8月半ばの1週間。
 私は手芸部の合宿に同行してた。


 51.手芸部合宿


さん、ウォーキングしてみて」
「はい」

 はね学手芸部が毎年使ってるという合宿所。
 1,2年生は別室で夏休みの課題を縫ってるみたいだけど、3年生は別メニュー。

 1年生の頃からファッションショーで私と組んでた彼女は、今年は手芸部の部長になっていた。
 私は彼女と一緒に、今年の文化祭で発表するウェディングの仮縫いをしていた。

 ぴったりと上半身にフィットしたドレス。本番用の生地は正絹を使うっていうんだから、すごいよね。
 ちなみに仮縫いで着ているのはシーチングという生地で作られた、本当に仮のドレス。
 ここからデザインバランスを調整したり、私の体に合うように補正したりしていくんだ。

「どう?」
「うん、裾さばきはさっきよりいいかも。ただ、腰のドレープをもう少しいれたいな」

 彼女は私の前でうーんと唸って、腰のあたりの生地をとって器用にピンで留めていく。

 私はただ黙ってその手つきを眺めてた。

 やっぱり、服飾の世界ってすごいと思う。
 こんな平面の生地から、こんなに素敵な立体のドレスが作り手のアイディア次第で無限に作り出せるんだもん。
 一流大学進学も捨てがたいけど、服飾の技術を身につけたいっていう望みがどんどん強くなってくる。

「……はい、ありがとさん。補正に入るから休憩して?」
「うん。じゃあ少しお散歩してくるかな」
「ごめんね、手芸部員じゃないから仮縫い以外はやることないんだもんね。バイトも休ませちゃって」
「楽しいからいいよ。あ、今日の晩御飯は何がいい?」
「今日は姫子さまが来ないから、そんな気合入れなくてもいいよ」

 私と彼女はくすっと笑った。

 手芸部の掟では、合宿中の食事は1年生が作ることになってるんだけど。
 
 合宿初日。
 近くでカメリヤ倶楽部の合宿中だという姫子先輩が突然やってきて。

「駄目よ、ダメダメ!! 真の乙女たるもの、合宿中といえど、食事に手を抜くなんて!」
「ご、ごめんなさい姫子さま!」
「あなた1年生ね? だめよ、女の子がお料理も出来ないようでは。明日、もう一度来るから、その時は確かなものを作っておくのよ?」
「は、はい!!」

 などということがあったため、暇を持て余してた私が1年生に混じって食事の準備を手伝うことにしたんだ。
 幸い、翌日やってきた姫子先輩は私と1年生ズが作った晩御飯を満足そうに食べていってくれた。

 あのあと、1年生ズに囲まれて感謝されたのには、まいったけど。

「ありがとうございます、エリカさま!」
「エリカさまのおかげで、姫子さまのご機嫌が直りました!」
「ちょ、え、エリカさまってのはやめてよ〜……」

 一体どこのお嬢様学校だ、って錯覚するくらいの勢いだったもんね。

 さて、今日は何にしようかな。



 とはいえ、まだまだ昼過ぎの2時。
 彼女の補正も、ミーティングやらなんやらが重なって夕方以降になるらしいと言ってたから、私はふらりと合宿所の外に出た。

 合宿所は割りと避暑地とはいえ、真夏の昼下がり。
 さんさんと照りつく太陽の下にいれば、じっとりと汗ばんでくる。

 ……正直、生まれも育ちも北海道な私にとって、はばたき市の夏はかなりキツイんだけど……。

 でもここは森に囲まれた景勝地でもある。
 私は陽射しを逃れて木陰に入った。

「はぁ、木陰は少しラクかも」

 気持ち涼しい空気に包まれて、私はぐーっと伸びをする。
 そのとき、背後の茂みががさっと鳴った。

「ん?」

 振り向いて茂みを見る。でも、今は動いてない。
 なんだったんだろ?

 と思ったら、ぴょこんとうさぎが一羽とびだしてきた。

「わぁ、可愛い!」

 野うさぎだ。ピーターラビットみたいな毛並みをしてる。
 撫でようと思って私が手を伸ばすより早く、その野うさぎはぴょんぴょんと素早く跳ねていってしまった。

「ああ、残念……。ここに志波くんがいたら触れたのにっ」

 遠い関西の空の果てで、念願の甲子園を戦っている志波くん。
 1回戦、2回戦と危なげなく勝ち進んでるんだよね。地元も結構盛り上がってるから、毎日合宿所に届く新聞が楽しみだ。

 なんてことを考えていたら。

 がさがさっ

 さっき野うさぎが出てきた茂みがまた鳴った。
 また出てくるのかな? と思ってしゃがみこんで注目

 すると!

