いつものように図書室に眠りに来たら、すでにいつもの席に座っていたを見つけた。
 が、は肘をついて自分の両手を見つめていて。

 近づいていくといつものように視線だけオレの方に向けて、でもすぐに自分の手を見つめなおす。

「どうした」
「んー」

 いつもの席についてから聞けば、は眉間にシワを寄せながら両手の甲をオレに向ける。

「どう思う?」
「……は?」

 いつになくというか、いつも通りというか。
 主語のない意味不明な質問に、オレの眉間にもシワが寄った。



 〜ネイルリムーバー〜



 手の甲をオレにつきつけたは、じーっとオレの顔を見てオレの言葉を待っている。
 どう思う、ってなんだ。この手がどうかしたのか?

 オレは視線をの手に移す。

 毎日出歩いてるくせに、オレとは比べ物にならないくらいに白い手。
 バイオリンをやっていたというだけあって、指はしなやかで長い。
 爪はいつも長めだ。邪魔になんねぇのか、って前に聞いたときは全然と一言で返されたな。時々あの爪でシンを引っ掻いてるらしい。
 気まぐれな猫みたいだと揶揄されるコイツが爪で攻撃なんて、まんま猫だろ。噴出しそうになって、口を硬く結ぶ。

 素直に綺麗な手だと思う。出来ることなら触れていたい。他の誰にも触らせたくない。
 が、そんな台詞を言うキャラでもねぇし。

「別に……普通じゃないのか」

 何を尋ねられてるかもわからないまま、オレはそう返事した。
 ところがはほんの少しだけ、多分その変化に気づくのはオレか身内かという程度に顔をしかめた。

「普通?」
「? ああ」

 今度は完璧に口をへの字に曲げる。
 なんなんだ。

「あっそ」
「は? ……おい、ちょっと待てっ」

 何が気に入らなかったのかヘソを曲げたらしいはがたんと椅子を鳴らして立ち上がり、そのまま図書室を出て行ってしまう。
 引きとめ損ねたオレは、ぽかんとするしかなかった。
 なんなんだ一体。勝手に機嫌損ねやがって。

 追いかけようにも今はもう4時間目が始まってる時間だし、廊下をうろうろすれば目立っちまう。
 昼休みにでも話聞けばいいか、と思い直して。
 の気まぐれはいつものことだと、オレはそのまま昼寝することにした。



「……寝すぎた」

 昼休みも半分過ぎたくらいに目を覚まして、オレはさっきからやかましく鳴っている腹の虫を宥めながら教室へと戻る。
 さっさとメシ食ってまた寝よう。
 ようやく辿り着いた教室のドアをがらがらと開ける。

 その時だ。

「こらーっ! 志波やんーっ!!」
「……あ?」

 いきなり西本に怒鳴られて、オレは首をそっちに回す。
 そしてぎょっとした。

 女どもがのまわりに集って、なぜか揃いも揃ってオレを睨んでやがるんだ。
 関わるとめんどくせぇ西本や水島や雪平だけじゃなく、海野も、小野田も、水樹も。
 藤堂だけはの隣の席で頬杖ついて、呆れた顔をしていたが。

「……なんだ」
「なんだやあらへん! ちょぉ、コッチ来ぃ!」

 西本と雪平が手招きしているが、なんで面倒なことになるってわかってるとこに近づかなきゃならねんだ。
 でも、無視しようにも輪の中心にいるのがだというのが気になって。
 はむくれた顔して頬杖ついたまま、オレがいる方とは正反対の方向を向いている。いわゆるそっぽ向いてるってヤツだ。

 どうしろってんだ……。
 ため息ついたオレに、肩を叩いてきたのは針谷だった。

「志波……おとなしくおつとめすましてこいって」
「おつとめってなんだ」
「夫婦喧嘩は早めに和解しないとダメです。子供の教育に悪影響がありますよ?」
「は??」

 なんだそりゃ、意味わかんねぇ、と思って振り向いたそこには妙に笑顔の先生がいて。

「オンナノコは褒めるもんやで? 志波クン」
くんも普段はどうあれ女性であることには変わりないのだから、少しは配慮すべきだね」
「志波、行ってこい。お父さん応援してるから」

