『私、別にそのメールが理由でシンくんと別れたわけじゃないよ?』
「へ、そーなの?」
『うん……あ、ごめんねさん。先生に呼ばれてるからもう切るね』

 ぷつっ

 小石川側から切られた通話。は携帯をたたんで振り向き、肩をすくめる。
 オレの横で一部始終を固唾を呑んで見守っていたシンは、がっくりと肩を落とした。



 〜双子の姉夫婦、弟を語る 其の三〜



「そもそも、小石川さんがなんと言ってくんと別れたのか、聞いたんですか?」
「「あ」」

 若王子先生の言葉に、オレとは初めてそこに気がついた。
 そういやそれを聞いてなかったな。それ聞かねぇでどうして小石川がシンに愛想つかしたかなんて想像したって、全く意味がない。

 ……の前に、ちょっと待て。

「先生」
「はいはいっ、志波くんなんでしょう?」
「ここで何してンですか」
さんのお家でミカン食べてます」

 それは見ればわかる。

 卒業してからもうすぐ丸5年もたつが、若王子先生の外見はあの頃からちっとも変わらない。
 のほほんとした表情での対面のコタツに足をつっこみ、本人が言うようにひたすらミカンの皮を剥いている。

 そうじゃなくて。

「若先生は私が呼んだんだよ」
「お前が?」

 先生が綺麗に剥いたミカンを遠慮なく片っ端から頬張っているが、こっくりと頷いた。

「宴会準備要員」
「あのな。いい加減、先生を顎で使うのやめろ」
「シンが使い物になんないんだししょうがないじゃん。水樹にレンタル許可貰ってるし」
「志波くん、気にしないでください。こう見えて先生は宴会幹事も得意なんですよ?」

 それって水樹がこの間、先生が卒業生によくカモられてるって愚痴ってたヤツか……?

さん、先生もミカン食べたいんですけど……」
「食べればいいじゃん」
さんが剥いた先から食べてしまうから、先生食べられません」
「じゃあもっと剥けば」
「ひ、ひどいですさんっ」

 慌てて先生が剥き終えたミカンを手元に手繰り寄せようとしても、素早くがかすめとっていく。
 この二人のやりとりも相変わらずだ。
 オレは小さくため息をついた。


 今年が終わるまで、あと15時間。今日は12月31日大晦日。

 水樹と雪平からキツク説教されたあと、シンはますます焦燥感を強めていた。
 さすがに仏壇に向かって何事か呟き始めたのはマズイと、見かねたが小石川に連絡をとったのが昨日。

 まぁ結局はトドメを刺したような結果になっちまったんだが……。

 シンはすっかり引きこもっちまって、今日はまだ一度も姿を見ていない。

くん、大丈夫なんですか?」

 ようやくに奪われることなく、ミカンをひとかけ口に放り込めた先生が天井を仰ぐ。

「多分……」

 球団の年始の広報仕事も全部断りやがって、おかげでオレが年越し間際になって代理で駆けずり回るハメになって。
 予定を狂わされての機嫌も急降下し、それを元に戻すのにも気疲れして。

 なんでオレがこの双子の機嫌ひとつでここまで振り回されなきゃなんねぇんだ……。

「やや、志波くん眉間にシワが」
「はぁ……」
「結婚前からそんなんじゃ、先が思いやられますよ?」

 なぜか嬉しそうにオレに耳打ちしてくる先生。
 多分、オレの気持ちを共感できるのは先生じゃなくて水樹の方だと強く思う。

 と、その時だ。

 ガゴンッ!

 2階で大きな物音がしたかと思えば、衝撃を受けて天井からぱらぱらと埃が落ちてきた。

「勝己の仕事増えたね」
「なんでこの家の掃除全般がオレの仕事になってんだ? あ?」
「喧嘩は駄目です。ブ、ブーですよ?」

 さらりと仕事を押し付けようとするに半ギレのオレ、そしてオレたちを宥める先生。
 その3人のいるリビングに、再び響いてくる派手な音。
 が、今度のそれは階段を駆け下りてくる足音だとすぐにわかった。

 ということは。

 バタン!

