年明けは何事もなく過ぎた。
 今年はみんなの都合が悪くて、一人で初詣に行った。
 学校が始まって、いつもどおりの日常が流れ、1月はそのまま過ぎ去った。
 そして校内が浮き足立つ2月14日。
 
 私は、ある事件を起こした。


 38.2年目:バレンタインデー


「なぁ、。今年は若ちゃんに本命手作りあげんの?」

 お昼休みの屋上。
 はるひにそんなことを言われて、私は口に含んでいたお茶を盛大に噴出すところだった。

 は、鼻にはいった……。

「いきなり何、はるひ……」
「あげるんやろ? 去年もあげとったし、あげるんやろ?」
「う、あげる、けど。それがなに?」

 鼻をすすりながら聞き返すと、はるひとあかりは顔を見合わせた。

 ちなみに、藤堂さんと密さんと小野田ちゃんは今日は留守。
 藤堂さんは後輩女子からのプレゼントに辟易して雲隠れ。
 小野田ちゃんは氷上くんと一緒に、行き過ぎた行為がないかどうかを監視してるらしい。
 密さんは……どうしてるのかな。今日はクリスくんの姿もあまり見かけないけど。

「あのね、うちのクラスの女子も何人か若王子先生にチョコあげに行ってるんだけど」
「うん」
「受け取ってはくれるらしいんやけど、相変わらずツレナイらしいで? 若ちゃん。『ありがとう。先生は仕事があるから、これで』やて。若サマ冷たーい!」

 はるひはブリッコポーズでいやいやするように頭を振った。
 きっと、クラスの女子の真似してるんだろうな。

「ほんまにどないしたんやろな、若ちゃん。年末からずっとあの調子や」
「うん……」

 私は年明けすぐのことを思い出してた。

 クリスマスのことを謝ろうと思って。
 頭脳アメ試食券を持って化学準備室に行ったときのこと。
 先生はちらっとこっちを見ただけで、黙々と仕事をしてた。

 すーっごく気まずくて。
 なんとか言葉をしぼりだして謝罪したのに、先生はたった一言。

「気にしてませんから、さんも気にしないでください」

 これだけ。
 そして引き出しから頭脳アメ(と思われるモノ)を5個とりだして、私の試食券を5枚とも回収してしまった。

 その日一日、全然気が晴れなかったんだよね……。

 でも、先生。
 準備室のデスクの上に、あのガラスの天使を飾ってくれてた。
 私の出したプレゼントって、わかってるのかなぁ?

、あんまり愛想なくされても、傷つくんやないで?」
「あ、大丈夫だよ。平気平気」

 はるひの忠告に、私はぱたぱた手を振った。

 私がどうとかよりも。
 どうして先生が急にそんな態度をとるようになったのかが気になって仕方ない。

 一体、何があったの?


 放課後。
 私は、先生に渡すため昨日がんばって作ったチョコを手に、化学準備室に向かっていた。

 ど、どきどきするなぁ……。
 去年はこんなことなかったのに。
 賄賂です! って渡したんだもんね。はは、今思い出すと恥ずかしい……。

 化学準備室の近くまで来たとき、ドアが開いた。
 女の子が3人出てくる。確か隣のクラスの、先生ファンの子だ。
 でも。心なしか表情が暗い。

「……あ、さん」

 私に気づいて、寄ってきた。
 手の中の荷物に視線を落として。

「若サマにあげるの?」
「え、うん……」
「ねぇ、さんは知らないの? 若サマが急に冷たくなった理由!」

 3人に取り囲まれるように、私は壁に背をついた。

さん、若サマのお気に入りなんでしょ? 事情知ってるなら教えてよ!」
「お、お気に入りって」
「いっつもヒイキしてもらってるじゃん!」

 そう、見えてるの?
 私と若王子先生の関係性って、他の人から見ると。

 ……いや、きっとこの子が若サマ親衛隊の一人だからだろうな。
 だからって、いきなりの喧嘩腰は……。

「それともなに? 自分には優しくしてくれてるから、そんな義理ないっての?」
「なんかさぁ、さん、いい顔しすぎじゃん? 若サマに限らず男子にちやほやされてるからって」

 って。
 これはあからさまに八つ当たりでは。

「あのね、私バイトあるから、急いでるんだけど」
「だからぁ、うちらに理由さっさと教えりゃいいじゃん!」
「知らないんだってば!」

 私はいじめられて黙ってるタイプの人間じゃない。
 ついついこっちも声を荒げてしまって。

 すると、やっぱり。

「コラ!」

 化学準備室から、先生が出てきた。
 怒ってるように見えるけど、そもそもが迫力ないんだ、これが。

「何してるんですか」
「……ちょっとさんと話してただけですよぉ?」
「そういう風には聞こえなかったです」

 腕組して仁王立ち。似合わない。

 結局彼女たちはお互い顔を見合わせて、引き下がることに決めたらしい。
 私もさっさと先生にチョコを渡してしまおうと、先生の方に歩き出したら。

「二股かけてるくせに、若サマにまでいい顔してんじゃねーよ」

「……は?」

 なに、今の、捨て台詞。
 完璧な言いがかりにカチンと来て、私は振り向いて追いかけようとして。

さん」

 先生に、止められた。
 私はこぶしをぎゅっと握りながらも、先生について化学準備室に入った。

 悔しい。いつかぎゃふんと(死語)言わせてやるっ!


