「「今にも降り出しそうな雲っすねぇ」」
「……と赤也は言う」
「その台詞、今なら柳じゃなくても言えるぜ?」
「そうだろうな」

 ジャッカルの突っ込みに頷きながら、オレはさっきから赤也がずっと見上げている曇天を見上げた。



 25.雷狂想曲



 ピシャァァァン!!

「うぉわっ!」

 光ったと同時に音が鳴り響き、部室の窓辺で頭を拭いていた赤也がびくん! と体を震わせた。
 それを目撃したブン太と仁王がぽかんと口を開き、次の瞬間には大笑い。

「ダッセー! 赤也お前、雷怖ぇーのかよ!」
「ち、違いますよ! 今のは不意打ちだったから!」
「赤也、見栄張る必要ないぜよ? お前さんが雷嫌いなんはもう周知のことじゃ」
「だから違いますって!」

 腹を抱えて転げまわっているブン太に、肩を震わせながら顔を背けている仁王。赤也は顔を真っ赤にして二人に猛抗議するが、ちっとも相手にされていない。

「しかし切原くん、君は毎日真田くんの雷を怖がっているじゃないですか」
「そ……そっちッスか……?」
「そうだよ? でも赤也、本当の雷が嫌いでも気にすることないよ。ほら、昔から怖いものの代表格じゃないか。地震・雷・火事・真田って言うくらいだし」
「幸村……ひしひしと悪意を感じるのはオレの気のせいか……?」

 その騒ぎに柳生と幸村までもが便乗し、巻き込まれた弦一郎はこめかみを引きつらせながらロッカーを乱暴に閉めた。

 夕方4時をまわった頃のテニスコートは、少し距離のある部室の窓から覗いてもわかるくらいに大きな水溜りが出来ていた。
 降るだろうと思っていた雨は部活が始まった直後に予想通り降り出し、その勢いは瞬く間にほんの数メートル先さえも見えないくらいの大雨へと変化した。
 慌てて部室に避難したオレたちは雨が通り過ぎるのをしばらく待っていたんだが、雨の勢いは衰えるどころかますます増していき、ついには雷まで鳴り出す始末。
 結局幸村が今日の部活の中止を決断し、オレたちはそれぞれ制服に着替えている最中だった。

「今日に限って室内練習場をサッカー部に貸し出していたのは痛かったな」
「うん。でも新人戦も終わってるんだし、たまにはこういう休養日もいいんじゃないか?」

 弦一郎などは不服そうにしているが、オレは幸村の意見に賛成だ。オフシーズンこそ、体調を見極めながらトレーニングに励む必要があるのだから、無理をすることはない。

「それにしてもスゲェ雨だな……。雷も随分近いところで鳴ってるみたいだし」
「電車が止まらなければいいんだがな」

 今だブン太とぎゃあぎゃあ騒いでいる赤也の横で、窓から空を見上げるジャッカルが感心したように呟いた。
 間を置かずに何度も光る空。時折稲妻がはっきり見えることもある。音も近いし、ジャッカルの心配していることはありえない話でもない。

「幸村、交通機関に支障が出ないうちに早く帰宅したほうがいいだろう」
「そうだね。……でも」

 オレは振り向き、幸村に話しかけながらも全員を見た。赤也や仁王はまだ髪を拭いているが着替えは済んでいる。出ろと言えばすぐにでも出られるだろう。
 ところが幸村は少しだけ眉を顰め、ちらと部室の入口のほうに目を向ける。

「どうした?」
さんがまだ戻ってきてないんだよね」
が?」

 聞き返したのは弦一郎だ。

はいつも体育館の更衣室で着替えているのだろう? 解散を告げているのならば部室には寄らんのではないか?」
「でも帰りに部誌を置きに寄るからって言ってたんだ。柳生も聞いたよね?」
「ええ、私もその場にいましたから」

