携帯がなる。
 表示されている人物は……。


 25:自覚


「先生!」
『コール3回以内。ピンポンです』

 8月最初の土曜日の夜。
 若王子先生から電話がきた。

さん、夏休みがっぽり稼いでますか?』
「今のところ順調です。臨時バイトは今のところ瑛……佐伯くんとクリスくんからまわして貰ったのを終わらせて、8月半ばには藤堂さんからのオファーも入ってます!」
『それはよかった。このまま目標金額まで、エイエイ、オーです』
「はいっ」

 久しぶりの先生の声。のんきで優しい温かい声。
 なんだか気分が一気にはずんできた。

「ところで、今日はどうしたんですか?」
『はい。明日の日曜日は、予定が空いてますか? 西本さんからの連絡だと、まだ予定は入ってないようなんですけど』
「ええ、まだなにも。あ、課外授業……じゃないですよね。私、クラス違うし」
『いえいえ、さんならいつでも歓迎ですよ? でも、明日は違います』

 じゃあなんだろ。
 私が電話口で考えこんだまま黙っていると。

さん、デートしない?』

「……は」


 今

 先生は

 何て言った?


「デート、ですか?」
『デート、です』

 いや、意味がわからない。

さん、びっくりしてる。ピンポンですか?』
「ぽぴん」

 舌、もつれた。

『や、すいません。いたずらが過ぎました』
「……は」
『学期末159人抜きしたさんに、先生からご褒美です。少し休憩しよう』
「休憩?」
『うん。海に行って、クルーザーに乗ろう』

「クルーザー!?」



 なんで一介の教師がクルーザーなんてブルジョワなものを持ってるんだろう。
 と思ったけど、やっぱり理由があった。

「先生がお世話になってる人のものなんです」
「そうだと思いました」
「やや、騙されてくれませんでしたか」
「そりゃそうですよ」

 先生と駅で待ち合わせて、一緒に出向いたヨットハーバー。
 とっても大きくて立派な船体。
 うはぁ、こんなの個人所有してるようなすごい人と、先生が結びつかない。

「でも、先生が船舶免許を持ってるなんて意外です」
「持ってません」
「は、え?」
「免許を持ってなくても、乗ることはできます」

 えっへん、と胸をはる先生。

 えーとつまり。

「ほんとに乗るだけですか?」
「いえ、甲板掃除というオマケつきです」
「……巻き込みましたね、先生……」
「先生は大人だから、時々ズルイんです」

 大人って……。


 とはいえ、クルーザーに乗るのは初めてだし、それなりに興味はある。
 私はデッキブラシを持って、ぐるりと甲板を一周走った。

 うわ、広い。
 それに、気持ちいい!

さん」

 ぐーっと伸びをしていると、先生に背後から呼ばれた。
 くるっと振り返った途端。

「ぶっ!」

 ……いきなりホースで水をかけられた。

「あはは、水もしたたるいい女、ですね?」
「せんっ……いきなり何するんですかっ!」
「暑そうだから、涼しくしてあげようと思いました」
「絶対うそだー!」

 私は手にしたデッキブラシを構えて、先生の足元に狙いを定めて反撃する。

「ややっ、凶器は反則です!」
「嘘ばっかりつく人には、お仕置きです!」

 デッキブラシを甲板にすべらすように先生を攻撃。
 対する先生は、ひょいひょいと意外にも身軽に全部かわしていた。

 陸上部顧問も、伊達じゃないのかも。

「えいっ!」
「あまいっ!」

 なんてことをしばらく続けていたものだから、甲板はもう水浸し。

 つるっと、足元がすべった。

「きゃあっ」
さんっ」

 いたた……腰打っちゃった。
 うう、先生を転ばそうとしてたのに、自分でコケてたら世話ない。あう。

「大丈夫? ちょっと、調子に乗りすぎたかな」

 先生が心配そうに手を差し出す。

 ……けど。

「あまいっ、隙あり!」

 私は先生の反対の手からホースを奪い取り、ホースの口をせばめて、先生の顔面におもいっきり水圧を高めた水をかけてやった。
 よし、反撃成功!

