「こちらの本ですか?」
「えっ?」
高い棚に思い切り手を伸ばしていた『その人』の後ろから、お目当てと思われる本を取り出して差し上げれば。
「柳生!」
「こんにちは、さん。偶然ですね」
1週間前に立海テニス部のマネージャーになったばかりの彼女は、目をまん丸に見開いて私を見上げた。
3.紳士の優しいテニス講座
「どうぞ」
「ありがと! ほんと、偶然だね。柳生ってここの本屋によく来るの?」
背の低いさんの代わりに取り出した本を手渡せば、ほっとしたように笑顔を見せてくれる。
私は手にしたハードカバーを彼女に見せながら、大きく頷いた。
「ええ。今日は私の好きなミステリー作家の新作発売日でしてね。こちらの本屋は小説の類の品揃えがいいですから」
「そうだよね。私もここでいっつも買うのは小説ばっかなんだけど」
そう言って、さんは自分の手にした本に視線を落とし、それから照れ臭そうに「あはは」と笑った。
彼女が手にした本のタイトルは『テニスを始めよう!〜基礎ルール編〜』というもの。
「休日にテニスの勉強ですか? あなたは勤勉ですね」
5月に入り、天気も陽気も練習にはよい季節になったものの、今日はコート整備のため部活は休み。
久しぶりの休みに、部員はきっと思い思いに体を休めているはず。
テニスのルールもロクに知らない状態でマネージャーに就任した彼女が、休日返上でテニスの勉強をしようとする姿勢を、私は素直に褒めたつもりだったのですが。
さんは眉根をよせて、ふたたび小さく笑って。
「勤勉っていうか、もう真田に怒鳴られたくないっていうか」
「ああ……それもそうですね」
私は小さく笑いながらも、昨日までの練習を思い出す。
新米マネージャーに対しても新入部員に対しても、全く態度を変えない真田くんは、テニスのいろはも専門用語も知らない彼女にも容赦なく叱咤していましたっけ。
「真田くんはあなたに期待しているんですよ。だからこそ厳しく接しているんです」
「うん、わかってる。だからその期待に応えようと思って、少しは勉強しなきゃなーって思ったんだけどね」
「テニスの教本なら、わざわざ購入しなくても部室にあったはずでは?」
「あーそれなら柳に1回借りたけど……。あれ、わかりにくくて。図解も少ないし……」
そこでさんは一度言葉を切り、天井を仰ぐようにして、
「ストロークの種類。グランドストローク、ボレー、スマッシュ、ロブの4種類。……これだけの説明じゃなにがなんだかわかんないでしょ? だいたいストロークがなんなのかもわかんないってのに」
「確かに。少し不親切な解説書かもしれませんね」
そういえば切原くんや桑原くんにも不評でしたね、あの解説書は。
「それでここで教本を探していたんですか?」
「そう。用語の解説してて、図解がわかりやすいヤツないかなって」
「でしたらその本はオススメしませんね」
「……え?」
私の言葉に、きょとんとした顔を見せるさん。
彼女の手から彼女自身が選んだ本を取り上げて、私はぱらぱらとページをくった。
「ほら、ご覧なさい。確かに写真が多くてわかりやすいことはわかりやすいですが、厚さのわりに内容が薄い。基礎ルール編ということは、このあとにも続刊があるんでしょう。全部を理解するまでにそうとうな出費になりますよ」
「うわ、ほんとだ……全5巻! ってことは……えーと……」
「全部で4900円ですね」
「……やめときます」
「賢明な判断です」
しょんぼりとうなだれたさんを見ていると、思わず笑いがこみ上げてしまう。
さんの選んだ本を元の位置に戻すと、彼女はふたたび「うーん」と唸りながら棚にずらりと並んだ教本を睨み始めた。
しかしそれもすぐにやめて、首を小さく傾げながら私を見上げてきた。
「じゃあどれがいいんだろ。柳生ってテニスの教本読んだことある?」
「私のオススメですか? 私でしたら……ああ、あった。これをオススメします」
さんには手の届かない一番上の棚から、1冊の本を取り出した。文庫本1冊ほどの厚みの、いかにも教本らしい装丁の本。
私はそれをさんに手渡す。
さんは首をかしげたままぱらぱらと本のページをめくった。
「……あ、これ説明がすごく丁寧」
「そうでしょう? 用語の説明が初心者にでも容易に想像できるように書かれてます。私も一時期お世話になりました」
「え、柳生が?」
本に視線を落としていたさんが顔を上げた。私はこっくりと頷いて返事をする。