 しっかりと頷く柳生を見て、幸村はますます眉間のシワを深くする。
 ……が。

「幸村……おそらくどれだけ待ってもは部室にはこないぞ」
「参謀、それはどういう意味じゃ?」

 ため息交じりに告げたオレの言葉に、仁王が首をひねる。
 オレは鞄から携帯を取り出し、の番号を呼び出して耳に当てた。

「オレのデータによれば、は大の雷嫌いだ。これだけ激しく鳴り響いていては、校舎から出て来れないだろう」
「え! 本当に!?」

 目を丸くして聞き返す幸村にオレは頷いて答えた。
 耳元ではコール音が何度か繰り返されている。普段なら学校での携帯使用には目くじら立てる弦一郎も、今回ばかりはを案じているのか何も言わずに黙っていた。

「とりあえず今どこにいるのか聞いてみる。……か?」

 耳に当てていた携帯がぷつっと小さく音を鳴らし、通話状態になったことを知らせた。
 だが、返事がない。通話口の向こうは無音のままだ。一度耳から離して通話状態を確認してみるが、表示画面は間違いなく正常に通話されていることを示していた。

?」

 オレがもう一度呼びかけると、携帯の向こうからごそっと何かが動く音が聞こえた。

『……柳……?』
「……泣いているのか?」

 弱弱しい声のあとは返事がない。
 代わりに部室のレギュラー一同がぎょっとして立ち上がった。

、今どこにいる? 落ち着いて話せ」
『今……正面玄関の』

 の言葉の途中で稲光が走った。その瞬間、の声も途切れて代わりに小さな悲鳴がオレの耳に届く。
 オレは眉間にシワが寄っていくのを感じた。

「柳、さんはどこにいるって?」

 めずらしく焦りを露にしている幸村に弦一郎、顔をしかめている柳生にジャッカル。仁王とブン太と赤也も心配そうにオレが持つ携帯を見つめている。
 オレは空いた左手で「もう少し待て」と全員を牽制した。

「正面玄関にいるのか?」
『……うん』
「わかった。今から迎えにいく。、そこは光も音も遮断するものがないだろう? 一番近い教室は1−Aだな?」
『う、うん』
「そこに入って電気を全てつけて、カーテンを閉めて待っていろ。玄関にいるよりはマシなはずだ」
『うん、わかった』

 携帯の向こうから、いくらか緊張のほぐれた声が聞こえた。
 との会話を聞いていたみんなは既に部室を出る準備を整えていて、赤也はオレのテニスバッグと傘を持ってスタンバイしている。
 ……全員で迎えに行く必要はないんだが……まぁ、人数が多いほうがも安心するか。

さん、今行くからね。怖がらないで待ってて」
「7人のこびとならぬ8人のおおびとが姫さんのもとに馳せ参じるぜよ」
「可哀想に、心細かったでしょう? すぐに参ります」

 オレの持つ携帯に顔を近づけて、幸村たちはを励ます言葉を投げかける。
 小さな『うん』という声を確認したあとオレは通話を切り、赤也からテニスバッグと傘を受け取った。

 部室の入口で幸村がオレたちを振り返る。

「みんな、動きが悪すぎるよ! さんが待ってるんだ、全速で行くぞ!」
「「「イエッサー!!」」」

 そしておなじみの喝を入れ全員がそれに答えて、雷雨の中へと飛び出していった。



 それにしても本当にひどい雨だ。これで風もあったなら目も当てられない状態だっただろう。
 オレたちは幸村の宣言どおりに全速力で正面玄関まで駆け抜けたため、せっかく乾いた制服に着替えたというのに再び全身濡れ鼠になっていた。

「ジャッカル先輩はいいっすね、濡れてもすぐ乾く頭で」
「そうだな、ワカメよりはマシかもな!」

 玄関口で嫌味合戦している赤也とジャッカルは弦一郎の雷に感電する。
 それを尻目に素早く靴を履き替えたオレは、靴なんか脱ぎ捨てて上靴のかかとを踏んだ状態で校舎内へと飛び込んでいった幸村のあとを追った。