 ぴょこん、と野うさぎは確かに出てきた。
 でもその後、クマのように大きな生き物まで飛び出してきた!!

「きゃあああ!?」
「ややっ!?」

 私は驚いてとっさに頭を抱えて倒れこんだ。
 飛び出してきたのが本当にクマだったら、致命的だったけど。

 飛び出してきたのは、幸いクマじゃなかった。

 ……なぜか。

「だ、大丈夫ですか? さん」
「っ、せんせぇ!? 何してる……何のカッコですか、それ!?」

 そう、茂みから飛び出してきたのはいつもの白ジャージ姿の若王子先生。
 でも今日のはさらに過剰な装飾がしてあった。

 髪の毛や襟や腰に枝葉を挿して、手には細長い木の枝。……あ、先をきちんと削ってある。

「……陸上部って、サバイバル合宿でもしてるんですか……?」
「いえいえ、きちんと各自自己記録に向けて修練中です」

 とてもそうは見えません、先生。

 先生は私に手を貸して立つのを助けてくれた。
 そして私を上から下までしげしげと見つめて。

さんこそ、どうしてこんなところに?」
「私は手芸部のお手伝いで、そこの合宿所に……。先生こそ、本当に何してるんですか?」
「先生は狩りの最中です」
「……は?」

 いや、狩りと言われれば、確かにそういう出で立ちではあるけれど。
 この文明社会のど真ん中で、なんで狩り?
 っていうか、陸上部員は?

「だぁぁ、ようやく見つけた若ちゃん!! もうウサギはいいって!」

 すると、先生が出てきた茂みから男の子が一人出てきた。
 こちらも体中枝葉だらけだけど、こっちは先生を追ってる最中にからんだだけなんだろう。

 あ、この人、同じクラスの陸上部員だ。確か部長やってるんだっけ。

「あれ、さん? なにしてんの、こんなとこで」
「手芸部の合宿手伝い。ねぇ、先生と二人で何してるの?」
「ああ、そうそう! さん、ちょっと聞いてくれよ!」
「う、うん?」

 陸上部員は疲れきった様子で地べたにあぐらをかいて座り込んでしまった。

「……手芸部はどうか知らないけど、陸上部って持ち回りで食事の準備するんだ」
「うん」
「そんで、今日は若ちゃんの担当日なんだけど」
「先生も食事の準備するの!?」
「はい、先生も公平に食事準備に参加します」
「なんだけどさぁ!」

 陸上部員の彼は、ぎんっ! と先生を睨みつけた。

「オレ、1年ときから陸上部だったけど、毎年毎年毎年毎年……」
「う、うん?」
「若ちゃんの担当日は『肉』が出る」
「……別にいいんじゃないの? 陸上やってる人って、お肉食べちゃだめなの?」
「そうじゃない。その『肉』の調達は、歴代部長が若ちゃんと一緒にすることになってんだけど……」
「に、肉の調達?」

 なんか雲行きが怪しいぞ……。
 ちらりと先生を見ると、先生もこちらを見て、なぜか誇らしげに胸を張っていた。

「さっき蛇捕まえた」
「え」
「そのあとに何の種類かわからないけど、鳥も捕まえた」
「……じゃ、じゃあさっき出てきた野うさぎは……」
「そ、若ちゃんの次なるエモノ。……オレ、過去2年間なんの肉食わされたんだろうな」
「せんせぇぇぇ!!!」

 いやぁぁ!!
 蛇肉!? 謎鳥肉!?
 想像するだけで身の毛もよだつ。

「育ち盛りの高校生に、なんてもの食べさせてるんですか!! よく食中毒出してきませんでしたね!?」
「育ち盛りだからこそ、たんぱく質はしっかりと摂らないと。それに、先生は蛇さんもウサギさんもたくさんお世話になったので、毒があるかないかくらいわかります」
「「そういう問題じゃないっ!!」」

 部長と私の、悲鳴に近い叫びがハモる。
 だいたいっ、蛇にお世話になるって、一体どういう状況下で!?