 最後にリビングのガラス戸を乱暴に開け放つ音が響いて、飛び込んできたのは携帯を握り締めて興奮した様子のシンだった。
 シンの表情が生き生きしているのを見るのは、随分と久しぶりな気がする。ほんの1週間程度のことなのにな。
 普段、どれだけウルセェ奴だったかと、今改めて思い知る。

っ、宴会準備遅らせろ!」
「は?」

 ずかずかと入り込んできたシンは、いつもの不敵な笑みを浮かべて、オレたちに携帯を突きつけた。
 ……お前、先生に挨拶なしか?

 寝癖も寝巻きもそのままの格好で、コタツの上のミカンを鷲掴みにして……ってお前ら姉弟揃って先生のミカン奪うなよ。

「これからここにユリが来る!」
「小石川と連絡取れたのか?」
「別に着信拒否られてたワケじゃねーし。さっきまで1時間かけて説得した!」

 喜びを爆発させてガッツポーズを作るシン。
 手を叩いて一緒に喜んでいるのは先生だけで、オレとは白い目でシンを見る。

「ま、勝己ももいろいろ気ィ遣ってくれたみたいだし、一応礼は言っとくけどな。なんの役にも立たなかったけど。っしゃ、何が何でもヨリ戻してやる! まずはメシ! の前に風呂!」

 いつもの横柄な態度も復活して、ひとりやかましく騒いだあとにシンはリビングを出て行った。
 何しに来たんだ、アイツは。

「……勝己」
「なんだ」

 低く響くの声。
 見れば、座った目をしてシンの出て行ったリビングのガラス戸を睨みつけながら、こめかみをひくひくさせていた。

「ムカツク。邪魔したい」
「手伝うぞ」
「なんか楽しそうです。セイちゃんに連絡です!」

 怒りのぶつけどころがないオレたちを尻目に、先生は嬉々として水樹にメールを打ち始めた。



 そして時刻は正午を迎える。
 本来の家なら今頃宴会準備で近隣商店街の人たちが集まりだして、賑やかになっている時間なんだが、リビングはカーテンまで閉めきって異様な雰囲気に包まれていた。

 コタツを挟んで対峙しているシンと小石川。
 昨日まで大学の研究室に詰めていたらしい小石川は少し疲れた様子でやって来たが、リビングで待ち構えていたシンを見るなり恥ずかしそうに頬を染め、俯いた。

 オレたちは居間続きの和室から、その様子を見つめていた。

「寒い」
「我慢しろ」

 暖房の温もりが届きにくい部屋の中で、は口を尖らせながらオレの背中にぴったりと張り付いて暖を取っている。

「どうなるかな」
「さぁな。つーかオレも寒いんだけど」
「やだなぁ、こういうときはハートを燃え上がらせなきゃ! ってアイタっ!」

 隣にいる佐伯は雪平の頭に顎を乗せて、そのまま頭突きに持っていく。

「どきどきです。今まさにくんの青春爆発ですね!」
「うまくまとまるといいですね」

 手に汗握る様子で二人を見ているのは若王子先生と水樹で。

「あー」

 ……なぜかちび若はオレの肩の上に居座っていた。

「お前ら思いきり野次馬だな」
「いいじゃん、どうせ夜には宴会にお呼ばれしてたんだしっ」
「相談されてたんだから、結末を見る権利はあるだろ?」

 心配してる素振りは微塵もなく、100%見世物として楽しんでるだろ、雪平と佐伯は。
 先生が呼んだのは水樹だけだったはずなのに、どこから聞きつけたのか。
 そういや先生と水樹も、二人の行く末を見守るというよりはショーを心待ちにしているかのような表情だ。

 まぁ水樹はともかく……教師が教え子の人生劇場楽しむってのはどうなんだ?

 が。

「ユリ」

 ばばばっ!

