「やぁ、おはようございます」
「ッス」
早朝の河川敷。朝のマラソントレーニング中のオレは、いつもこの場所ですれ違うウォーキング中のオヤジにぺこっと頭を下げた。
ウォーキングというには遅すぎる速度で歩いてるから、オレにはどうみても散歩にしか見えねぇが、本人がウォーキングと言ってるんだから仕方ねぇ。
昨日の豪雨が嘘のように、今日はよく晴れ渡っていた。大雨の面影はいつもより水かさと勢いが増している川の水面くらいだ。
雲ひとつない晴天の河川敷には、早朝と言えども散歩やジョギングに出てくる連中が多い。
まぁ、礼儀は礼儀だ。見知った顔以外にも、すれ違いざまオレは頭を軽く下げる。
すると、オレの視界に1人の女の姿が飛び込んできた。
淡い空色のワンピースを着た、気持ちよく晴れ渡った日限定で散歩にやってくるアイツだ。
オレは走る速度を少し落とす。
やがてオレがその女のいる土手下にたどり着いたとき、ようやくソイツはオレに気づいて笑顔で手を振ってきた。
「おはよ、海堂!」
「……オウ」
その女、の腕には、1匹のヒマラヤンが抱かれていた。
11.子猫物語
と初めて会話を交わしたのも、前日に豪雨に見舞われた翌日の快晴の朝だった。
オレはいつもどおりのコースで走りこんでいて、メタボリックなウォーキングオヤジ、仲良く犬の散歩をしている老夫婦、その知り合いらしい大型犬を連れた女、そんないつもと同じ面々とすれ違っていた。
「……ん?」
ところがそこに、いつもとは様子の違ったヤツが前方から走ってきたんだ。
ソレがだった。
いつもは土手の上を、こっちまで聞こえるくらいの鼻歌を歌いながらのほほんと散歩していただけのアイツが、その日に限ってオレが走っている河川敷マラソンロードを逆走する形で走ってきた。
必死の形相で、水かさの増した川を見ながらワンピースの裾を翻して走っていて。
ただごとじゃねぇな、とオレが思ったときだ。
何を思ったかは、マラソンコースを外れたかと思えば、いきなり川に向かって方向転換しやがった。
「おい!?」
突然の行動にさすがのオレもぎょっとして足を止めちまう。
オレの大声に気づいたまわりのヤツが振り向くが、だけは意にも留めずに川に向かって走り続けてやがる。
何考えてやがんだ、アイツ!
オレはひとつ舌打ちをしてから走り出した。
当然、を止めるためだ。
川べりは除草もされていなく、なおかつ昨日の雨でドロドロで足場が悪い。
普段あんまり運動してねぇんだろうなと予想できる走り方をしていたの腕を、川に飛び込もうとする寸前でオレは掴むことができた。まわりからもれ聞こえてくる安堵のため息。
「!?」
驚いて振り向いたの目は、まん丸に見開かれていた。
「馬鹿野郎! 雨が降った直後の川に入るヤツがどこにいる!」
何があったか知らねぇが、目の前で入水なんて冗談じゃねぇ。
オレは怒りと焦りといろいろな感情が混じった怒声を、勢い任せにに浴びせた。
ところがは必死の様子でぶんぶんと頭を振り、オレに掴まれていない右手で川を指した。
「あれ!」
「あ?」
「あの流されてるダンボール! 中に猫が!」
「なに!?」
の指の先には、随分な勢いで流されていくみかん箱があった。
流れの中央付近で濁流に揉まれているダンボールは頼りなく、今にも水没しそうだ。
そのダンボールの中からかろうじて、ふさふさとしたグレーの尻尾がオレにも見えた。
「川べりに捨てられてて、昨日の雨で川が溢れて流されたんだと思う」
「チッ! 捨てたヤツはどういう神経してやがんだ! ……オイ、待て!」
命に責任持てねぇヤツが捨てたに違いない。
オレははらわたが煮えくり返る思いで流されていくダンボールを睨みつけていたが、が川の中に足を突っ込もうとしたのを見て、掴んでいた腕を引っ張る。
「助けなきゃ! あのままじゃ溺れちゃうよっ」
「だからって、てめぇにゃ無理だろ、この流れは」
「でもっ」
「オレが行く」
「……え?」
オレはの手を離し、素早くTシャツを脱ぎ捨てた。
準備運動が必要ねぇくらいには体は温まってる。
唖然とするをほっといて、オレは川の中へと飛び込んだ。
それと同時に、川岸から複数の悲鳴が上がる。
「ちっ……思ったより勢いがあるな」
普段なら深いところでも胸のあたりまでしかない川が、豪雨のせいで足もつかねぇ。
気を抜くと流れに巻き込まれそうになるのを慎重に見極めながら、オレはダンボールに向かって泳いだ。
流れにうまく乗ればいいだけだったから、追いつくことは簡単だった。
斜めに沈みかけてたダンボールを掴んで引き寄せ、中を覗いてみると、そこにはまだ生まれて間もないと思われるヒマラヤンの子猫が震えながら蹲っていた。
チッ……可愛いじゃねぇか……!!