「せ、せんせぇ、それで今日は何を出すつもりなんですか……」
「肉焼きです。新鮮なので、塩コショウだけで十分おいしいです」
「焼肉じゃなくて、肉焼きなんですね……」
「わーかーちゃーん……。合宿所にちゃんと食材買ってきてあるんだからさぁ、まともな食材でまともな料理作ってくれよ……。オレ、歴代部長が若ちゃん担当日だけ具合悪くなる理由やっとわかったよ……」
「やや、でも先生、料理はちょっと……」

 困ったように頭をかく先生。
 部長も先生も、若王子担当日を無くす、っていう発想は出てこないんだろうか。

 ……仕方ない。
 はね学陸上部、合宿中に食中毒、なんて野球部の錦を傷つけるようなことを起こすのだけは防がなきゃ。

「先生、私が手伝いますから。今日はまともな料理を作りましょう?」
「え、さんがお手伝いしてくれるんですか?」
「まじで!? うおお、さんっ! 女神さまっ!!」

 私の提案に、大げさに喜ぶ部長。
 ……いや、そうだよね。蛇肉なんて、そりゃあ珍味かもしれないけど、できればきちんとしたお店で食べたいもん。
 別に食べたいわけじゃないけど。うん。

 陸上部員を思って狩りをしていた先生をがっかりさせてしまうかな? とも思ったけど。
 先生はにこにこして、お手製の木の槍をぽいっと茂みに捨てた。

さんが手伝ってくれるなら、先生もきっと大丈夫です。じゃあ、早速行きましょう!」
「あ、ちょ、ちょっと待ってください。手芸部の部長にお断り入れてきますから」
「やや、そうでした。じゃあここで待ってます」
「はい、すぐ戻りますから!」

 私は、手芸部の合宿所へと小走りで戻った。


 その後、手芸部部長に一言断ってから、私は陸上部部長と先生に連れられて、陸上部の合宿所にやってきた。
 案外ご近所。歩いて15分の距離だ。

 合宿所につくなり、私は陸上部の2年生と3年生、男女入り乱れて大歓迎を受けた。

「部長から聞いたけど、今日の料理さんが作ってくれるってホント!?」
「よかった! 今年は胃薬ヤケしなくてすむ!」
さん、若サマのサポートよろしくね!」
「ああ、これで腹が減ることを恐れずに練習に励めるぞ!」

「……あのー」
「肉の正体を知るのは歴代部長だけだけど、みんな実際、得体のしれないものを食わされてるって自覚はある」
「そ、そっか……」

 練習に身が入らないほどの恐怖の肉焼き料理って、先生。
 完璧顧問失格じゃないですか……。

 私と先生を合宿所の厨房まで案内して、部長は練習に戻っていった。
 冷蔵庫を開けると、野菜から肉まで一通りの食材は揃ってる。調味料も……完璧だ。

「ちゃんとお肉あるじゃないですか」
「やっぱり、育ち盛りには新鮮さが一番じゃないかと……」
「安全性が一番です」
「がっくりです」

 しょぼーんと肩を落としながら手を洗う先生。
 私もその隣で手を洗って、脇に畳んでおいてあったエプロンを着ける。

「ちょっと大きい……」
「男女兼用ですから。うん、可愛いです、さん」

 にこにこ笑顔で先生もお揃いのエプロンを着ける。
 私はこほんと咳払い。

「ところでさん、何を作るんですか? 先生、本当に料理は心得なくて」
「あるじゃないですか。先生にも、自慢の一品が」
「やや?」
「……ほら、前に真咲先輩と一緒に私にプレゼントしてくれた」

 先生、ぽんと手を打った。

「真咲式おいしいカレー、若王子スペシャルですね! ピンポンですか?」
「ピンポンです! 作り方、覚えてますか?」
「はい、ちゃんと覚えてます。ちなみに、佐伯式本格カレーのレシピも覚えてます」
「あ、じゃあ今日は佐伯式で作っちゃいましょうか! まだ晩御飯までは時間ありますし」
「いいですね。ではでは材料確認しましょう!」

 子供のように頬を上気させて、先生は野菜のつまったダンボールを漁りはじめた。
 ふふ、なんか楽しくなってきたぞ〜。

「ほうれん草に玉ねぎ、トマト缶……やや、ココナッツミルクもきちんとある」
「な、なんか陸上部って食材充実してますね?」
「うん、佐伯式本格カレーの材料はスパイス以外そろってるみたいです。カレー粉はルーで代用しましょう」
「そうですね。じゃあ、カレーの方はレシピを知ってる先生に最初お願いしてもいいですか? 私、お米といじゃいますから」
「任せてください! 肉や野菜を切り刻むのは得意です」
「び、微妙な得意分野ですね……」

 私は米びつにお米を取りに行った。
 ……あ、この袋1つで3合かな?
 ふふふ、そうそう。こういう合宿の時って、お米だけは持ち寄りなんだよね!
 だから炊き上がったご飯は銘柄ばらばらの、独特なご飯が炊き上がるんだ。