 シンが口を開いたと同時に、全員が身を乗り出した。
 ……オレの腕と脇の間から顔を出すな、

「ユリ、あのさ」

 意を決したように小石川を見据えて切り出したシン。
 小石川は俯いて小さくなったままだ。

「オレはユリと別れたくない。しつこいって思うだろうけど、漠然と別れたいなんて言われても納得できないし。でも、オレはユリの気持ちを尊重したいから、別れたいっていうなら……せめて理由教えてくれよ」

 小石川は黙っている。
 それにしても、別れを切り出したときに小石川は何も言わなかったのか。
 そりゃ、シンも悶々とするわけだ。

 俯いたままなかなか口を開かない小石川を、シンはじっと見つめながら辛抱強く待っている。

 1分近く沈黙を保ったあと、俯いたまま、小石川は口を開いた。

「わた、私、」

 緊張しているのか、声が震えている。

「シンくんと別れてから今日まで、私、すごく……寂しかった」
「ユリ……」

「な、なんかいいカンジだよな?」
「うんうん! もしかしたら、このままうまく元通りになるかも!」

 当事者よりももっと興奮した面持ちで、佐伯と雪平が両手を握り締めつつ二人を見つめている。

「私ね、シンくんが好きだよ。今でも気持ちは全然変わらない」
「だったらなんで別れたいなんて……」

 シンが訝しげに問えば、小石川は再び口を噤む。
 が、今度は顔を上げて真正面からシンを見つめた。

 何度か口を開くものの、なかなか言い出せない様子で。
 我慢強く言葉を待ってたシンも痺れを切らしたのか、

「言葉にしなきゃわかんないだろ? どんなことでもちゃんと聞くから。な?」

 そう促した瞬間だ。
 カッと小石川の頬が染まり、眉間に強くシワを寄せて再び俯いてしまった。
 その反応に困惑したシンが目を瞬かせてぽかんとしている中。

「……?」

 オレの脇から頭を覗かせて二人の一部始終を見ていたが、突然オレの背後に回ってぎゅぅっと抱きついてきた。
 ちび若を肩から下ろして膝に乗せたあと、オレは肩越しにを振り返る。

「どうした」
「多分わかった。小石川が何考えてるか」

 の呟きに、先生や水樹たちも驚いた様子でこっちを振り向いた。
 そりゃそうだろう。こういうことに一番疎そうなが一番に察したなんて。
 それになんで落ち込んでんだ?

「言葉に、って」

 の様子に気を取られていたオレたちを引き戻したのは、小石川だった。
 でもなぜかその顔は赤く染まったまま。
 しかしそれは恥らっているからというわけではなく、むしろ怒りに満ちた様子で。

「そんなこと言って、シンくんが一番なにも言ってくれないじゃない!」
「え、オレ?」
「私、さんがうらやましいよ! 志波くんはちゃんと言葉にしてくれるから!」

 小石川がこんなふうにシンのことをなじるのを、初めて見た。
 全員が半ば唖然として小石川を見てる。

 が。

 饒舌で余計なことまでいつも話してしまうようなシンと比べる引き合いに出されたのが、なんでオレなんだ?

「志波っちょのほうがむしろしゃべんないカンジだよね?」
「だよな? オレもそう思う」

 雪平と佐伯も首を傾げてる状態だ。
 が、小石川は口をあけて唖然としているシンに向かって、堰を切ったように言葉を浴びせる。

「シンくんは優しいよ。いつも大事にしてくれてるってわかってる。でも私、シンくんの本音なんて聞いたことない!」
「本音って、オレ、ユリに嘘ついたことなんかないぞ?」
「嘘つかれてるなんて思ってないよ! でもっ……」

 しゃべってるうちに感情が高ぶったのか、涙をこぼし始める小石川。

「クリスマス前の、中継で、シンくんが」

 クリスマス前の中継? って、なんだ?

「やや、もしかしてそれ、年末特番のスポーツ番組のことでしょうか?」
「あのアイドルも交えてやった競技会の?」

 先生の言葉に佐伯たちも「なんかそんなのあったな」と頷いた。
 そういえば確かに。
 各スポーツ界の有名人が集まって、いろんな競技を測定して優劣競うって奴だ。確かに、野球界の代表のひとりとしてシンも出てたな。
 上っ面と外面のいいシンには、確かにアイドルたちもきゃあきゃあ言ってたが。
 それをが虫でも見るような目で見ていたことのほうが、ずっと印象が強かった。

