの前に、片付けちゃいましょう」
私はしゃがんでファイルを1冊1冊拾い始めた。
幸い、クリアファイルの中身が飛び出しているわけではないから、ファイルを棚に並べてしまえばいいだけの話。
先生も近くに落ちてたファイルを拾い上げる。
「黄色いのと赤いのは先生にください。青いのは、そこのキャビネットにしまうものです」
「はい。じゃあこれとこれとこれですね」
「いや、さんがいてくれて助かりました」
「ファイルの片付けくらい出来ないと、教頭先生に怒られちゃいますよ?」
面目ないです、と反省してる様子もない笑顔で言う先生。
この笑顔が曲者なんだよね。もう、お説教する気もなくなっちゃう。
……先生が生徒にお説教される時点でどうかとも思うけど。
「あ、そうだ先生。成績証明書と卒業見込み証明書を発行してほしいんですけど」
私は青いファイルを抱えてキャビネットの前まで来て、ふと思い出して先生を振り返った。
忘れないうちに言っておかなきゃ。
「私、服飾の専門学校に進みます。大学に進学はしません」
「決めたんですね、さん」
「はい!」
先生も作業の手を止めて私を見た。
私は大きく頷いて返事する。
「今年の文化祭の準備を手伝ってて、心が決まりました。私もあんな素敵な服を作って誰かを輝かせてみたいって思って」
「うん。そこまでしっかりと夢を掴んだなら、総合学習を受けるよりも専門学校へ進むほうがいい。先生も、大賛成です」
「ありがとうございます!」
えへへ、嬉しい。
先生に太鼓判押してもらっちゃった。
私はゆるむ口元もそのままに、ファイルをキャビネットにしまい始めた。
「それで、どこの学校に行くつもりなんですか?」
「まだ資料集めの段階なんですけど、今考えてるのは札幌の叔父の家から通えるところ、でしょうか。私の実家、燃えたあと新地のままだし」
「札幌? 北海道に帰るの?」
「はい。……私、家族の思い出に触れるのが嫌で3年間一度も帰りませんでしたけど、もうそろそろ……ちゃんと向き合わなきゃいけないし。納骨も法事も何もかも叔父まかせで」
「……」
「専門技術を身につけるならしっかり身につけたいし、それなら叔父の好意に甘えて家から通わせてもらおうかなって。はね学入学当初から戻ってこい戻って来いって叔母がうるさ」
ガンッ!!
私の言葉を遮ったのは、何かを強く叩いたような大きな物音。
……何か、じゃない。
私の顔のすぐ右横。
先生の拳が、キャビネットを叩きつけたんだ。
振り向く前に、ひどく冷静で低い声が、私の耳に届く。
「僕から逃げるの?」
振り向いた。
私に覆いかぶさるように、目の前に先生の顔。
逆行で少し陰がかかってるけど、表情はよくわかる。
口元に笑みは浮かんでいるけど、その瞳は今まで見たことがないくらいに怒りに満ちていた。
「せん」
「どうしてそんな選択肢が出てきたの? 本気で言ってる?」
「せんせっ……ど、したんです」
「本気で言ってるんだとしたら、本当に君はひどい人だ」
先生の口元から笑みが消えた。
鋭い眼光に射抜かれて、怖くなった。
逃げようと、体をよじらせようとすると、
バンッ!
今度は先生、左手を強くキャビネットに叩きつけた。
私は先生の腕の中に閉じ込められて、逃げ出せなくなる。
「まさか、何も気づいてないなんて言わないよね? 僕は君にプロポーズしたし、式だって挙げた」
「そ……」
そんなの、ただの冗談だったんでしょう?
式だって、手芸部の文化祭発表のセレモニーじゃないですか。
口に出せずに心の中で。
でも、視線を外せずにいたら、先生には伝わったみたい。
ひどく残酷な目をして、私を見下ろす先生。
「そうやって、事実から目をそらして誤魔化すつもり? 君はそれで満足するのかもしれないけど、僕の心はズタズタだ」
だって、まさか、先生が。
「……オトナのオトコを、あまりからかわないほうがいい。こんな風に、痛い目を見るよ?」
先生の右手が、私の首を掴んだ。
大きな手。私の首なんて一掴みだ。
その手があごを掴んで、乱暴に上を向かせる。
っ。
私は震えながら目をきつく閉じた。
近づいてくる先生の気配。
吐息がかかって、私はビクンと大きく震え上がった。
額に、柔らかな感触。
……あ……
遠ざかる先生の気配に、恐る恐る目を開けると。
そこには威圧感も怒りの気配もない、いつもの先生。
ただ悲しそうな目をして、穏やかに微笑んでいた。
カクン、と。膝から力が抜けて私はその場に崩れた。
先生もしゃがみこんで、私の顔を覗き込む。
「先生は大人だから、キスだってしちゃうんです」
「……」
「びっくりした?」
答えられるはずもない。
茫然自失状態の私を、先生はしばらく見つめていたけど、やがてゆっくりと立ち上がって。
「成績証明書と卒業見込み証明書は作っておきますから」
それだけ言って。
化学準備室から出て行った。
先生が出て行ったあと。
私の目からぽろりと涙が一粒こぼれた。
まさか、こんな形で先生の気持ちを知ることになるなんて。
まさか。
同じ気持ちでいてくれてたなんて。
それなのに。
私の両目からとめどなく涙がこぼれ出た。
膝を抱えて、声を押し殺す。
一番傷つけたくない人を傷つけてしまった。
一番嫌われたくない人に嫌われてしまった。
私が、たた臆病だったばっかりに。
先生が入れてくれたビーカーコーヒーは、すっかり冷めてしまっていた。
まるで、先生の心のように。
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