「大丈夫か」
手を伸ばしてダンボールから救い上げる。怯えきっていた子猫は最初オレの手に爪をたてたが、気にしてらんねぇ。
オレは頭に巻いていたバンダナで子猫をくるみ、流されないようにしっかりと抱きかかえてダンボールを手放した。
だが、ここからが問題だ。
川べりに向かって、流れに対して直角方向に進まなきゃならねぇ。
オレひとりならどうとでもなるが、子猫を水没させないように泳ぐにはどうしたらいいんだ?
そのときだ。
「危なーい!!」
川岸からの大声に顔を上げれば、いつのまにか大集合していた朝の散歩組が下流の方を指して口々に何か叫んでいた。
つられてそっちを見れば……
「流木か!? くそっ!」
長さは目測2メートル、太さはオレの腕より少し太いくらいの流木がモロに衝突コースで迫ってきていた。
たいした大きさじゃねぇが、この流れの勢いで加速した状態のあれを食らえばどうなるか。
オレは子猫を巻いたバンダナを高く掲げながら、必死で身をよじった。
が、流れの勢いが強くて、左肩をかすめた。
「つっ……!」
かすっただけなのに、結構な衝撃がきやがる。
危うく流れに飲まれそうになって、オレは必死で足を動かした。
くそ、どうすりゃいいんだ!?
「おーい! 少年っ、これに掴まれー!!」
そのとき再びの大声。
流れに逆らいながら声のした川岸をみると、あのメタボリックなオヤジがひゅんひゅんと投げ縄を回していた。
……あんなもん、どっから取り出したんだ。
「それっ」
ぬかるむ川べりで投げ縄を投げてよこすオヤジ。が、一投目は届かず失敗。縄の先端に何か重しがつけてあるみてぇだが、勢いが足りなかったようだ。
「しっかり支えてますから、がんばって!」
「よしっ」
メタボオヤジの腰まわりに老夫婦がしがみつくようにして足場を支え、他の連中はその老夫婦を支えてる。
そしてもう一度。
ぱしゃん!
2投目は、すぐ近くまで届いた。
「掴んでくれー!」
「オウ!」
両足と左手で水を掻き、流されていく重しをかろうじて掴むオレ。
なんだこりゃ、散歩に使うリードじゃねぇか。
なるほど、これを2つ繋げて命綱にしたのか。
オレは掴んだリードを掲げてみせた。
とたんに川岸では歓声が沸き、全員が一斉にリードを手繰り寄せ始める。
「あとちょっとだぞー!」
「がんばってー!」
そんな励ましの言葉をかけられながら。
オレは、捨て猫を無事に救出して陸にあがることができた。
飛び込んだ場所から100メートル以上流されたみてぇだ。
わらわらとオレのまわりに群がってきた朝の散歩メンバーが、よくやった、がんばったね、でも無茶はいかんよと、口々に言う。
掴んでいたバンダナの結び目をほどいて、中から子猫を解放する。
変わらず怯えた様子の子猫は、オレの手のひらの上で小さく丸くなって震えていた。
誰だ、こんな幼い命を、自分で餌取りも出来ない生まれたばかりの命を川べりに捨てやがったヤツは。絶対許さねぇ……!
と、全員が額を寄せ合ってオレの手のひらの中の子猫を見ていたら、にゅっと突き出された真っ白いタオル。
差し出したのは、だった。
見れば心底安堵した表情で頬を染め、両手でタオルを広げて。
「ありがとう! 猫拭くから、こっち渡して?」
「オウ」
オレはの差し出したタオルの上に、そっと子猫を乗せた。
は赤ん坊をあやすように「よしよし」と声をかけながらくるりと体を反転させ、左肘をオレに突き出す。
「こっちのタオルで体拭いて、ついてきて!」
「……あ?」
左肘に架けられたタオルを遠慮なく受け取って顔を拭う。
が、なんだと? ついてこい?