くん、鼻の下伸びてたよね」

 水樹の一言に、シンの表情がひきつる。 

「ちょっ……まさか、それで怒ってんの!? あんなのテレビ向けのリップサービスに決まってるだろ!」
「でもっ、私には言ってくれたことないじゃない!」
「言うわけないだろ! あんな適当な台詞、ユリに向かって!」

 イラついた口調で、今度はシンが怒鳴りだした。
 これも初めてだ。というか、シンが以外の女に怒鳴るとは思ってもいなかった。

「なんだよそれ!? 誰が聞いても口先だけって思うような言葉が欲しかったのか!? だいたい、それならそう言やいいんだ。なんでいきなり別れるってとこまで飛んじまうんだよ!」
「っ……」
「シン、熱くなんな。小石川がビビってる」
「うるせぇな! 外野は黙ってろ!」

 どうやらシンはぷっつり切れてしまったらしく、頭から湯気が出そうな勢いで今までためにためまくった鬱憤を吐き出し始めやがった。
 一方的に別れを切り出されて、今日までオレがどんな思いでいたかうんぬん。
 シンの怒声を真正面から受けている小石川は、涙もひっこめて小さくなってしまっている。

「ちょ、これ止めなきゃ! ユリちゃんが可哀想だよ!」
「志波っ、なんとかしろよ!」
「……めんどくせぇ……」

 シンの剣幕にどん引きしつつも慌てている佐伯と雪平に促され、オレは和室の隅に手を伸ばした。
 こういうときは大抵がうるさい黙れとキレて、姉弟喧嘩し始めた二人をオレが仲裁するという手順なんだが、なぜかはオレの背中にぴったりとしがみついたまま動こうともしない。

 オレが掴んだのは、が家中に仕込んでいるゴムボールだ。
 ……それにしても、このボールを仕込むきっかけってなんだったんだ?

 などと考えている暇は今はない。
 オレはそのボールをシン目掛けて投げた。
 ぽこんと小気味良い音を立ててそれは、シンの後頭部にクリーンヒット。

 案の定、シンは鬼の形相で勢いよくオレを振り返った。

「んだよ!」
「少し小石川の話も聞け」
「お前に関係ねぇだろ」

 シンは苦い顔して心底辟易したようにさっくりと。

 ……おい。関係ねぇ、だ?

「人にこの家の面倒ごと全部押し付けといて、何が関係ねぇんだお前……」
「あ? いーだろ別に。お前ウチの入り婿なんだし」

 ばぢばぢばぢぃっ!!

 無神経なシンの言葉に、険悪な空気が一気に部屋中へと広がる。
 水樹が雪平と佐伯のいる部屋の反対隅に避難して、先生もオレの膝の上のちび若をひょいと持ち上げてすばやく逃げる。
 だけが変わらずオレの背中に顔をうずめたまま、黙り込んでいた。

 そして、暗雲立ち込めるこの部屋の雰囲気を打破したのは、小石川だった。

「シンくん」

 その声に感情は全く感じ取れなくて。
 驚いたように小石川を振り返るシン。

 小石川は涙のあとを拭いて、抑揚の無い声とは裏腹にうっすらと微笑みを浮かべていた。

「ユリ……?」

 あれだけなじった後だというのに笑顔を浮かべている小石川に、シンもさすがに戸惑っているみたいだ。
 小石川は、シンを見つめていた目を少しだけ伏せて、頭を振る。

「言いたかったよ、私だって。私にもシンくんの本音を言ってほしいって。今みたいに、本音言って欲しかった」
「は?」
「志波くんやさんにいつも接してるみたいに、私にも言って欲しかったから」

「え、まさか小石川って、どえブッ!」
「そこでそういう笑いを取るようなつっこみ入れない!!」

 佐伯の呟きに、華麗なまでの雪平のツッコミチョップが炸裂する。

「だから……そう言えばよかっただろ? でもオレ、ユリに対して本音で話してないわけじゃ」

 さっきまでの勢いもそがれて、シンは困惑したように言うが、小石川はまた頭を振った。

「自信がなくて……言えなかった」
「自信?」

 こくんと頷いたあと、小石川は頭を上げなかった。
 視線を膝に落としたまま、ほんの少しだけ黙り込む。

 ぽとりぽとりと、涙が落ちるのが見えた。

「シンくんが、ホントに、私のこと、好きなのか、自信、持てなく、て」
「はぁ!?」

 小石川の言葉に、シンが間抜けな声を出した。
 ……というか、思わずオレも同じように言ってしまいそうになった。
 水樹や佐伯や雪平もそうだ。
 あんだけ大っぴらに惚気るシンを一番間近で見ている小石川が、どうして自信を持てないのか。