「よーっし、がんばるぞー!」
「やや、さん気合入れてますね? 先生も負けませんよ!」

 こんな感じで、私と先生の陸上部食事作りは始まった。


 『佐伯式本格カレー(若王子アレンジ)のレシピ』

  ・たまねぎ(みじんぎり)
  ・ほうれん草(ピューレ状になるまでみじんぎり)
  ・トマト缶(つぶしてピューレ状に)
  ・にんにく(すりおろす)
  ・しょうが(すりおろす)
  ・ココナッツミルク
  ・鶏肉(ぶつ切り)
  ・固形カレールー(本来なら各種スパイス)

  作り方

  ・たまねぎをオリーブオイルであめいろになるまで20分ほど弱火でいためる。
  ・そして残りの食材をいっぺんに全部入れてひたすら煮る(ここが若王子アレンジポイント)。


「……これを佐伯式というには、あまりに乱暴な作り方ですね」
「やっぱり怒りますかね? 佐伯くん」
「瑛には内緒にしたほうがいいと思います。多分、プライドが許さないと思います」
「わかりました。内緒にしておきましょう」

 そんなこんなで。
 付け合せのサラダやなんやらを作ってるうちに、練習終了の5時。
 いそいで食堂にカレーを持っていってお皿の準備をしていると、陸上部員たちがちらほらやってきた。

「うぉっ、予想外のいい匂い。若ちゃん、何作ったの?」
「えっへん。さえ……じゃなくて、若王子式おいしいカレースペシャルです!」
「うわぁ、おいしそう! これ、若サマとさんで本当に作ったの!?」
「うん、ほとんど先生が作ったようなものだけどね」
「そんなことないです。さんがいなければ、カレーを作るという発想すら出てきませんでした」
「「「「「さまぁぁぁ!!」」」」」
「……そこまでさんだけ尊敬集めると、先生いじけちゃいます……」
「あ、わ、せんせぇ、ほら行列できてますよ! カレーよそいましょう!」

 ちょっと作りすぎたかな? と思ったカレーは即完売御礼。
 サラダも先生と一緒にあーでもないこーでもないと試行錯誤してつくったドレッシングが好評だった。

 ああ、人に喜ばれるのって、こんなに気持ちが晴れやかになる。


 洗い物を陸上部1年生と一緒に片付け終わったのが午後8時。
 私は陸上部全員のお見送りを受けながら、先生と一緒に手芸部の合宿所に戻った。

 街の喧騒から離れた森の中の夜道。
 一応学生が使用する合宿所の近辺だから街灯はあるものの、裸電球でその光量は都会のそれとは比べ物にならないほど弱い。
 先生は合宿所を出て角を曲がってすぐ、手をつないでくれた。

「おもいがけず、こんなところでさんと会えました。今日は本当にありがとう」
「私も楽しかったです。手芸部もそうだけど、部活に参加できたみたいで、懐かしかったです」
「懐かしい?」
「はい。私、中学の時は部活に所属してたんですよ。合宿の雰囲気、久しぶりに堪能できました」
「そうだったんだ。さんが楽しめたのなら、本当によかった」

 優しい笑顔をくれる先生。
 私もつられて、はにかみながら笑顔を浮かべた。

「それにしても、ほんとびっくりしましたよ。いきなり茂みの中から出てくるんですから」
「息を殺して気配を殺して、素早く仕留めるのが狩りの鉄則です」
「先生、そんなこと、どこで覚えたんですか……」
「……しばらく、世捨て人をしてた時です」

 先生は遠い目をして夜空を見上げた。

 星が無数に瞬く場所で、若王子先生は、とてもはかなく見える。

 私は無言で立ち止まり、先生は軽くつんのめる。

さん」
「人間に絶望してた時、ですか?」

 前にほんの少しだけ、先生が教えてくれた先生の過去。
 うん、と。先生は穏やかに微笑みながら頷いた。

「僕がアメリカの研究所にいたことは話したよね? そこは巨大な利権と欲望が渦巻いていて、ごく当たり前の感性を持った人間なら、十中八九、心を壊してしまうようなところだったから」
「そう……ですか」

 想像もつかない。
 私はずっと、父さんがいて母さんがいてお兄ちゃんがいて、守られながら叱られながら、愛されて育ってきたから。
 でも、先生の現実はそうだったんだ。

