有意義な他校偵察が出来た、貴重な休日の午後。
 夕方と呼ぶにはまだ早い時間だったから、オレは気分転換に少し足を伸ばしていた。

 5月の綺麗に晴れ渡った青空は、無目的に散歩しているだけでも精神に安息をもたらしてくれる。
 今朝みた天気予報通り、今日の降水確率0%は間違いなさそうだ。

 ……と、思ったときだった。

「わぁっ」

 小さな悲鳴と水音が聞こえた。
 声が聞こえてきた白壁の上を見上げた瞬間、オレ目掛けて飛んでくる……水?

「うわっ」

 避けるヒマもあればこそ。
 降水確率0%の晴天日に、オレは頭からずぶ濡れになってしまった。

「……理屈じゃない」

 呆気に取られてつぶやいていたら、後方の門から同い年くらいの少女が飛び出してくるのが見えた。



 5.乾汁生産契約農家



「まいったな」

 オレは手渡されたバスタオルでがしがしと髪を拭く。そのあとに、大事なデータノートを守ってくれた鞄を拭いて。
 眼鏡の水滴を拭った後、オレは通された和室から外を見た。

 サザエさん家以外で初めて見る、日本家屋の縁側の風景。
 学校のグラウンドのような白茶の土の更地が広がる、風情のかけらもないだだっ広い庭。
 視界の右手隅に網のないバスケットゴール。左手隅には……オレが濡れる原因となったらしい、小さな家庭菜園。

「上着、乾燥機にかけようか?」

 何を育てているのか気になったところで、オレをこの屋敷の中に案内してくれた子がお盆に湯のみを乗せて戻ってきた。

 肩より少し長いくせのある髪が、小花柄のワンピースの上で揺れている。
 運動の類はしていないと予想される細い体をした、小柄な女子だ。
 名前はと、さっき名乗っていた。
 年下にも見えたが同い年らしい。

「いや、それには及ばない。今日は暑いし、風邪を引くこともないだろう」
「そう?」

 首を小さく傾げながら、彼女はオレに湯のみを差し出した。
 中身は緑茶。……めずらしいな、茶柱が立っている。

「畑に水遣りしようとしただけなんだけどね。いくら蛇口ひねってもちょろちょろとしか出てこなくて。おっかしいなーって思ってたら」
「大方自分でホースを踏んづけていた、というところじゃないか?」
「当たり! それで慌てて足どけたら、今度は勢いよすぎて壁の向こうに水が飛んでっちゃって」

 オレの目の前にちょこんと座ったさんは、あははと邪気のない笑顔を見せた。
 この笑顔、どこかで見たことあるな、と記憶を探って。
 そうか。英二がこういうふうに笑っていたなと思い当たる。

「乾、って言ったよね? 荷物は濡れなかった?」
「ああ、大丈夫だ。撥水加工のしてある鞄だから、中身は無事だよ」
「よかった〜。なんか高価なものでも台無しにしてたらどうしようって思ってたから」

 ちっとも困ってなさそうな顔して笑う彼女に、なんだか調子が狂うんだが……。

 オレは出されたお茶に口をつける。……73℃くらいか。少し温めだけど味はいい。

 半分ほどを飲んだところで、視線に気づく。
 見れば、さんがにこにこしながらオレを見ていた。

「なにかな」
「乾ってもしかして、テニスするの?」
「ほう、よくわかったね」
「だってその鞄、テニスメーカーのロゴが入ってる」

 さんが指したオレの鞄。たまたま偵察に行く道具を収めるのにちょうどよかったから持ってきたバッグだ。
 しかし……。

「このメーカーはテニスに関わらず、あらゆるスポーツ用品を取り扱っているはずだけど?」
「あれ、そうなの? なんだ、友達が同じメーカーのラケット使ってたから」

 思い込み、というやつか。どうやら彼女、スポーツにはあまり詳しくないようだ。

「テニス部?」
「ああ。オレは青学のテニス部員だ」
「……青学?」
「東京の私立青春学園。一応、テニスでは名門と言われているんだけどね」
「そうなんだ。そういうのもちゃんと覚えておかないとまた怒られるんだろうなぁ……」

 なぜか、はぁ、とため息をついて落ち込むそぶりを見せるさん。
 だがそれも一瞬のことで、顔をあげたその時にはまたのんきな笑顔が戻っていた。

 なんだか本当に女版英二を見てるみたいだ。

「ふむ。さんがテニス部員である確率85%……それもプレイヤーではなくマネージャーである確率は98%」
「へ?」
「どうかな。当たっているかい?」

 オレの言葉に一瞬きょとんとしたさんが、ぽん、と手を打った。

「そっか。誰かに似てると思ったんだ」
「なにが?」
「乾がね、私の友達に似てるんだ。さっきの確率何%ってしゃべりかた、そっくりだったし!」

 何かを思い出しているのか、くすくすと笑い出す彼女。

 しかし気になる一言だな。
 データに基づいた理論的なしゃべり方と言われてオレが思いつくのは一人しかいない。
 そしてここは東京寄りとはいえ神奈川県内。

 もしかして、これがよくいう『世間は広そうに見えて実は狭い』という現象なんだろうか。
 ふむ。思いがけず貴重なデータを取る機会に恵まれたものだ。

 オレは鞄から愛用のデータノートを取り出した。
 予想でいけば、さんが立海のテニス部員である確率は90%以上。女子テニス部員だとしても、昨年全国覇者の男子テニス部のことは多少なりとも知っているだろう。
 うまいことデータを引き出せれば、関東大会まで進んだ後の試合が楽になるはず。

「……さっきから不思議なんだけど、なんで乾の顔逆光になってるの? 真正面から光浴びてるはずなのに」
「気にしないでくれ。逆光は趣味なんだ」
「逆光って趣味にしてるといつでもできるの?」
「世の中理屈じゃないことも多々あるということさ。さて、さん」