 思わず顔を見合わせるオレたちの中で、先生だけはなにか眩しいものを見ているかのように目を細めていた。

「だって、私」

 ぽたぽたと落ちる涙の量が増えていく中、小石川はようやく重い口を開いた。

「私、シンくんに、好きだって、言ってもらったことない」

「「「「へ?」」」」

 今度こそ。
 目が点になったシンの言葉に、全員の声が重なった。

「そ……だっけ?」

 こくんと頷く小石川。
 そして、胸のつかえがつれたのか、今度は淀むことなく話し始めた。

「シンくんが私のこと大事にしてくれてるのわかってるし、いつも優しいし、そういうのわかってるけど、テレビの中で他の人に簡単に好きって言えるシンくんなのに、私は一度も言ってもらったことなくて、言って欲しかったけどもしかしたら本当は違うんじゃないかとか、ウザイって思われたらどうしようとか、こんなに優しくしてもらってるのに言葉がないだけで不満に思うなんて贅沢すぎるんじゃないかとか、いろいろ考えてもう……」

 支離滅裂になりながらも小石川はそこまで言って、一度深呼吸をして。


「疲れちゃったんだ……」


 鎮痛な顔をして、水樹と雪平が小石川を見ていた。
 佐伯は居心地悪そうに、髪を掻きあげながらそっぽを向いている。
 先生はただ穏やかに微笑んでいて。
 シンは、表情をゆがめていた。

 そしてオレは。

 小石川と同時に同じ言葉を呟いたの手を、握り締めた。
 の呟きはオレ以外の誰にも届かなかったみたいだ。

 小石川は大きく息を吐いた。
 そして少しだけすっきりした面持ちで、ようやく顔を上げた。

 だがシンは、ぽかんとしていた表情を憮然としたソレに変えて、いきなりコタツを平手で叩いた。
 派手な音がして、小石川がすくみあがる。

くんっ、乱暴なことはだめだよ!?」
「大丈夫。くんはそんなことしません」

 思わず身を乗り出した水樹の腕をひっぱりながら、先生がやんわりと告げた。

 見れば、最初は怯えたように縮こまっていた小石川も、コタツの上に置かれたシンの手を見て目を丸くしていた。
 いや、見ているのはシンの手じゃなくて、その下の。

「あのさ、ユリ。オレ、好きでもない奴にこういうもの用意しないんだけど」

 拗ねたような表情を浮かべたシンが手をどける。
 その下から出てきたのは、濃紺のベルベットの小箱。
 小石川よりも早く頬を染めて感嘆の声を上げたのは、水樹と雪平だった。

「シンくん、これ」
「イヴに渡すつもりだったのに、まさか誕生日に振られると思ってなかったし」

 小箱を見つめたまま硬直している小石川の代わりに、シンは再び手を伸ばして小箱を掴んだ。
 そして、かぱ、と蓋を開ける。
 中に鎮座していたのは、全員の想像通りのダイヤの指輪。
 水樹と雪平はますますテンションを上げて、なぜか手を取り合っている。

「ユリ」

 シンが小石川の左手を両手で包むように握る。

「院を卒業したら、結婚しよう」
「シンくん……」
「オレがユリのこと好きだから、結婚して欲しい」

 いつものように意味不明な雄叫びを上げそうになった雪平の口を、佐伯がすんででふさぐ。

「疲れたんなら休んでもいいし、オレもユリが不安に思ってたこと直すから。だからさ、もう別れたいなんて言うなよ」
「シンくんっ、ごめんなさい、私っ」
「それ、結婚お断りのごめんなさいじゃないよな?」
「ちが、違うよっ」