「私はもともとゴルフ部だったんですよ。仁王くんに誘われてテニスを始めたんです。その時にお世話になった教本がこれでして」
「そうなんだ! 柳生のお墨付きならこれにしようかな」
ぱたんとさんは本を閉じて、嬉しそうな表情を見せた。
そのまま私とさんは連れ立って会計を済ませ、本屋を出る。
午後の陽射しは初夏の陽気のようで、今日はだいぶ気温も上がっていた。
「あっついなー。絶好の練習日和だったのにね」
「そうですね。おそらく真田くんあたりは自主練に励んでいるでしょうね」
「そんな気がする。はー、私はこれから家にこもってお勉強か〜……」
ぐーっと大きく伸びをしたあと、がっくりと肩を落とすさん。
「ここで会ったのも何かの縁かもしれません」
私は腕時計で時間の確認をする。2時20分。女性をエスコートするのにも問題ない時間。
コホンを一度咳払いをしたあと私は、次の言葉を待ちながらこちらを見上げているさんの顔を見下ろした。
「よろしければお付き合いしましょうか? 一人で未知の領域を勉強するより、多少でも知っている教師がいたほうがはかどりますよ」
「え、柳生が教えてくれるの?」
「ええ。私程度の知識でよければ」
私を見上げていたさんは、口を縦に大きく開けてしばらく押し黙った。
ぽかん、というか、きょとん、というか。
いつもなら、妙齢の女性がそのような顔をするのはやめたまえ、というところですが。
さんがこういう表情をすると、なんだか妙に可愛らしくて説教よりも先に笑みがこみ上げてくるのが不思議だ。
「時間はいいの? 本読むんでしょ?」
「本はいつでも読めますから。遠慮はしないでください」
「ほんと? ありがと柳生!」
ぱっと表情を輝かせる彼女。
それは見てるこっちも温かくなるような素直な笑顔。
幸村くんもさんのこんな表情を見て気に入ったんでしょうか?
「さぁ、今日中にしっかりルールを覚えて、真田くんを驚かせましょう」
「うん。よろしく!」
家を出るときには、今日中に読破しようと思って急ぎ足で本屋に向かい、購入した本。
それを鞄にしまい、私はこちらを振り返りながら先を歩くさんのあとをついていった。
そして翌日。
「さん、今の幸村くんの打球の種類はわかりますか?」
「今のはロブだよね? 錦先輩の頭上を越えて……今落ちたのはベースライン、だよね?」
「そうです。かかっていた回転は見極められましたか?」
「えっ、それはさすがにまだ無理! 目で追えないよ」
「昨日の説明を思い出してください。ある程度はフォームからも推測できるはずですよ」
「えーとなんだっけ……今は下からすくい上げるようなカンジだったから……トップ、スピン?」
「正解です。さんは優秀ですね」
「あはは、ありがと。先生が優秀だからだよ」
にっこりと微笑んだあと、さんは手にしたメモ帳に、コート内で3年生と打ち合っている幸村くんの打球のひとつひとつをメモしていく。
コート整備も終えて、1日ぶりのまともな練習が始まった立海大テニス部。
今日も真田くんがサボっていた切原くんを怒鳴るところから始まって、現在コートはレギュラー陣が紅白戦を行っていた。
1年生が基礎練習をこなしている中、2年生はレギュラー陣の試合見学ということでフェンス脇に集まっている。
ちょうどいい機会だったので、私はさんの隣で昨日の復習をしているところだった。
「柳が打ったのはバックハンド……でグランドストローク……と」
「今、ダブルスをしている柳くんが前に出ましたね。あれはなんですか?」
「え、あれ? えーと……ポーチ?」
「正解です」
「やった!」
いつでも見られるようにと脇に差している教本は、まだ一度も開かれていない。
一度教えただけでここまで吸収するとは、彼女は本当に優秀のようだ。
と、そこへ。
「おうおうお二人さん。仲睦まじくてうらやましいのう」
ポケットに手をつっこんだまま、薄い笑みを浮かべた仁王くんがこちらにやってきた。
まったく彼ときたら、私だけならともかく、さんもいるときにそういう物言いをしなくとも。
「仁王くん。私はさんのテニス知識の習得を手伝っているだけです。邪推はやめてもらいたいですね」
「別にそんな意味で言ったんじゃなかよ?」
「柳生と仁王ってタイプが全然違うのに、仲いいよねぇ」
目を細めて笑う仁王くんを見上げながら、さんは首を傾げる。
「のう、。今度はオレがコーチしちゃろうか? 柳生は鬼コーチじゃろ?」