 いまだ首を傾げながらオレを訝しげに見ているさんだったが、呼びかければのほんとした表情に戻る。

「さっきの話だけど、君はテニス部員だね? それも高い確率で立海大付属中学の」
「当たり! すごいね乾。なんかホントに柳みたい」

 やはり蓮二か。
 悪いな、蓮二。幼馴染とはいえ、データテニスにおいて出遅れるわけにはいかないからな。

「そうだよ。でもプレイヤーじゃなくて、男テニのマネージャーなんだけどね」
「それは好都合だ。じゃなくて、大変だな。全国制覇を成し遂げた部活のマネージャーはキツイだろう?」
「うん、大変だよ。もー毎日毎日真田に怒鳴られて……あ、同じ学年のレギュラーで真田って子がいるんだけどね」
「ああ知っているよ。彼は全国区プレイヤーで有名だからね」

 いきなり大ネタが来たな。
 まだ2年だが中学テニス界において『皇帝』の異名をとる立海のキーマン。

 オレは膝の上に置いたノートにペンを走らせる。
 さて、なにから聞き出そう。真田のプレイスタイルか、それとも手っ取り早く苦手とするコースか。

 ……などと思っていたら、予想もしない言葉がさんの口から発せられた。

「へー。うちのテニス部って本当に他校にも有名だったんだね。ようやく実感でてきたカンジ」

 それはまるで他人事のような口調で。
 オレはぴたりと手を止めて、さんの顔を見つめてしまった。

「ず、随分と客観的な言い方だね」
「あはは、実は私マネージャー始めてまだ一ヶ月もたってなくて。テニスのルールすら勉強中だから」

 あっけらかんと笑いながら言うさんに、オレのほうが呆然だ。

「ち……ちなみに、真田の弱点とかは知っているかい?」
「真田の弱点? それって幸村のことでしょ。真田って生真面目だから、いっつも幸村にいじられて遊ばれてるからね」

 ……さすがだ、蓮二。王者立海のデータ流出を天然マネージャーで防ぐとは。

「どうしたの? あ、幸村っていうのはうちのレギュラーでね」
「いや……知ってるよ。大丈夫」

 がっくりと肩を落としたオレに、さんは不思議そうに首を傾げていた。

 と、その時オレたちのいる和室の中にオレンジ色の光が飛び込んできた。
 ああ、もうそんな時間になっていたのか。どうやら長居をしてしまったようだ。

 さんからは個人データは聞き出せそうだが、テニスに直結する有益なデータは聞きだせそうにないし、帰って今日の偵察校のデータをまとめた方がいいのかもしれない。
 そう思ってオレが腰をあげようとした、そのときだった。

「あ、水遣り! 途中だったんだ!」

 そう言って、さんがぱっと立ち上がる。
 縁側においてあったつっかけサンダルに足をつっこんで、ぱたぱたと左手の家庭菜園の方へ駆け出して。

 畑、と言っていたな。何を育てているんだろう?
 気になり、オレも立ち上がって縁側に向かう。
 雨戸に手をついて、顔だけ庭に突き出して見れば、さんが手にしたホースの先を指で潰して青葉に水遣りをしていた。
 なんとも豪快で大雑把な水遣りだ。

「何を作っているのかな」
「これ? 季節によっていろいろだけど、モロヘイヤとか明日葉とかケールとか」
「へぇ。家庭菜園にしては、随分偏ったものを作っているんだな」
「じいちゃんの趣味だよ。昔農業やってたんだけど、引退してからは育てたことないもの育ててみたいって言って」

 さんが言った植物の名に興味を持ったオレも庭へと降りる。
 だだっ広い庭の片隅に申し訳ない程度の規模で作られた菜園は、そこだけ良質な土がのぞいていて小さな新芽が無数に顔を出していた。

「セロリとかクレソンとかも季節によって育ててるよ。葉っぱものがほとんどみたい」
「農業を営んでいたプロが作っているのなら、良質なものが取れるんだろうね」
「そうみたい。私にはよくわかんないけど」

 なるほど……。

 立海の良質なデータは取れなかったが、別のデータをとれるかもしれないな、これは。
 オレは眼鏡をくいっと直し、片手に持っていたノートの一番後のページをぺりっと破く。

「ここで作った野菜は自分たちで食べるだけなのかな」
「そうだよ。見ての通り、ガレージセール出来るほどの規模でもないしね」
「そうか。さん、モノは相談なんだが収穫の季節になったら呼んでくれないかな」

 え? と言う風に振り向いたさんに、オレは手早く自分のメールアドレスを書き込んだノートの切れ端を手渡す。

「実は栄養ドリンクの研究をしていてね。選手の疲労回復に即効性のあるドリンクの試作をしているところなんだ。市販されてる野菜でもいいんだけど、一度取れたて新鮮なものとの違いを検証してみたくてね」
「へぇ〜。乾ってマネージャーみたいなこともやってるんだね」

 さんはオレが手渡したメモに視線を落としながら返事をする。
 やがて彼女は顔を上げて、のほんとした笑顔を浮かべながらこっくりと頷いてくれた。

「うちの畑の食材使いたいってことだよね? 完成したレシピ教えてくれるなら呼んであげる」
「ふむ。ギブアンドテイクの理論からいけば仕方のないことだろうな。わかった。その条件でいいからよろしく頼むよ」
「うん!」

 にこっと微笑んで、彼女が右手を差し出してきた。
 握手、ということか?
 オレは手にしていたノートを持ち替えて、彼女の右手を握った。

 随分小さな手だな、と思いながら。
 さんがあははと嬉しそうに笑う笑顔が目に焼きついた。

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