「何もかも嫌になって、すべてを捨てた。先生になる前は、お金がなかったからお店に入れなくて、蛇さん蛙さんウサギさん、みんなお世話になりました」

 おどけた口調で言って合掌する先生だけど、私は笑えなかった。

「や、さん。君がそんな顔する必要はないんだよ」
「は、い……」
「今は違う。だって、君がいる。さんがいると、僕の世界はきらきら光り輝くんだ」

 先生は私を静かに抱き寄せた。
 右手で私の髪を静かに撫でてくれる。
 ……もう。なんでここで私が慰められてるんだろ。
 だめだなぁ。先生といると、どうしても自分が子供だと自覚してしまう。

 はぁ。
 私の口からため息が漏れると、先生は「やや」と、私の顔を上に向けた。

「ため息はダメです。幸せが逃げます。……って、海野さんが言ってました」
「ふふ、そうですね」
「そう、さんは笑ってるのが一番……」

 腕の中の私を見下ろしていた先生が、ふと言葉を切って私の顔をじーっと見つめてきた。

「な、なんですか?」
「うん。さん、とても目がきらきらしてるから」
「そ、そうですか」
「目がきらきらしているとき、人は……」

 そこまで言って、再び言葉を切る先生。
 そして、唐突に開放される。

「先生?」
「……うん。行こうか、さん。あんまり遅くなると、手芸部のみんなが心配する」

 ふたたび私の手を引いて、さっきよりも気持ち早いペースで歩き出す。
 え、いきなりどうしたんだろう。

「先生、どうかしたんですか?」
「いえ、なんでもないです。先生の目は、見ないでください」
「目?」
「だめです」

 そう言って、先生はぎゅっと目を閉じる。

「って、何してるんですか! 目を閉じて歩いてたら転んじゃいますよ!」
「やや、その通りです。じゃあ、うーん……」
「……薄目も危険ですっ。ちゃんと目を開けてください」
「……わかりました。でも、先生の目は見ないでください」

 しっかりと目を開けて、真っ直ぐ前を向いて、さらにスピードを速める先生。
 な、なんだろう。私、何か怒らせるようなことしちゃったかな……。

さん」
「わ、ごめんなさい」

 思わず先生の顔をじっと観察してたら、先生は真っ直ぐ前を向いたまま頬を染めて、しかめっ面をした。
 うわ〜ん、なんだろう。なにが先生の機嫌を損ねたんだろう?

 考えても思い当たらず、ただ黙って前を向いて先生の横を歩いた。
 そのせいで、15分はかかるはずの道のりを、10分ほどで来てしまった。

 ちぇ、もっと先生とゆっくりしたかったな……。

 私は手芸部合宿所の玄関で、先生と向かい合った。
 でも、やっぱり先生は私と視線を合わせてくれない。
 さっきまでの楽しい気分もどこへやら。私はうつむいて、佇んでしまった。

「それじゃあさん、おやすみ」
「おやすみなさい……」

 沈んだ気持ちで顔をうつむかせたまま、私は呟くように答えた。

 すると。

 先生はさっきのように私を抱き寄せて、自分の胸に私の顔を押し当てた。

「せんっ」
「ダメです。僕の顔は見ないで」
「あああの、ここ、手芸部の子がいつ通るとも」
「構いません」

 構ってくださいっ!!
 って、言動と行動が矛盾してるでしょう、先生!

「……ごめん、さん。今夜は、僕の顔を見ないで欲しい。離れたら、そのまま合宿所に入ること。いいね?」
「ど、どうしてですか?」
「どうしても」

 先生の口調はいつものおどけた感じ。
 だけど。

 触れている部分から、先生の鼓動が聞こえる。
 とても早い。
 先生。どうしたの?

「……わかりました。このまますぐに合宿所に戻ります」
「よくできました。さん、おやすみなさい」
「おやすみなさい、先生」

 ぽんぽんと。
 先生は私の髪を軽く撫でて、それから私を解放した。

 約束通り、私は視線を下に向けたままくるりと方向転換して合宿所へ。
 靴を脱いですぐにホールの角を曲がって。

 そーっと。
 角から顔を覗かせて先生を見る。

 先生は。
 しばらくこちらを見ていたけど、やがて左胸に手をあてて長くため息をついた。
 ため息はだめです、なんて言ってたくせに。
 もう一度合宿所を見て、先生はゆっくりと帰って行った。

 なんだったんだろう、さっきの先生。
 あれは、まるで。

 …………。

 私は頭をぶんぶんと激しく横に振って、馬鹿げた想像をかき消した。


 まるで、恋をしてるみたいだ、なんて。

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