 シンの余計なつっこみに、小石川は耳まで赤く染まった顔をぶんぶんと振って。
 それを見ていたシンが、久しぶりに邪気のない、自信に満ち溢れた不敵な笑顔を見せた。

「今までどおり、オレの彼女でいてくれる?」

 小石川は、こくんと頷くのが精一杯だったようだ。
 が、その返事に満足したのかシンはいきなり立ち上がり、両手でガッツポーズを作る。

「っしゃあ! どーだ見たかお前らっ! 世界で一番幸せ者の雄姿!」
「どこがだ」

 一気にテンションを上げて、なんの意味があるのかオレたちに向かって勝利宣言するシン。
 一応律儀に水樹や雪平は拍手なんぞ贈ってるが、んなことしてやる義理はオレにはない。

 というよりも。
 ひょこ、と再びオレの脇から頭を出したと顔を見合わせて、オレたちはニヤリとほくそえむ。

 お前の気分に散々振り回された側の仕返し、思い知れってんだ。

 オレは立ち上がり、リビングに引かれていたカーテンを一気に開け放つ。
 暮れの良く晴れた日差しが一気に飛び込んできて部屋の中を照らし、そして。

「おらが街のヒーローの婚約に、バンザーイっ!」
「は!?」

 窓の外に張り付いていた、ひなびた商店街の店主たちの万歳三唱を目の当たりにして、シンが固まった。
 そこには家向かいの商店街で店を開いている店主たちが折り重なるようにして並んでいて。
 全員がにやにやと生温い目をしてシンを見ていた。

 鍵がかかっていることが少ない家の窓をがらがらと開けて、肉屋の店主がずかずかとハンディカム片手に上がりこんでくる。

「おいっ! おっちゃん何してんだよ!?」
「いやー、シン坊は偉いっ! このひなびた商店街の忘年会会費のために、体をはってくれたんだからな!」
「ちょ、どういう……おいっ! まさかその手にしたハンディカムっ!」
「この一部始終を録音したDVDをマスコミに売りつければ、酒代賄うくらいにはなるだろ! いやあ、選手は地元活性のために尽力してくれる!」
「明日の元旦一面はおめでたい記事満載やな!」
「結婚式の音楽はオレ様に任せとけって!」
「西本さんと針谷は何ちゃっかり紛れ込んでんだよ!? つーかふざけんな!」
「アカン、おっちゃん、ハンディカムこっちにパスパス!」
「おうっ、頼んだぜ!」

 ぎゃあぎゃあと揉めだしたシンと商店街の店主たちを、冷気が流れ込んでくる室内からオレたちは満足そうに見ていた。

「仕返し成功」
「だな」

 ぱしっと、オレとは手を合わせる。
 この年末、オレたちにどんだけ苦労と迷惑かけたか思い知れってんだ。

 すると、がオレの背中から離れ、赤い顔をしたままぼーっと指輪を見つめていた小石川のもとへと近寄って行った。

「よかったね、小石川」
さん……ありがとう。たくさん迷惑かけてごめんね」
「小石川は謝らなくてもいいよ」

 は小石川の斜め隣に潜りこんで、小箱の中の指輪を見つめる。

「綺麗だね」
さんだって、綺麗な指輪貰ったでしょう?」
「は?」

 寒さをしのぐように肩までコタツ布団をかぶったが、きょとんとして小石川を見た。
 が、そう返されると思っていなかったらしい小石川も同じように目を丸くして、今度はオレを見る。

 オレは眉間にシワを寄せながら、首を振った。

「もしかして、私たちのせい!? やだ、ごめんね志波くん!」
「いや……タイミング悪かったのは確かだけど、別にお前たちのせいでもない。気にすんな」
「何の話?」

 オレと小石川の間で通じている話が見えなかったのか、が不貞腐れたように口をとがらせた。

「あとで言う」

 はオレの返事に納得しかねる様子だったが、商店街の店主たちがぞろぞろとリビングに入り込んできたため、話はそこで中断されることとなった。
 いつもより準備始めが遅れた家恒例大忘年大会のために、急にリビングがせまく慌しくなる。