 廊下を曲がり購買部を過ぎてすぐが1−Aの教室だ。前の扉からは、蛍光灯の明かりが漏れていた。

さんっ」
、大丈夫か?」

 勢いよくドアを開けて幸村が教室内に飛び込み、そのあとにオレと柳生、仁王が続く。
 ……だが、教室内にの姿はなかった。オレが指示したとおり電気は全てついていて、窓も全面白いカーテンで覆ってある。
 ここにが来たことは間違いなさそうなのだが。

? おらんのか?」

 追いついてきた弦一郎たちも教室に入り込んできょろきょろと見回すが、やはりの姿はない。
 が。

「……ここ」

 小さく、弱弱しい声が聞こえた。聞こえてきたのは教室前方の黒板の方だ。
 見れば、その目の前の教卓の下でしゃがみこんでいるがいた。

さん!」
「そんなとこにおったんか」

 オレたちは急いで教卓の前に駆け寄り、を覗き込むようにしゃがんだ。
 教卓の下のは耳を塞いで小さく足を折りたたんでいた。よほど怖かったのだろう、目は赤くなっていたし、眉はしょんぼりと垂れ下がり、口はへの字に曲がっている。
 それでも自身の無事を確認できたオレたちは、ほっと安堵の息を吐いた。

「ごめんね、さん。雷嫌いだなんて知らなかったんだ」
「部誌を届けようと怖いのを我慢して玄関まで行ったのでしょう? 勇気を出してくださったんですね」
「1人でよくがんばったのう。ええ子じゃ」

 まるで怯えている子猫をなだめるように、幸村と柳生が優しく笑顔で声をかけ、仁王は手を伸ばして頭を撫でた。
 だがそれは全くの逆効果をもたらしたようで、オレたちを見て安心したらしいは緊張の糸が切れたのか「ふぇ」と顔を歪ませたかと思えば、抱えていた膝に顔を埋めて泣き出してしまった。
 ぎょっとして仁王は手を引っ込めるが、妹持ちの幸村と柳生はやれやれと苦笑する。

「なっ、なぜ泣くのだ!?」
「はいはい、朴念仁は黙ってろぃ」

 こっちもおもしろいくらいにうろたえた弦一郎を、ブン太が後に追いやって。

〜、滅入ったときは甘いモン食うといいんだぜ。オレのとっときの巨峰ガム食えば雷も怖くねぇって!」
「……ふむ。を励ますのは弟妹のいるブン太たちに任せたほうがよさそうだな」
「う、うむ……」

 未だに教卓の下から出てこようとしないのことは幸村、柳生、ブン太の3人に任せることにして、オレは所在無げに立ち尽くしている弦一郎の肩を叩いた。

「オレ、ゼッテー空の雷より真田副部長の雷のほうが怖ぇと思うんだけど」
「落雷率100%だもんな」
「いつでもどこでも落ちるからのう」

 遠巻きにしてを見守る3人は放っておいて。
 オレは窓辺により、小さくカーテンをめくって空を見上げた。
 真っ暗というより真っ黒といったほうがしっくりくる重い空は相変わらず大粒の雨を吐き出し、雷も一向におさまる気配を見せないでいる。さきほどよりは遠くにいったようにも感じるが、稲光は視界全面を白く染める。これではは帰宅できないだろう。

「止む気配はないな」
「ああ。さて、どうやってを帰宅させたものか……」

 オレの背後から同じように空を覗き込んだ弦一郎は、顔をしかめながら教卓を振り返る。
 の泣き声やしゃくりあげる声はすでに聞こえなくなっているが、教卓からはまだ出てきていない。幸村たちの慰めは続いているようだ。