 クリスと氷上と、佐伯にまでよくわからねぇ応援を受けて。
 視線を戻せば女どもが早く来いと殺人視線でオレを睨みつけていた。

 なんなんだ……。

 オレは盛大にため息をつきながら、わけもわからないままの回りに集る女どものもとへと近寄った。

「で、なんなんだ」
「だから、なんなんだやあらへんやろ!」
「そーだそーだ! 志波っちょのヒトデナシ!」
「……意味わかんねぇ」

 なんでいきなりヒトデナシ呼ばわりされなきゃならねぇんだ。
 いい加減頭にきて西本と雪平を睨みつけてやる。
 すると二人は慌てた様子で水島と藤堂の背後に隠れて、それでもブーブーと小声で文句をたれていた。

 が、西本と雪平が避けたおかげで、の机の上に広げられているものが目に付いた。

 色とりどりの小瓶と……アイスの棒のような板。板はわかんねぇけど、小瓶の中身はどうやらマニキュアみたいだ。
 なんでこんなモンがの机にあるんだ、と思ったとき、ようやく気づく。
 さっきからオレに文句たれてる西本も雪平も、そのまわりで非難の視線を向けてきている海野や小野田や水樹たちも。
 全員の爪になにかしらのマニキュアが塗られていることに。
 ただ、の爪だけはさっきと変わらず何も塗られてはいない。

「もう。志波くんが褒めてくれればもマニキュア塗ってくれると思ったのに」

 腕を組んでいた水島がため息まじりにそう言った。

「褒める?」
「そうよ。の爪って綺麗な形してるでしょ?」

 爪の形?
 オレはの手を見た……が、何を拗ねているのか、は頬杖ついていた手をグーにして爪を隠す。

 ……おい、ちょっと待て。
 さっきの図書室でのやりとりが頭を掠めて、オレの眉間にシワが寄る。

「今日の休み時間私たち、竜子ちゃんにマニキュア塗ってもらってたんだよ」
「藤堂さんの練習台っていうのもあったけど、たまにはいいよねって」

 ねー、と顔を見合わせる水樹と海野。小野田は少し視線をそらしながら「友達の修練のためです!」とかなんとか、誰に言ってんのかわからない言い訳をぶつぶつ言っている。

「そん時にの爪が話題になったんよ。いっつもって爪綺麗に整えとるのに、マニキュアしてへんねって」
「こうなったらもう塗ってみよう! って話になるでしょ? だけど本人が乗り気じゃなくてさぁ」
「せやから試しに磨いてみるだけでも! って説得して竜子姐が磨いてくれたんに……」

 西本の言葉の省略を補うように、非難がましい視線をオレに向ける女ども。

 つまり、さっきがオレに見せた手、じゃなくて爪は磨いた後のもので、それに対してどう思う? って聞いてたってことか?

 …………。

 んなこと解るかっ!! どれだけ言葉省略してんだコイツは!

 理不尽な非難に腹が立ってきて、顔がひきつりそうになる。

「もー、ダメじゃん志波っちょ! せっかくカノジョが綺麗になる努力してくれたってのに褒めてあげないなんてさ〜」
「「カノジョじゃない」」

 雪平のいらない一言にムッとして言い返せば、とハモった。

 カノジョなんかじゃない。
 事実なんだが、毎度の口からそう言われる度、もやもやする何か重いものが腹の底にズシンと落ちる。
 の本音なんか、所詮オレにはわからない。

 腹の中のもやもやしたものが不快で、オレは小さく舌打ちする。

 ところが、そこでがいつもと違う反応をした。

 いつもならしれっとした顔して「何言ってんの」とかなんとか言うくせに、今日に限っては目を見開いて。
 視線は動かさずにそのまま、ぎゅっと唇を噛んだかと思えばガタンと派手な音を立てて立ち上がる。
 そしてそのままは教室を出て行こうとした。

「ちょ、ちょぉ! どこ行くん!?」
「寝る」
「ね、寝るって……もうお昼休み終わっちゃいますよ!?」

 西本と小野田の引きとめにも耳を貸さず、は教室を出て行った。
 女どもは一瞬ぽかんと教室の出口を見つめたが、すぐに柳眉を吊り上げてオレを睨みつけ、

「志波やんっ! アンタなんなん、その言い草!」
「今さら彼女じゃないなんて、よく言えたものね!」
「そーだそーだっ! 志波っちょの鬼っ!」
「知るかっ! アイツが自分で言ったんだろうが!」