「ひ、ひどいです、さん」
「うふふ、私の勝ちですね、先生!」
「あ、そういうことを言いますか。ホース返せっ」
「いーやーでーすー!」

 デッキブラシを放り投げて、今度はホースの奪いあい。
 その間もずっと水は出続けてたわけだから……。

 私も先生も、上から下までぐっしょり濡れてしまった。

「やー……先生、着替え持ってきてないです」
「私もです。でも、今日はこんなに陽射しが強いから、すぐ乾きますよ!」

 スカートの裾をしぼる。あはは、すごい水の量。
 先生も上着を脱いで、雑巾をしぼるように水を切っていた。

 って、いきなり上半身裸にならないでくださいってば!
 私は慌てて反対を向いた。

「せんせぇ……セクハラですよ」
「はい?」

 私の前にまわりこんでデッキブラシを渡す先生は、もう上着を身に着けていたけど。

「一応お掃除の約束もありますから。やりましょうか」
「そうですね」
「じゃあ、どっちが先に舳先までたどりつくか、競争です!」
「あ、ズルイ!」

 いいながら、ブラシをすべらせて走り出す先生。
 私も急いでそのあとを追って、先生の足にブラシをぶつけた。

 その後はお互いにブラシで牽制しあって。
 結局掃除そっちのけで、また対決になった。


 太陽があんなに高い。
 そろそろお昼かも。

さん、お昼ご飯を食べよう」

 先生が唐突にそんなことを言い出したのは、デッキブラシ対決にたっぷり1時間もかけたころだった。
 予想通り、すでに服も半乾き状態。

「先生、私、お昼の準備は」
「うん、今日は僕の奢り」
「先生の?」
「宅配ピザを頼んでおきました」
「ピザ!!!」

 感激のあまり私は両手をぱちんと叩いて、ぴょんと飛び上がってしまった。
 その様子に先生はきょとんとして。

「ピザ大好き……」
「ピンポンです!」

 先生の言葉を遮って万歳三唱。
 家族といた頃は、ことあるごとにピザをねだっていた私。
 一人暮らしの切り詰め生活を始めてからは、ピザは超が何個もつく贅沢品。

 ……ひとりでピザ食べるむなしさっていうのもあるけど。

 先生はしばらくじーっと私の顔を見ていたけど。
 やがてふっと微笑んだ。

「よかった」
「はい?」
「僕の選択で君が喜んでくれて」
「っ、は、はい」

 こういうとき。
 先生はもう少し、自分がイケメンであるという自覚を持って欲しいと思うのデス……。


 8等分のピザを、先生3枚、私が5枚。

さん、ナイス食べっぷりです」
「おまかせくだふぁい」
「やや、口の中は」
「……カラにしてからでした。ごめんなさい」

 1年以上ぶりのピザを堪能した私。
 呆れてるのか感心してるのか、先生は見守る視線そのもので私を見ていた。

さん、幸せそう」
「そりゃあもう。すっごくひさしぶりのピザですから」
「もう一声」
「え? あ、もちろん先生が息抜きに誘ってくれたことが一番ですよ」
「ありがとう」

 子供っぽい笑顔を浮かべる先生。
 大人になったり子供になったり、忙しい人だなぁ。

さん、食後は少し休憩です。お話してください」
「は、お話ですか?」
「はい。先生と離れ離れになってた4ヶ月のうちに、どんなことがあったのか」
「そんなおおげさな」

 私は笑ってしまったけど。
 ぽつぽつと先生に話し始めた。

 話し始めてみると、意外に話は盛り上がった。
 後半クラスのことは先生もあまり知らないらしくて、前半クラスとの違いに興味深そうに頷いてた。
 私が新しいクラスで出来た友達のことは、ものすごく熱心に聞いていた。

 逆に先生が教えてくれたのは、私と親しい前半クラスの子のこと。
 はるひと志波くんと天地くんが時々開いてるスイーツ定例会に招かれたとか。
 水島さんが女子に告白されてるところに出くわしたとか。
 藤堂さんには会うたんびに上から下まで疑わしげに見られることとか。