「つーか先輩、そろそろ出てきてくださいよ。日ぃ暮れますよ?」
「……雷止んだら出る」
、多分これ止まないぜ? 怖いのはわかるけど、オレたちが一緒に帰ってやるから出て来いよ。な?」
「ヤダ。無理。学校泊まる」
「学校に素泊まりするほうが怖いと思うんじゃがのー」

 赤也とジャッカルと仁王も説得に加わってみるが、はいつになく固くなに拒否して動こうとしない。
 一体雷のなにがそこまでを怯えさせるのかデータマンとしての興味がもたげてくるが、そんなことを言っている場合ではないだろう。
 オレも窓から離れ、の説得に加わることにした。

、ならばどういう状態でいれば恐ろしくないんだ? その状況をオレたちで作り出せるのであればいくらでも協力しよう」
「状態?」

 全員がしゃがみこんでいる上から覗き込むようにして問えば、は濡れた目でオレを見上げ、小さく首を傾げた。

「……目を閉じて耳塞いでれば」
「それじゃ歩けねぇだろぃ? 電柱に激突するぜ」
「いや……それならなんとかなるんじゃないか?」

 呆れたようにブン太は言うが、幸村はあごに手をあてて立ち上がりながらオレを見た。

さんが自分で目を閉じて耳を塞いだ状態で家につければいいんだから、あとは足さえあればいいってことだろう?」
「なるほどな。見ざる聞かざる状態のを誰かが背負って行けばいいということか」
「「「はぁ!?」」」

 そういうこと、と頷いたのは幸村1人だけ。
 あとの者は全員が目を丸くして絶句していた。……我ながら名案だと思うのだが。

 呆気にとられている者たちを代表して口を開いたのは弦一郎だった。眉間のシワはそのままに、一度大きくため息をついて、

「手段としてはわかるが蓮二……幸村もだ。お前たち、を甘やかしすぎではないか? 雷は今日限りのものではないのだぞ。克服させねばこの先ずっと他者を困らせることになるではないか」
「困らせたっていいじゃない。人間だもの」
「都合よく名言を使うなっ!」
「弦一郎、お前の意見には賛同できる。だが克服させるにも今日の天候ではハードルが高すぎるだろう?」
「まぁ……それもそうですね」
「だよな。ここまでひっきりなしに近くで鳴ってたらオレでも少しビビるし」

 幸村とぎゃあぎゃあ言い争い始めた弦一郎はオレの説得をこれっぽっちも聞いていないようだが、代わりに柳生やジャッカルが理解を示しだした。ブン太に仁王に赤也も「しょうがないか?」と顔を見合わせている。
 オレは教卓の前に膝をつき、ぽかんと成り行きを見守っていたの顔を覗きこんだ。

「そういうわけだ、。お前は家につくまで目を閉じて耳を塞いでいればいい」
「……いいの?」
「無論だ」

 大きく頷いてみせれば、ようやくはほっとしたように笑顔を浮かべてくれた。その表情に、オレたちも胸を撫で下ろす。

「でも柳先輩、誰が先輩を背負うんスか?」
「ふむ」

 オレは再び立ち上がり全員を見回す。しかし、問いかけてきた赤也も含めて全員がすでに答えを見出しているようだった。
 全員の視線の先には、ぎょっとした顔の弦一郎。

「なっ……! ちょ、ちょっと待たんかお前たちっ!」
「やっぱ真田副部長しかいないっすよねぇ」
「まーな。おぶって一番安定してそうだしな」
「オレや幸村じゃとただのバカップルと思われそうだしのう」
「その点真田くんは安心ですね」
「どっからどうみても娘を迎えに来た親父だろぃ!」
「ふふ、逆に援助交際と勘違いされるかもね」
「そういうわけだ。鼻の下を伸ばすなよ、弦一郎」
「誰が父親かーっ!!!」

 絶叫する弦一郎だが、そもそも拒否権などないのだ。本当ならオレが立候補したいくらいだというのに、贅沢を言うな。
 弦一郎の叫びにも教卓の下からひょこ、と顔を覗かせる。と視線があった弦一郎は柄にも無く小さく呻き、顔を赤らめた。