 なんでオレが責められなきゃならないんだ!?
 女どもの同属意識にいい加減ぶち切れて、ついつい怒鳴ってしまって。

「ったくしょうがないねぇ、アンタたちは……」

 一触即発状態のオレと女どもの間に割って入ったのは、今までなりゆきを黙ってみていた藤堂のため息だった。

「ホラ」

 頬杖ついたまま斜に構えて、呆れた目をしてオレを見上げていた藤堂が何かを投げてよこす。
 左手でそれを掴んで、それが何かを確認する前に藤堂は人差し指でオレを指し、

「もっとこじらせたいのかい? 男ならこんなとこでグダグダ不毛なこと言ってないで、さっさとヨリ戻してきな」

 ヨリってなんだ。そもそも最初からヨレてねぇ。
 そう言い返したかったものの、藤堂の真っ直ぐな眼光の前に言葉は出ず、代わりにオレは口を曲げる。

「……悪い」

 ともあれ貰ったチャンスを不意にすることもない。明らかに勝手に拗ねたのほうに非があるとしか思えないが、オレはを追って教室を飛び出した。


「わ、若王子先生、くんと志波くんを止めなくてよかったのですか。もう予鈴が鳴ってますけど……」
「先生は青春爆発推奨派ですから! どきどきです!」



 アイツがどこにいるかなんて、考えるまでも無い。
 よく晴れた柔らかい風の吹く昼下がり。夏休み前の強い日差しが降り注いでいても、日焼けも暑さも気にせずに、あの場所で機嫌よく歌を歌って、教頭に怒鳴り込まれるってのがいつものパターンだ。

 ぎぃー……ぃ

 錆付いた重い音をたてて、屋上のドアを開ける。
 途端、温い風が吹き抜けていく。
 オレは給水塔の方を見上げた。

 陰になってて全体は見えないが、風になびく黒髪が見えた。



 呼びかけたところで、返事はない。
 オレは給水塔に登ることにした。

「……」

 いつもの場所に腰掛けて、は海のほうをぼーっと見つめていた。
 が、口の端を下げていて、こっちを見ようともしないのは拗ねている証拠。
 オレはの隣に少しだけ距離を置いて座り込んだ。

 その途端、は海を見つめたまま口をとがらせる。

「なに」
「機嫌直せ」
「別に悪くない」

 嘘つけ。
 それのどこが悪くないってんだ。

 で、どうすりゃいいんだ?
 めんどくせぇ……そう思いながらを苦く見ていたオレの視界に、きっちりと握り締められたの両手が見えた。
 膝の上で親指を中に入れたグーの形で置かれた両手。
 オレは藤堂から預かった左手の中のものに視線を落として、ふぅと小さくため息をつく。ソレを一度ポケットにしまってから、



 強硬手段だ。
 右手での左腕を掴み、引き寄せる。
 力のあまり入らないの左腕は、やすやすとオレの胸の前に。

「ちょ、なにするっ!」
「でかい声出すな。また教頭が来るぞ」

 の抗議は無視して、強引に左手を開かせた。右手で手首を掴んで、左手はお互いの指を組むようにして。
 腕を降って振り解こうとするから、ついからめた左手に力が入る。

「痛いっ」
「だったらおとなしくしてろ」

 開いてる右手でガンガン腕殴られてるオレのほうが痛ぇ。

 とりあえずそれは無視して、改めてオレはの手を、爪を見た。
 西本や雪平が言っていた通り、確かにいつもよりもぴかぴかと爪が光っている気がする。言われてから見れば、なんだか妙に艶かしく見えた。ただの指先なのに。

 は最高にむくれた顔をしてオレを睨みつけている。
 あの時、キャラじゃねぇなんて言わずに素直に感想言ってれば、こんな面倒なことにはならなかったか?

「爪、磨いたのか」
「…………」
「まぁ……綺麗なんじゃないか」

 極力恥ずかしくない言い回しを選びながら告げると、の眉間にこれでもかとシワが寄る。

「いーよ別に。心にも無いこと言わなくても」
「嘘じゃない」
「はるひにそう言えって言われたの?」

 ……おい。

 一瞬、開いた口が塞がらなかった。
 なんなんだコイツ。今日は、なんか、絶対ヘンだ。
 普段のなら拗ねるより先にウルサイあっち行けもう二度と爪なんかいじるかとかなんとか言って怒るか、大したことじゃないならむくれながらも抱きついてくるかのどっちかだってのに。
 なんだって今日はこんなにつっかかってくる? 何にそんなこだわってんだ?