「さん、仁王くんだけはおやめなさい。事実も虚実も真顔で言うんですから」
「ひどいのう柳生。……まぁ、冗談はこのくらいにしとくか。あまり遅くなるとが真田に怒られるからの」
さんを挟んで口論をしていた仁王くんが、フェンスに半身をもたれかけさせながら、くいっと親指で自分の後方を指した。
傾げていた首を反対方向に曲げて、仁王くんが指した方向をさんがのぞきこみ、私もその後ろから覗き込む。
視線の先の校舎の角で、切原くんが大きく手を振っている。
「真田が呼んどるぞ、マネージャー。1年のサポートに入れとよ」
「はーいっ。じゃあ行ってくるね。柳生、ありがと!」
「いえいえ。今日は真田くんに怒鳴られないといいですね」
「本当だよ……。がんばってくる」
メモ帳を閉じ、教本と筆記具を握り締めて、さんは元気よく駆け出していく。
その後姿を見送っていたら、唐突に目の前に銀色の髪が飛び込んできた。
それは言わずと知れた仁王くん。
にやにやと口元に品のよくない笑みを浮かべながら、腰を曲げた状態で下から私を見上げていた仁王くんは、やがて体を起こし校舎の角へ消えていったさんの方を振り向いた。
「がんばるのう、は。赤也並に真田に怒鳴られて逃げ出すんじゃなかろうかと思っとったが、見返すために柳生と勉強しちょったんじゃろ?」
「見返すというのは適切ではありませんが、彼女は努力家ですよ。飄々としていますけど、思った以上に情熱家なのかもしれません」
「ほーう? その情熱にうかされたんか? 柳生は」
「またあなたはそういう失礼なことを……」
軽く睨みつければ、仁王くんはくつくつと笑いながら「冗談じゃ」と両手を挙げた。
「仁王くん。言っておきますが、さんをペテンにかけることだけは許しませんよ。彼女は大事な私たちの仲間なのですからね」
「わーかっちょる。オレだってウチのビッグ3のお気に入りに手ぇ出すほど馬鹿じゃあなかよ?」
「そういう理由ではなくて……」
言いかけて、やめた。
仁王くんにこういうことを真面目に説教しても聞き入れないのはいつものことですし。
かわりに小さくため息をつく。
すると仁王くんはニヤリと不敵に笑い、レギュラーの試合を横目で見ながら、ポケットから一枚の紙を取り出した。
「ところで柳生。お前さんも一口どうじゃ?」
「は? 一口、とは?」
練習中に飲食する気ですか? と聞こうとして振り返った先にあったのは、一枚の紙。
目の前につきつけられた用紙を私は手にとり、視線を落とす。
そこに書かれていたのは。
「……『真田と、先に折れるのはどちらかトト』……なんですか、これは」
@ が真田に怯えて辞める
A が真田を無視して部活を続ける
B お互い無関心になる
C 真田がに手懐けられる
D 恋に落ちる
「……」
「読んで字のごとくじゃ。飄々とした自由人のと、厳格な頑固親父気質の真田、どっちが先に相手に合わせるようになるかの予想トトカルチョ。今のところ一番人気は真田がに手懐けられる、じゃな。3年生の間じゃ、恋に落ちるが一番人気なんじゃが」
それは予想というよりそうなるとおもしろいという期待でしょう?
……というツッコミよりもなによりも。
私は眼鏡を光らせて、仁王くんを見た。
「非常識にもほどがあります。いくらなんでも真田くんとさんに失礼でしょう。これは没収します。幸村くんと部長にも報告しますからね」
「ほんに頭固いやっちゃなぁ……」
用紙を見れば、丸井くんの名前も桑原くんの名前も書いてある。
切原くんにいたっては赤ペンで「ゼッテーこれ!」とDにぐりぐりと赤丸をつけていた。
まったく。
さんのような純粋で清らかな女性が傷つかないように、私がきちんと目を光らせておかなくては!
私は決意も新たに、レギュラー陣の試合が続くコートへと足を踏み入れたのだった。
「おーい仁王。柳生はなんにしたって?」
「それが怒ってしもうての。用紙を没収されてしもうた」
「やっぱなぁ。だから柳生には話を持ちかけんなって言ったろぃ?」
「そんで部長と幸村に報告するんじゃと」
「へ? 部長と幸村くん?」
「そうじゃ」
「……これ、嬉しそうに回して来たのって、幸村くんだよな?」
「ああ。ついでに部長は@になるんじゃないかって半分諦めとるとも言っとったの」
「んじゃあ柳生のヤツ、なにしに行ったんだよ? 教えてやればよかったじゃん」
「プリッ」
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