 いまだ針谷や肉屋の親父と揉めてるシンを尻目に、オレも動くかと立ち上がれば。

「志波くん、志波くん」

 妙ににこにことした先生に話しかけられて。

「今度は志波くんの番ですね。先生、応援してます。ファイト、オーです!」
「おー!」

 ……でか若とちび若は、そろって同じポーズでオレを激励してくれた。



 日付は変わり、時刻は新年を迎えて2時間が過ぎた頃。
 いつものように阿鼻叫喚地獄絵図と化した忘年会も終了し、その痕跡も全く見当たらないくらいに片付けられたリビング。
 今年はつぶれて泊り込むヤツもなく、店主たちも佐伯たちも、新年を迎えた直後くらいに帰宅していった。

 ちなみにシンは、例年通りに派手に酔っ払いながらも、四六時中小石川とぴったりくっついていた。
 そしてある程度酔いが覚めたのか、初詣行ってくると二人で家を出て行った。

 で、結局騒ぎの後片付けはオレがやることになって。

 理不尽に納得がいかないまま、オレはコタツを元の位置に戻して、仕事を終えた。
 そこに洗い物を終えて、がカゴ一杯にミカンを運んできた。

「お疲れ様。食べる?」
「いや……さすがに時間が悪い」
「そっか」

 はミカンをコタツの上に乗せて、自分はオレの膝の上に乗っかる。
 向かい合うようにオレの上に座ったは、眠そうな目を閉じて額をオレの肩に押し当てた。

「眠いならベッドで寝ろ」
「勝己は?」
「お前が寝るなら寝る」
「んー」

 目を閉じたままごろんと頭を転がす
 こうやって返事をあいまいにしてる間は、甘えたいというサイン。
 オレはの髪を撫でながら、好きにさせることにした。

 シンと小石川のことが一段落ついたんなら、ようやくオレもコイツにイヴの続きを伝えられる。
 の頬を撫で、肩を撫で、お互いの指をからませて。
 あっさりとしたキスを一度交わしたあと、強く抱きしめる。

「誕生日おめでとう」

 ぱち

 肩越しで、聞こえるはずも無いのまぶたが開いた音が聞こえた……気がした。
 ほんの少しだけ体を離せば、きょとんとした顔をしている

「シンのせいで、当日言えなかったからな」
「あ、そっか。なんだ、びっくりした」
「そうか?」
「うん」
「……プレゼントも渡しそびれてたな」

 さっき片付けに行ったときにポケットに忍ばせたソレを、オレはの目の前に差し出す。
 それは、数時間前にも見た、ベルベットの小箱。

 案の定、はぱかんと口を開けて、ソレを見ていた。

 実はこれを買いに行ったとき、偶然小石川に会った。
 への贈り物を選ぶときになぜかいつも遭遇しちまう小石川なんだが……指輪の用途をオレから聞きだしたあと、自分のことのように嬉しそうな表情を浮かべてガンバレと言ってくれた。

「言っとくけど、シンに便乗してるわけじゃない」

 一言断ってから、オレは小箱をに手渡す。
 ぽかんとしていたも、ゆっくりと小箱を開けて、中に入っているものを見つめた。

「……綺麗」

 飾りっ気のない、ごくシンプルなエンゲージリング。
 はそれを取り出して、オレの手のひらに載せた。
 そして、自身は左手を突き出してくる。

 なんていうか、コイツは妙なとこ女クサイところがある。
 それを愛しく思いながらも、オレは薬指に指輪をはめてやった。

 指輪を撫で、オレでも滅多に診ることがないはにかんだ柔らかい笑顔を浮かべたは、それこそ指輪なんかよりも、ずっと。

 が。

「シンと合同結婚式はヤダよ」
「それはないから安心しとけ……」

 オレの中で盛り上がった気分を、一気にぶち壊すの一言。
 お前、いい加減空気を読むってこと覚えろ。頼むから。

 はぁ、と思わずため息が出たオレに構わず、は腕を伸ばしてぎゅっと抱きついてくる。

「勝己」
「なんだ?」
「今年もよろしく」

 そうか。
 年明けたんだったな。

「ああ。今年も来年もその先もずっと、な」
「うん」

 温もりと幸せを強く抱きしめながら、オレはの頬に唇を寄せた。



 その後オレは、シンがリビングに携帯レコーダーを仕込んでいたと、年明けしばらくしてからの新聞で知ることになる。

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