 はしばらくオレの返事を待っていたみたいだが、やがてふいっと顔をそらす。
 その様子が、妙に女くさくて。……いや、正真正銘女だから別にそういう態度もアリなんだろうけど、あまりに普段のコイツと雰囲気が違って。

 なんというか、恋する乙女がする仕草っていうか……。

 …………。

 何言ってんだ、オレ。

 オレまでらしくない思考しちまって、慌てて頭の中で今の言葉を掻き消す。
 ……どうすりゃいいんだ……。
 ため息つきそうになって、すんでで止めて。

 仕方ない。
 オレは藤堂から預かったモノをポケットから取り出した。
 これをなんでオレに預けたかという意味はわからねぇが、どうしたらいいのかわからないから、とりあえず使ってみることにする。

 左手はの手にからませたままだったから、オレはソレのキャップを口にくわえ右手でボトルを回して外しにかかる。

「は?」

 すると、がすっとんきょうな声を上げた。
 キャップを外したオレは、ボトルに軽く被せるようにして戻して、視線をに向ける。

「なんだ」
「なんだ、って、なんでそんな物、志波が持ってんの?」
「さあ」

 正直な返事をすると、は訝しそうに眉を顰めた。

 藤堂がオレに投げてよこしたのは、マニキュアだった。色は赤みの強い薄い紫。何色っていうんだ、こういうのは。
 ボトルを床に置き、オレは右手でキャップを持ち上げる。キャップには細い柄と平らにカットされたブラシがくっついていた。
 筆なんてもの持つの、中学ぶりか?

「ちょ、ちょっと待った!」
「なんだ」

 の手を持ち上げてぴかぴかの爪にいざ塗ろうとした寸前に、ストップがかかる。

「ソレ、塗るの!?」
「塗る以外になんか使い道あるのか?」
「ない……ていうか、なんで志波がンなことするわけ」
「さあ」
「さあってなんだっ」

 他にやることねぇんだから仕方ないだろ。相槌のような適当な返事をして、オレはの親指の爪に集中する。
 どうやって塗ればいいんだ? 適当に爪全体に塗ればいいだけか?

