「ご注文頂いていたガーベラのアレンジメントはこちらです。…代金ちょうどお預かりします。ありがとうございました!」
「……ん、今の応対完璧だな。二重マル!」


2.5月1日


「へへ、ありがとうございます、真咲先輩」

 お客様に向けて下げていた頭をあげると、花屋アンネリーのバイトの先輩である真咲先輩が片目をぱちんとつぶってぐっと親指を見せてきた。

はほんと覚えが早いよなー。俺も先輩としてうかうかしてらんねー」
「って言っても、まだ私が出来るのは接客だけですよ。アレンジメントなんてとてもとても」

 間近にせまった母の日用のカーネーションを大量にさばきながら、真咲先輩は肩をすくめるけれど。

 ちょっとわけあって生活費の工面が困難な私は、飛び込むようにしてアンネリーでのバイトを始めていた。
 最初は人生初のバイトということもあってすっごく緊張してたんだけど。
 お客と勘違いしてセールストークしてきた真咲先輩がはね学OBとわかって(しかも若王子クラス!)、リラックスしてバイトを始めることができた。

 ちなみにバイトはもう一個掛け持ちしてる。まかないが出るという理由で商店街のウイニングバーガー。
 こっちははばたき学園生のお客が多くて、バイトの先輩にもはば学OGがいた。

「もうすぐ母の日かぁ……」
はどうすんだ? 実家に花、贈らないのか?」

 カーネーションをさばく手を止めないまま真咲先輩は何気なく言ったつもりらしい。
 …まぁ、私の両親が他界してることを言ってないから仕方ないんだけど。

 気まずくなるのも嫌だから、私は適当に「えへへ」と笑ってごまかすことにした。

 、んだけど。

「どーした。顔赤いぞ。熱あるのか?」

 今日の放課後の出来事を思い出してしまった私に、真咲先輩が作業の手を止めて尋ねる。
 確かに私の顔は今、赤いはず。
 カーネーションの真紅の色を見て、思い出しちゃったんだもん……。

「真咲先輩」
「なんだ? 具合悪いなら有沢か店長に言って上がってもいいぞ?」
「いえ。その。真咲先輩、キス、したことありますか?」



「は?」



 お客さんがはけていたのが幸い。
 真咲先輩はとんでもなくすっとんきょうな声を出し、隣の台でアレンジメントをしていたもう一人のバイトの先輩・有沢さんもおもわずバラを落っことしてしまっていた。

「おま、なに、それ、どした? いきなりどーしたお前!」
「いやあの、どーしたって言われると」

 動揺してる真咲先輩以上に私が動揺してるんです! …とは言わなかったけど。
 あ、有沢さんもなにげに耳ダンボにして聞いてるな。

「は、はーん。さてはお前、入学早々、好きなヤツでも出来たんだな?」
「あ、私の話じゃないんです」

 にやりと笑う真咲先輩に、私はぱたぱたと手を振った。

 そう、私の話じゃないんだよね。

 その事件は今日の放課後。
 入学式以来すっかり仲良くなった海野ちゃんと、化学室の片付け当番をしてたときのこと。


 ほとんど片づけを終えて、あとはシャーレや試験管を棚にしまって机をふくだけ、というところまで済ませた私たち。

「海野ちゃん、それじゃあ私、台拭き濡らしてくるね」
「うん、お願いねさん」

 海野ちゃんが試験管をしまいはじめたので、私は汚れた台拭きを洗いに奥の水場に行った。
 水場のすぐ隣は準備室の扉。水音に気づいたのか、中から若王子先生が出てきた。

 若王子先生は1年生の化学の教科担任で、私と海野ちゃんの所属する1−Bの担任でもある。
 入学式でいきなり天然っぷりを発揮してくれたものの、背は高くてかっこよくて、話し口調も温厚だから生徒たち(特に女子!)からは人気が高い。

「や、さん。お掃除ごくろうさまです」
「はい。もうすぐ終わりますから」
「さぼらずキチンとやってくれたみたいですね。先生、感心しちゃいます」

 うんうん、と頷きながら海野ちゃんのほうに歩いていく先生。

 先生って、高校教師よりも小学校の先生みたいだよね? って言ったら、はるひは「保父さんとちゃうの?」って言ってたっけ。
 なんてことを思い出し笑いしていたら。

「う、わっ!?」

「危ない!」

 がたん、どんっ!!

 海野ちゃんの悲鳴と、若王子先生の始めて聞く緊迫した声と、にぶい衝撃音。

「どうしたの!?」

 振り向いた先にはふたりの姿はなく。
 私は慌てて海野ちゃんがいたはずの戸棚の前に走って……

 そこで目撃しちゃったのだ!!

 実験台と器具戸棚の間の通路に仰向けに倒れている若王子先生と。

 その若王子先生の上にシャーレを握り締めたままうつぶせに倒れこんでいる海野ちゃんと。

 ばっちりくっついている二人の唇を……。



 ……って、えええええええ!?



「だっ、大丈夫ですか!? 若王子先生!」

 がばっと海野ちゃんが立ち上がって、心配そうな声をあげる。
 先生も「う〜ん」と間の抜けた声を出しながら立ち上がり、白衣をほろった。

「先生は大丈夫。君は大丈夫? あ、唇以外は、という意味で」
「「ええっ!?」」
「冗談です」

 おもわず重なった私と海野ちゃんの声に動じることなく、先生は真顔で返答する。

 な、な、な、なんなの??

「一応、保健室に行ってみてもらったほうがいい。あとは先生がやっておくから」
「は、はい……」

 赤くなってるのか青くなってるのかわからない顔色で、海野ちゃんはふらふらと化学室を出て行った。
 だ、大丈夫かな、本当に。

さん」
「はいぃ!?」

 突然呼ばれて、裏返った声で返事してしまった私。
 振り向いたさきの先生はきょとんとした顔をしていたけど。
 何を言わんとしているかは、私にだってわかる。

「だ、大丈夫です! 誰にも言いません! ほら、海野ちゃんと、先生の名誉のために! 事故、事故チューってヤツですよ。気にしちゃいけません!」

 って、なんで当事者でもない私が一番焦ってるんだか。

 そんな私をぽかんと見ていた先生だったけど。
 やがてわざとらしく「ああそうそう」と言って、

「先生、今日は陸上部に顔を出さなきゃいけないんでした。さん、すいませんけど、後片付け頼んじゃっていいですか?」
「あ、はい。それはもちろん……」
「やや、それは助かります。お礼に、準備室のコーヒーを差し上げます。今ならまだ温かいはずです」
「はぁ…」
さん、それでは先生はこのへんで」

 さわやかな笑顔で去っていく先生を見送りながら、私はぽつんと化学室に取り残されたのだった。


 真咲先輩から聞いていた、若王子先生のフラスコサイフォンコーヒーを、その後遠慮なくもらったけど。
 その後数日、海野ちゃんと先生を見るたびになぜか私ひとりが赤くなる始末で。

 授業なんか身に入るわけもなく、若王子七不思議の真相を解き明かすことは出来なかった。

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