顔を上げたときにははオレに背を向けて、土手を登り始めていた。
オレがぽかんとしていると、リードの命綱を提供してくれた老夫婦が一言。
「あの子、この近くに住んでるのよ。彼女の家で、少し休ませてもらいなさいな」
「……」
休ませてもらうほど体力を消耗したわけじゃねぇ。
でも、さすがに泥臭い川の匂いがしたまま帰るのも気持ち悪い。
それになにより、あの猫が気になる。
ほんの少しの逡巡のあと、オレはぺこりと朝の散歩組に頭を下げて、の後を追った。
道すがら追いついたそのときに、初めての名前を知った。
教えてもらったのだからとオレも名乗り、やがてオレたちはの家についた。
立派な門構えは重厚な日本家屋を連想させたが、門をくぐった先は白茶けた更地が広がる妙な空間と、極普通な家があった。
これだけ整地された広い庭があれば、自主トレにもってこいだな、などと思っていたら、は自宅の縁側から中に上がり奥からバスタオルを2枚持ってきて1枚をオレに渡した。
「あ、それともシャワー使う?」
「いや……」
「そのまま帰るの?」
「自宅に戻って洗濯するからいい」
渡されたタオルでがしがしと体を拭く。
はもう1枚のタオルを折りたたんで、その上に子猫を乗せた。
そして指の背で優しく子猫の頭をなでる。
そういや、流されてるのを見てつい無我夢中になっちまったが、コイツ捨て猫なんだったな。
「……オイ」
「なに?」
震えている子猫に柔らかなハンドタオルをかけながら、は顔を上げた。
「ソイツ、どうする気だ」
「どうしよう」
眉間にきゅっとシワが寄る。
「このままじゃ死んじゃうよね? 自分で餌もとれないだろうし」
「ああ」
「うーん……」
腕を組んで首を傾げて眉間のシワをさらに深くする。
が、やがてその腕をほどいて手を叩き合わせ、きゅっと口を結んで頷いた。
「乗りかかった船だもん。うちで飼うよ!」
「飼い方知ってんのか」
「それはこれから勉強しなきゃいけないけど……すぐ近くに動物病院あるし、学校行ってる間はじいちゃんに見てもらえばいいし。あ、柳や柳生だったらなんか知ってるかな」
最後のほうは独り言になっていた。
まぁ、自らを省みずに子猫を助けに濁流に飛び込もうとしてたくらいだ。任せても大丈夫だろう。
子猫の行く末を確認できたことだし、そろそろ行くか。
「世話んなったな。タオル、汚して悪かった」
「あれ、もう行っちゃう?」
立ち上がり、借りてたタオルを手渡せば、はきょとんとした顔をしてオレを見上げた。
「まだなんか用があんのか」
「別に用はないけど……」
首を傾げながら子猫に視線を落とす。
つられてオレも子猫を見れば、さっきまで震えていたのも幾分落ち着いた様子で、コイツもオレを見上げていた。
クッ……やっぱ可愛いじゃねぇか……!
こんな可愛いモノ、捨てたヤツの気が知れねぇぜ……!!
「海堂?」
「い、いや、なんでもねぇ。オレはもう行く」
「そっか。海堂、今日はありがとね!」
にっこり微笑んだと、つぶらな瞳で見上げる子猫に後ろ髪を引かれる思いだったが、オレは踵を返した後振り向かずに走って帰宅したのだった。
そんなことがあったのが、ちょうど1週間前。
1週間ぶりに会うは、小走りに土手を駆け下りてきて、両手であの捨てられていた子猫をオレの目の前につきつけた。
「ほら、カルカン。この人がお前を助けてくれた人だよ」
「ほあ〜」
「っ、ちょ、ちょっと待て! なんだそりゃ、コイツの名前か!?」
なんだその、来年の春あたりに何かが起きそうな名前は!?
ついでに猫の鳴き声もマズイ気がするぞ!
「うん、この子の名前、カルカンにしたの。まだミルクだけって知らなくて猫缶売り場でどれがいい? ってやったらカルカンに猫まっしぐらだったから」
「…………」
「あ、今はちゃんと勉強して、子猫に適した食事出してるよ?」
そういう問題じゃねぇ。
思わずガン睨みしちまったが、は意に介さずへらっとした笑顔を浮かべたまま。
オレは小さく舌打ちして、捨て猫に……か、カルカンに視線を移した。
泥流に汚れてかさの減っていた体毛もつやを取り戻し、ヒマラヤン独特の高貴さがにじみでるくらい、元気に回復したみてぇだな。
「海堂、全然様子見にこないんだもん。だから連れてきちゃった」
「フン……」
そうそう初対面のヤツの家に気安く行けるわけねぇだろ。
まぁ、カルカンのことは正直すげぇ気になってたから、今日が連れてきてくれたのは感謝してるが。
「病院で健康診断してもらったけど、なんの問題もないって」
「そうか。そりゃよかったな」
「うん!」
ぎゅっとカルカンを抱きしめて、が嬉しそうに笑う。
少し眩しくて、オレは視線をそらす。
するとは小さく首を傾げ、ついでにカルカンもなぜか「ほあ?」と同じような仕草をして。
「今度から散歩に来るときはカルカンも連れて来るね。海堂も会いたいでしょ?」
「ああ。……カルカンにはな」
「うん。あ、じゃあ私、部活の朝練に遅れちゃうから、またね!」
「ほあ〜」
それだけ告げて、はぱたぱたと土手を駆け上がっていった。
……オイ。もう少しカルカンを構わせてくれてもいいだろうが。
「フン……」
オレはが消えた土手をしばらく見つめていたが、見ててもカルカンが戻ってくるわけじゃねぇ。
首にかけていたタオルで汗を拭ったあと、元来た道を戻るためにくるりと方向転換した。
が、走り出したオレの耳に届いた、さっきすれ違ったはずのメタボリックオヤジと老夫婦の会話。
「若い人たちはいいですねぇ」
「そうですねぇ」
「…………」
なぜかオレは顔が熱るのを感じて、ランニングピッチを一気に上げるのだった。
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