「真田がおんぶしてってくれるの?」
「むっ……い、いや、それはだな」
「往生際悪いのう、真田。普段こき使っとるマネージャーにこういうときくらい親切にしんしゃい」
「仁王くんの言うとおりです。真田くん、困っている女性に手を差し伸べるのは紳士の務めですよ」

 仁王と柳生にステレオで注意されて、弦一郎の眉間のシワはこれ以上深くなりようがないというところまで深くなった。

 と、そのときだ。

 ヴーッ ヴーッ ヴーッ

「あれ?」

 突如響いた携帯のバイブ音。かかってきたのはの携帯のようだ。は制服のポケットをぱたぱたと叩いたあと、見つけられなかったのか鞄を開けた。

「お家の人が心配してかけてきたのかな?」
「そうかもしれないな」

 二人暮らしの祖父がかけてきたのかもしれない。校内では電源を切れと叫びだしそうだった弦一郎の口は、赤也とジャッカルによって塞がれた。
 ところがようやく鞄の中から携帯を見つけたは、画面を見つめて首を傾げる。

「あれっ、ジローからだ。もしもし?」

 ……ジロー?

 全員が顔を見合わせて、誰だ? と首をひねっている。
 しかし、オレには心当たりがあった。が以前ジローと呼んだことがある男を、オレは見たことがある。

「うん、まだ学校。どうしたの? ……うん、すごい雷だから……え? うそ!」

 首をかしげたまま携帯で離していたが、素っ頓狂な声を上げて目をぱちぱちと瞬かせた。
 オレたちがぽかんと見つめる中、はうんうんと何度も頷いてから携帯を切る。そして、再び教卓の下にもぐりこんだかと思えば鞄を掴んで出てきた。

、一体どうした?」
「なんかね、ジローが学校の前まで来てくれてるんだって!」
「ジローって誰だよ?」

 丸井が問いかけるとはきょとんとした顔をして、

「氷帝の芥川慈郎だよ。うちのご近所さん。みんなも会ったことあるでしょ?」
「「「芥川!!??」」」

 異口同音に幸村たちが叫んだ。
 ジローと聞いてオレはすぐに芥川のことに思い当たったが、しかしなぜ芥川が立海まで来たんだ? まさか、たかがご近所の関係でを迎えに来たというわけでもないだろうに。

 ……いや、ただのご近所という関係以上なのであれば、あるいは。

 オレが感じた不快感は幸村も感じたらしく、いつもの黒いオーラが背後から湧いて出ているのが見えた。さらにその後ろでは赤也とブン太が手を取り合って怯えている。

「とりあえず正面玄関まで行ってみようか?」
「そうだな。、玄関まで付き合おう。まだ雷は鳴っているが恐れることはないぞ」
「うん」

 しかし笑顔の仮面はそのままに、オレと幸村はの背を押して教室を出る。
 ……背後で「流血沙汰を阻止せんかーっ!」と弦一郎が叫ぶのが聞こえた。


 そして1分もかからずに正面玄関に到着。雷は相変わらず鳴り響き、そのたびに震えるの肩や頭をオレと幸村でぽんぽんと撫でる。

「芥川、どこにいる?」

 耳を塞いでしまったの代わりに呼びかけると、右手側から「ここ〜」と気の抜けるような返事が聞こえた。
 ばたばたと後から追いついてきた連中も一緒にそっちにいけば、昇降口に座り込みながら眠そうにあくびをしている芥川が確かにいた。氷帝の制服姿のままだ。
 オレたちに気づいた芥川はごしごしと目をこすりながら立ち上がる。