 が、再びが腕を振って暴れだした。
 仕方なく、一度キャップを元に戻す。

「暴れてたらはみ出るぞ」
「そういう問題じゃないっ。水島に何言われたっ!」
「は?」

 手をからめとったまま聞けば、はなぜか顔を赤くして弱り果てた情けない顔をしていた。
 コイツがこういう顔するのは、本当にめずらしい。

「なんだそりゃ。水島がどうかしたか?」
「だから、水島が、なにか……」
「なにかってなんだ」

 歯切れが悪いのも、視線を微妙にそらそうとするのも、なにもかもが、変だ。
 しばらく黙って続きを待ってみたが、はそれ以上は言葉にしようとしない。



 痺れを切らして呼びかけると、泣きそうな顔でオレを見る。

「マニキュアが嫌ならそう言え」
「……別に……」

 ぽつりとそれだけ呟いて、は俯いた。耳が赤い。

「塗るぞ」

 宣言しても、今度は抵抗がなかった。
 オレはもう一度の手を持ち上げて、キャップも持ち上げる。

 よくわからないまま親指の爪にマニキュアを塗りつけたら、まだらになった。

「……悪い」

 あきらかに見てくれが悪すぎる。何度か筆先でなぞって修正を試みたが、逆に筋が目立つようになるばかりだ。

「いいよ別に」
「自分でやるか?」
「…………」

 案外器用なだから、普段塗りなれて無くてもオレよりはまともに塗れるだろう。
 そう思って尋ねたのに。

 はしばらく無言でいたと思ったら、首を1往復だけ、左右に振った。

「……そうか」

 それ以上口を開けば、オレまでも何か余計なことを口走りそうな予感がして、それだけ言ってもう一度の手を持ち上げた。

 左手5本の爪を塗り終えて(見事にまだらに統一されていた)、の左手から指を引き抜く。
 右手は、指をからめずに普通に手の甲を掴んで持ち上げた。

 さきほどまで触れていた左手の体温と違って、の右手はひんやりとしていた。

「冷たいな」

 言いながらゆっくりとマニキュアを塗っていく。

「あったかいね」

 ぽつりと返したは、薄く微笑んでいた。

 10本全ての指にマニキュアを塗り終わり、オレは大きく息を吐く。
 お世辞を言おうにも無理がある、という仕上がりになんか落ち込みそうになる。
 キャップをしめて右手の平にマニキュアを転がしてからを見ると、指を内側に折り曲げて赤紫の少し毒々しい色に塗られた爪を黙って見つめていた。

 機嫌損ねたにどうしたもんかと思って脈絡なく塗っちまったが、はさぞいい迷惑だろう。

「藤堂にでも言って除光液借りるんだな」
「いらない」

 即答。
 不思議に思ってを見れば、寂しそうにオレを見ている目と視線がぶつかった。

「なんだ?」
「本意じゃないの、わかってるから」
「……は?」

 言ってる意味がわからなくて聞き返したのに、は急に立ち上がったかと思えば給水塔を飛び降りた。

「おいっ」
「他の場所で寝る」

 それだけ言って、さっさと屋上を去っていく
 残されたオレはぽかんとするしかなく。

 なんなんだ。今日のアイツは。わけわかんねぇ。

 がりがりと頭を掻いたあと、でも機嫌は直ったみたいだからいいかと。
 オレは給水塔の上に寝転がった。



「こらーっ! 志波やんーっ!!」

 ……が、聞きなれたやかましい声で叩き起こされる。
 眉間にシワ寄せながらゆっくりと目を開ければ、給水塔のはしごから西本と水島が顔を覗かせていた。

「……ウルセエ」
「んーとにノンキやな、志波やんは。もう放課後になったんやで?」
「部活遅れちゃうわよ?」

 げ。

 がばっと上半身を起こす。腕時計は4時前。あのまま寝ちまったのか。ヤベェ、遅れるどころか既に遅刻だ。
 はしごに西本と水島が居座ってるから、オレはさっきののように給水塔の上から飛び降りた。夏の大会前にレギュラーの3年が練習に遅刻なんてありえねえ。

「あ、ちょちょちょ、待った! 志波やん、待った!」
「待たねえ」
「少しだけ! 少しだけ! な? くんには志波やん遅刻しますーて、さっき伝えといたから!」
「あ?」

 なんだそりゃ。
 屋上のドアノブに手をかけたまま振り向けば、妙にきらきらといい顔した西本と水島がオレのほうに駆け寄ってくるところだった。

「そいでそいで志波やんっ! うまくいったん?」
「竜子からかりんのマニキュア渡されたんでしょ? それ、どうしたの?」
「……かりん?」

 言ってる意味がよくわからなかったが、藤堂から渡されたマニキュアってのは、これのことだよな。
 ポケットからさっきの爪に塗ったマニキュアを取り出す。
 するとそれを見た西本と水島が手を取り合ってきゃー♪ といきなりはしゃぎだす。……なんなんだ。

「ちょっと待て。かりんってなんだ」
「そのマニキュアの色名よ? かりんの花の色」
「それよりそれよりっ。それ、の爪に塗ったんやろ? が自分で塗ったん? それとも志波やんが塗ってあげたん??」

 好奇の視線でオレを見上げてくる水島と西本。
 その妙な迫力に一歩気圧されたものの、返事する義理なんかねぇし、オレは無言を貫いた。

 が。

「志波くんが塗ってあげたのよね?」

 瞳をきらんと光らせて、急にドスの聞いた低い声で呟くように訪ねてきた水島に、不覚にもオレは頷いてしまった。
 その途端、西本と水島が最大級に目を輝かせて詰め寄ってきた。オレは2,3歩後退りして壁に背をつく。