「そうそう。この間化学の授業中に氷上くんと勝負しました」
「何の勝負をしたんですか?」
「デオキシリボヌクレオチドの早口合戦です。負けちゃいました」
「あはは、その手のネタじゃあ氷上くんには勝てませんよー」

 そんなことを話しながら時間は過ぎて。

 でもいい加減掃除を再開しなきゃ日が暮れてしまうということで、船室を掃除しに移動した。

 船室も豪華絢爛。
 趣味のいい調度品が置いてあって、持ち主のセンスのよさがうかがえる。

 私と先生のおしゃべりはつきることがなくて、船室を掃除している間もずっと続いた。

 その間に簡易ベッドにあった枕で枕投げしたり。

 掃除機とはたきで対決したり。

 ふたりして子供のようにはしゃぎまくった。


 そして。

「……さん、上がっておいで」

 甲板に出ていた先生が私を呼んだ。
 急いで先生のもとに行くと。

 あざやかな茜色が広がっていた。

「うわぁ……」

 昼間は雲ひとつない晴天だったけど、今はいい感じにいわし雲が広がっていた。
 空も海も、すべてが夕焼けのオレンジ色。

「きれいですね」
「うん、きれいだ」

 しばらくその夕焼けにみとれていた私。
 でも、ふと思い出したことがあって、舳先に向かって駆け出した。

さん、どうしました?」
「夕焼け見てたら思い出したんです。これ!」

 舳先ぎりぎりに立って、両手を広げる。
 海で、豪華客船じゃないけど船の上で。
 こんなチャンスまたとない!

「やや、先生もそれ、知ってます!」

 あとからやってきた先生の声も弾んでた。

「タイタニックですね?」
「ピンポンです!」

 夕焼けが広がる大海原に、私のスカートを翻す海風。
 まさしく映画の中の、ローズそのもののシチュエーション。

 ああ気持ちいい。

さん」

 すぐ後ろ、じゃなくて。
 耳元で、先生の声がした。

「君がローズなら、僕はジャックだ」

 そう言って。
 先生は私の両腕を掴んだ。

 映画と全く同じ状況の再現。

 風が、吹き抜ける。


 声が出なかったし、出そうとも思ってなかった。
 ただ、背中に感じる先生の温もりが心地よくて。

 先生もそのあと何も言わなかった。
 しばらくふたりで、そのままいた。



 茜色が引いて、宵闇色が濃くなってきた頃。

 海の向こうに、花火が瞬いた。

「今日は花火大会だったんですね」
「はい」
「きれいです」
「そうですね」

 クルーザーから見える花火はとても小さくて、音もとても小さくて。

 でも、先生と一緒にそのまま見ていた。

「去年のリベンジになりましたね?」
「あ、そういう意地悪いいますか」

 唇をとがらせる先生。思わず笑ってしまうと、先生はますます拗ねてしまった。


 帰り道。
 幸い、花火大会会場とは離れていたから、混雑には巻き込まれずに帰ってこれた。

 いつものように先生が手を引いてくれて。

 そういえば、いつから先生と手をつなぐの当たり前になってたんだっけ。

「お疲れ様、さん。今日はありがとう」
「いいえ。すごく楽しかったです。家まで送ってくださってありがとうございました」
「うん、いいんだ。それじゃ、バイトがんばって」
「あ、先生」

 エレベーターが来た。
 私は動かないように扉に足をはさんだまま、先生に聞いた。

「夏休み明け、すぐに先生の誕生日ですよね? 何か欲しいものありますか?」
「……あっ」
「忘れてましたね?」

 はいすっかり、と先生は笑った。

「先生、もともと物欲がないから……すぐには思いつきません」
「そうですか」
「でも、さんがくれるんだったら、なんでも嬉しいです」
「教頭先生に怒られますよ?」
「もちろん、しー、です」

 いたずらっぽく微笑む先生。私も笑顔を返した。

「おやすみなさい、先生。今日は、ほんとにありがとうございました!」
「僕も楽しかった。おやすみ、さん」

 笑顔で手を振って別れた。

 家について、私はぺたんと床に座って、手近にあったどくろクマを抱きしめた。
 どくろクマは温もりを返してくれない。


 今日、初めて自覚した。


 私、若王子先生に、恋してる。

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