「あ〜、立海も一緒なんだ〜。大丈夫か〜?」
「うん。大丈夫だけど」
「ねぇ芥川、どうしてわざわざ立海までさんを迎えにきたんだい?」

 返事しようとしたの前に立ちはだかり、幸村が黒い笑顔のまま芥川を見下ろした。ついでにオレも幸村に倣い、背後にを隠す。

「どうしてって、雷鳴ってたC〜。今日のじーちゃん町内の老人会で留守にしてるはずだから、ちゃん迎えに行ってあげなさいって母ちゃんから電話来て」
「……さんって、芥川のお母さんと仲いいの?」
「仲いいっていうか、いっつもクリーニングお願いしてるところだから顔見知りではあるよ?」
「なるほどな」

 そういえば芥川の実家はクリーニング業を営んでいたな。なるほど、地域ぐるみでの助け合いといったところか。
 合点がいって、腹の底のもやもや感が薄れていくのを感じる。我ながら単純なことだ。

「そいつぁ無駄足だったな、芥川。は雷雨の中歩いて帰れねぇんだぜ?」
「あっ、丸井くん! クッソー、雨降ってなかったら試合できたのになー!」

 丸井を見つけた芥川がぱっと表情を輝かせた。この反応を見ても、芥川の中で『<丸井』の図式になってることは容易に伺える。幸村も幾分表情を和らげて、無邪気に喜んでいる芥川を見ていた。
 その芥川を丸井は「わーったわーった」と片手で宥め、

はオレたちがちゃーんと送ってくからよ。あ、なんならお前も一緒に帰るか?」
「帰る帰る! 跡部の車なら丸井くんたち全員乗れるC!」
「……は? 跡部?」

 ヤッター! と両手を上げて喜ぶ芥川が発した言葉に、オレたちは全員目を点にした。

「なんでそこに跡部が出てくん……おいおいっ!? お前まさか、迎えに来んのに跡部に車出させたってのか!?」
「……そのまさかだ」
「「「跡部!?」」」

 聞こえてきた相変わらずの尊大な声音に、オレたちは口をあんぐりと開けて正面玄関口を見た。
 そこにいたのは、不愉快そうに目を据わらせた氷帝制服姿の跡部。隣には運転手と思われるダークスーツの男が跡部の頭上に傘を差していた。その背後には、黒塗りのリムジンが横付けされている。

「ジローくらいだぜ。このオレ様を足にしようなんざ」
「マジで跡部だ……ありえねぇ」
「な、何気にすげぇな、の人脈って」

 フン、とおもしろくなさそうに鼻を鳴らす跡部。ブン太とジャッカルは呆気に取られてぽかんとしている。
 すると跡部は今まで不愉快そうにしていた表情を変え、ニヤリと挑発的な笑みを浮かべてオレたちを見た。

「にしてもザマァねぇな。立海の連中は雷にビビってる女1人送ってやることもできねぇのか? アーン?」
「……なんだと?」
「フツー雨ごときで家から車呼ぶヤツのほうが変ナリ」
「ゼッテー跡部さんの常識のほうがおかしいっすよね?」

 跡部の挑発に弦一郎の眉が動く。が、仁王や赤也は逆に跡部のセレブリティな行動に引いているようだ。

「金の力でなんでも解決して自らの弱点を克服する機会を奪うなど、笑止千万。お前こそ部員育成の立場にありながら随分と安易な手段を取ったものだな?」
「アーン? 生憎そこの女はオレ様とは無関係なんでな。まぁ、怯えた女を迎えに行くっていうジローの心意気を無にすんのも無粋だってんで一肌脱いでやっただけだ」
「跡部〜、難しいことはEからさっさと帰ろうぜ〜。オレ眠くなってきたC〜」

 バチバチと火花を散らす弦一郎と跡部のかたわらで、半分以上目を閉じた芥川がに抱きつくような形でもたれかかりながら欠伸をした。……幸村、気持ちはわかるが弦一郎の力石を振り上げるのはやめろ。
 跡部はもう一度鼻を鳴らしてから弦一郎から視線を外す。