「やだーっ、もうってば羨ましいんだからっ!」
「もー志波やんグッジョブやでっ! も喜んどったやろ!?」
「…………」

 意味わかんねぇ。

 眉間のシワを限度まで深くしたオレは、水島と西本を睨みつける。
 すると、二人は急に含んだ笑みを浮かべながらオレに『真相』をしゃべりだした。

「志波やんが持っとるマニキュアな、今週発売になったばっかの『花言葉のマニキュア』なんよ」
「コンビニで売り出してる安いマニキュアなんだけどね、おまじない効果もあるっていって今すっごく手に入れるの大変なのよ?」
「でもそこはさすが竜子姐やな! ネイリスト目指しとるだけあって、ちゃーんと全色揃えとったもんな?」
「まぁどれも珍しい色味だったからたまたま、なんでしょうけどね。竜子がおまじないなんて気にするとも思えないし」
「……だからなんだ」

 花言葉だおまじないだ、女の好きそうなモノ並べ立てて宣伝文句にしてるだけじゃねぇのか。
 さっさと終われと思いながら、話を促す。

「そんでな、そのおまじない方法ってのがな? 好きな男の子に塗ってもらうって方法やねん!」
「……は?」
「その男の子にどう思ってほしいかで花言葉を決めて、その色のマニキュアを塗ってもらうとその通りになるっていうものなの!」
「…………」

 理解不能だ。
 なんでそんなモンに熱くなれんだ、女ってのは。

「もう、志波くん本当に知らないの? CMでもばんばん流れてるのに」
「花言葉のマニキュアのこと知っとる男子も多いから、マニキュア渡した時点で告白成立! ってなるパターンも多いんやで?」

 知るか、そんなモン。最近は部活の練習後に帰宅したって、メシ食って風呂入って即寝るだけだってのに。

 …………。

 おい。ちょっと待てお前ら。

「それでこの……かりんの花言葉ってのはなんなんだ」
「ボトルの底に書いとるで?」

 言われてオレはマニキュアの小瓶をひっくり返す。
 小さな文字で商品名やら成分やらが書かれた一番最後、確かに『かりんの花言葉』という枠でくくられた欄があった。



 かりんの花言葉 : 唯一の恋



「っ!」

 一瞬で、さっきの光景がフラッシュバックする。

『本意じゃないの、わかってるから』

 が言った言葉の意味を、今始めて理解した。

 去年の修学旅行ではオレが好きだと言った。
 でもそのあと、オレはその気持ちにはっきりと答えないまま……ズルズルと今このときまで来て。

「最初は単にめずらしい色やから竜子姐の実験台〜なんて名目で塗ってもろてただけやのにな?」
「怪我の功名ってヤツよね。志波くん、喜んでたでしょう?」

 喜ぶ?

「んなわけねぇだろっ」

 吐き捨てるように言ったオレの言葉に、西本と水島が目を丸くする。

 柄にもなく赤くなっていたのも、寂しそうな目をしていたのも、ようやくわかった。

 一瞬でも期待させたのかもしれない。
 ヘタクソな塗りでも文句を言わなかったのは、自分で塗りなおししようとしなかったのは。

 きっと、嬉しいと思いながら、傷ついてたんだ。
 そこにオレの『本意』はないって、そう思い込んで。

 冗談じゃねえ。

「あ、あの志波やん……もしかして、もっとこじれてもうたん?」

 心配そうにおずおずと声をかけてくる西本。
 オレは苦々しく見下ろして……ただの八つ当たりだと気づいた。悪いのは西本でも水島でもない。
 今の今まではっきりさせてこなかった、オレが悪いんだ。

「なんでもない。……これ、藤堂に返しておいてくれ」

 オレは西本にマニキュアを押し付けて屋上を出た。

 テスト前にシンが言った言葉を思い出す。
 腕が治ったら、はオレじゃなくて音楽を選ぶ。
 それでもいいと思いながら、拒絶されたときのことを恐れて自分の気持ちはアイツに悟らせなかった。

 覚悟決めろ、オレ。散々傷ついてきたアイツにこれ以上傷を負わせたくないって思ってたのに、オレが傷つけててどうする。
 目の前に迫る甲子園に集中する前に、ケリつけとくことあるだろっ。

 教室に飛び込んで鞄を引っつかんで、そのままグラウンドへと走って。

 この先がどうなろうと、オレは、お前が好きだ、
 うまく伝えられないかもしれねぇけど、これからお前にこの気持ちを伝えるから。必ず。

 すでに野球グラウンドで球出しを始めていたの爪の赤を見つめながら、オレは心の中で強く決心したのだった。




 本編48話へとぼんやり続く。

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