「それで、さん。先生に何か用ですか?」

 先生はデスクに座らず、その前で私を振り向いた。

 私はとりあえずさっきのことは忘れて、笑顔を作って先生にチョコの包みを差し出した。
 今年のチョコはブラウニー。1回失敗してしまったから、結局寝たのが3時をまわったくらい。
 今日の授業は辛かったんだよね……欠伸我慢するのが。

「バレンタインのチョコを渡しにきました。どうぞ!」
「うん」

 先生は返事をするものの、私の手の中の包みを見たまま動かない。

 はるひの言うとおり。
 先生、ほんとうに素っ気ない。
 ……でも今日はバイトがあるから、あまり時間が割けない。
 渡すだけ渡したら、今日のところは退散しよう。

「これは、手作り?」
「はい。昨日、がんばったんですよ」
「うん」

 先生はもう一度頷いて。
 私を見た。

「これは、受け取れない」
「え」

 一瞬、自分の耳を疑った。

 今、なんて。

「せんせ」
さん」

 私の言葉を遮って、先生はため息をついた。
 先生。とても疲れたような表情。
 どうして。

「僕は教師で君は生徒だ。僕が口出ししていいのは、君の勉学や学校生活に関するものだけなんだろうけど」

 先生、困ってる。
 何に?
 私、に?

「でも、やっぱり君が悪く言われるのは我慢ならないし、そんなこともして欲しくない。これを渡す相手を、間違っているよね?」
「な」


「佐伯くんなのか志波くんなのか、もしかしたら別の誰か、君の相手が誰なのか僕は知らないけれど」

「隠れ蓑とするためだけに、じゃあ受け取ることはできない」

「もしかしたらそうなってあげることが教師としての優しさかもしれないけど」

「僕には我慢できない。どうやら僕にも、人間らしい感情があったみたいだ」


 先生の言葉を聴きながら。
 私は鈍い頭痛を感じていた。

「誰が、そんなこと」
「誰が?」

 呆然として聞き返すと、先生は呆れたような、困ったような。

「みんな言っているよ? さん、誰かを好きになることはいいことだけど、夢中になりすぎてまわりが見えなくなったら、自分が辛い思いをするだけだ」



 みんな、って誰。

 さっきの子たち?

 先生、そんな言葉を信じたの?

 今まで、私を見ててくれたのに。

 それとも、見ててくれたと思ったのは、私の、自惚れ。



「でもちょうどよかった。さんを支えてくれるだれかが出来たことは、僕にとっても喜ばしい」

「これで、いつでもここを発てる」

「このガラスの天使のように、また新しい土地へ」


 先生の独白めいた言葉を止めたのは、私だ。

 手にしていたチョコの包みを、乱暴にゴミ箱に投げ入れたからだ。

 先生は驚いてしゃべるのをやめた。
 私はそのまま先生のデスクに寄って、ガラスの天使を右手で思い切り、払った。

 壁にあたり、床に落ち、派手な音を立てて天使が砕け散る。

さんっ」

 さすがに先生も声を荒げる。
 けど。


 パァン!!


 私は。

 右手で、先生を殴っていた。
 叩いた右手のひらがじんじん痛む。

 叩かれた方の先生はというと。
 唖然とした表情で、私を見下ろしていた。
 左頬が赤くなってきてる。
 その顔には、ただただ驚きばかり。

「なん、で、先生に、そんなこと」

 あまりの怒りで声が震える。

「そんなこと、言われなきゃ、ならな」

 うまく、息が吸えない。

「私が、好きなのはっ」

 瑛じゃない。
 志波くんじゃない。

 先生なのに。

 先生に、誤解された。

 先生に、嫌われた……っ。


 っ。
 胸が、痛い。

さん、発作が」
「触らないでっ!!」

 こんなのもう、ただのヒステリーだ。
 心配してくれてる先生の手を振り払って、私は金切り声で叫んだ。

 息苦しい。胸が痛い。
 久しぶりの症状だ。もう、平気だと思ってたのに。

 先生がいるから、もう大丈夫だと思ってたのに。


 私は化学準備室を飛び出した。
 もう先生を見ていたくなかった。

 走って、息苦しくて、がくんと膝をついて。

ちゃん!? どうしたん!?」
「おい、どうした!?」

 胸を押さえて、必死で息を吸おうとして、意識朦朧としてきた中で。
 聞こえてきたのはクリスくんとハリーの声。

 いやだ、こないで。

 これ以上先生に、嫌われたくないよ。

 私は近寄るなとばかりに右手を振った。

 でも、重症なPTSDの発作に襲われていた私はそのまま廊下に倒れてしまった。
 聞こえる声も、どんどん増えてくる。


 ふと、私の体が宙に浮いた。
 誰かが私を抱き上げたんだ。

 このまま救急車、かな。


 優しい温もりと嗅ぎなれた薬品の匂いに包まれながら。

 私は意識を手放した。

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