「フン、邪魔したな。行くぞジロー」
「うんうん。行こ〜」
「え? でも」

 芥川に腕を掴まれてひっぱられる形で連れて行かれる。だがはオレたちを振り向いて困ったように眉を顰めた。
 オレたちのことを気にしているのだろう。散々迷惑かけたのに自分だけ車でさっさと送ってもらっていいのだろうか……といったところか。

、気にするな。跡部の車なら雷に怯える心配もない」
「そうだね……。本当ならオレたちが君にそういう手段を用意してあげたかったけど、仕方ないね」
「うむ、お前の恐怖が和らぐことのほうが重要だろう。跡部に借りを作るのは癪だが、お前はそのまま送ってもらうがいい」
「みんな……」

 オレたちは極力に余計な気を遣わせまいと送り出したつもりだったが、当のはますます眉をぎゅっと寄せて唇を噛んだ。
 そしてその場に踏みとどまり、逆に芥川の腕を引く。

「待ってジロー。さっきみんなも跡部の車に乗れるって言ったよね?」
「うん、言った。あれ? 丸井くんたちは来ないの?」
「あぁ? なんでオレがコイツらまで送っていかなきゃならねぇんだ?」

 きょとんとした芥川の背後で、再び跡部が不愉快そうに顔をしかめる。
 雷雨の中を歩かなくてもいいかもしれないという期待に赤也が「いーじゃないっすか」と呟いて、仁王と柳生に殴られた。
 しかしはてけてけと跡部の目の前まで歩み寄り、ぱんっと手を合わせて拝むように跡部を見上げ、

「乗れるなら乗せてってよ。私ひとりだけなんて」
「そんな義理はねぇな。オレだってヒマじゃねぇんだ」
「跡部のケチ!」
「ケチケチケチ〜!」
「……おいジロー。お前も置いてくぞ」

 むっとしたに便乗するように、芥川までもが跡部に文句を言い始める。案の定額に青筋浮かべた跡部はジロリと芥川をにらみつけた。

 だが、この構図ははっきり言っておもしろくない。
 なぜが跡部ごときに懇願しなくてはならないんだ?
 見ればそう思っているのはオレだけではないようで、幸村や弦一郎は勿論、さっきまで車に便乗したがっていた赤也やブン太までもが憎々しげに跡部を睨みつけていた。

、いいんだ、そのようなことを頼み込まなくとも……」

 見かねて口を挟もうとしたのだが、オレの言葉を遮っては跡部を再び見上げた。
 その表情は毅然としていて、なにかを決意したかのようにも見えた。

「みんな私のために学校に残ってくれてたんだもん。それなのに私ひとりだけ車でなんて帰れないよ。だから、みんなが跡部の車に乗れないなら私も乗らない」
、しかし」
「ジローに頼まれたんだとしても、立海までわざわざ来てくれてありがとう、跡部。でも私、歩いて帰るから……っ!」

 言い終える直前に空が激しく光り、正面玄関内に轟音が轟いた。声にならない悲鳴を上げて体を縮こまらせたにオレたちは素早く駆け寄り、へたりこみそうになったを支えた。
 芥川も心配そうにを覗き込む。

先輩、大丈夫っすか?」
「気持ちは嬉しいですが、無理しないほうがいいですよ。さぁ、跡部くんに送ってもらいましょう」
「でも」

 それでもはオレたちに気遣い、車に乗ることを拒否しようとする。しかし、芥川の制服の裾を掴んでいる手が小刻みに震えてしまっていた。見ていて痛々しいことこの上ない。

 すると。

「……テメェ、マネージャー失格だな」
「なんだと?」

 舌打ちした跡部の暴言に、弦一郎の眉がつり上がった。仁王や赤也も聞き捨てなら無いと立ち上がる。
 ……だが、振り向いた先の跡部はやれやれと言わんばかりに眉尻を下げて苦笑いを浮かべていて、

「テメェが歩いて帰るとなれば、そこの金魚のフン共もくっついて帰るんだろうが。雷ひとつに頭抱えてるザマで、一体何時間かけて帰るつもりだ? この雷雨の中を選手に何時間も歩かせるなんざ正気の沙汰じゃねぇな」
「誰が金魚のフンかっ!」
「弦一郎落ち着け。それから跡部、お前にこちらのコンディションを心配される覚えは無い。余計な口出しは無用だ」
「冗談じゃねぇ。本調子じゃねぇテメェらと試合やらされるコッチの身にもなれってんだ」
「……あ、そういや今週末って氷帝と練習試合組んでたんだっけか」

 ブン太とジャッカルが顔を見合わせる。

 するとの頭を馴れ馴れしくも撫でていた芥川が、不思議そうに首を傾げて言った。

「素直にの優しさが気に入ったって言えばEじゃん、跡部〜」
「……あ?」

 瞬時に跡部の眉間にシワが寄る。しかし不愉快そうに歪んだ表情も、芥川の台詞の後では意味を成さなかった。

「跡部ツンデレ疑惑!」
「ぶっ! マジっすか!」

 笑いを堪えてるブン太と噴出してしまった赤也に、ますます跡部のこめかみがひきつっていく。仁王とジャッカルもニヤニヤしだして、柳生は「やはり女性には紳士的なのですね」と感心している様子。弦一郎は理解の範疇を超えているようで眉を顰めながらも戸惑っているようだ。
 そして、おもしろくなさそうにぶーたれているのが、幸村。

さんが可愛くて魅力的だから気に入るのはわかるけどさぁ……なんか氷帝の連中ってホント害虫だよね。今度の練習試合、オレシングルス3で出ようかなぁ」
「名案だな。どうせなら勝ち抜き戦にして全員イップスにしてやったらどうだ?」
「ああ、それいいね」
「なにごちゃごちゃ言ってやがんだ」

 いい加減イライラの頂点に達したらしい跡部が舌打ちした。
 その跡部に、表情を明るくしたが駆け寄り笑顔を向ける。

「跡部、ありがと!」
「礼はいいからテメェらさっさと乗りやがれ! 言っただろうが、オレ様はヒマじゃねぇんだ!」
「跡部照れてるC〜」

 吐き捨てるように言ってさっさとリムジンに乗り込む跡部。それを追うようににこにこしながら芥川がの背中を押していった。
 残されたオレたちは顔を見合わせる。

「正直なところ、跡部に借りを作る真似はしたくねぇけど……」
が頭下げたこと、無駄には出来ねぇだろぃ?」
「そうだな。跡部に礼を言うのは御免だが、の厚意に甘えるとするか」

 おう、と頷くオレたち。

 かくして関東全域に落雷洪水警報が発令されるほどだった雷雨の中を、オレたちは跡部の豪華リムジンで送られることとなった。……まぁ、雷から開放されたが笑顔になったのだからよしとしよう。

 だが勿論、跡部ごときに幸村たちが言われっぱなしになっているわけもなく。

「スッゲー! これマジで車の中ッスか!?」
「座席が総ベルベット仕上げだぜ。ギャハハ、スゲーセンスだな!!」
「あれ、これって香水? 真田、ほらセレブの香りだって!」
「ブッ! ゆ、幸村っ! こんなクサイものを撒き散らすなっ!」
「冷蔵庫までついているんですか……省エネに激しく逆行した車ですね」
「ほれ、見てみんしゃい。これがロマネコンティぜよ」
「うわすごい! 初めて見た! 匂いかいでみたいよ、匂い!」
「マジマジ!? オレもかいでみたいC! 開けようぜ!」
「お、おいっ、それ何十万もするんだろ!? 開けていいのかよ!?」

「「テメェら、人の車の中で好き勝手してんじゃねぇーっ!!」」

「……と跡部は言う」

 オレたちのささやかな仕返しに、跡部は本気でキレたようだった。

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