3年目の3学期は時間の流れが早い。
 もう1月も今日で終わりだ。
 無事一流体育大の推薦に合格した志波は、今日は大学の野球部の見学にでかけてる。
 朝からバイオリンを弾いてた私は、気分転換に冬の海に散歩に来ていた。


 62.別れのとき


 空は晴れ渡って、風もそんなに強くない。
 何より人がいないものだからものすごく気分がいい。
 私は浜に降りてぷらぷら歩きながら、スーチャの歌を口ずさんでいた。

 そこへ。

!」

 呼ばれて振り向けば、遊歩道の方ではるひが手を振っているのが見えた。
 はるひも専門学校進学組で、受験がない人だ。はるひも散歩かな。

 と思いながら近寄ってみれば、はるひは息を切らしてなんだか随分と焦っていた。

もセイに呼ばれたん?」
「は? 水樹?」
「ちゃうの? ……まぁええわ。アンタもちょっと来てくれへん?」

 ガードレールをまたいで遊歩道に出た途端、はるひが私の腕を掴んで走り出す。

「ちょ、なに」
「この先の防波堤あるやろ? そこにあかりがおんねん! アタシもよう知らんけど、あかりになんかあったみたいで……」

 海野?

 海野になにかあったって、なんだ?
 なにがなにやら。とりあえず疑問だらけではあったけど、私ははるひについていくことにした。


 テトラポットが浜に積み上げられた防波堤近くまで来て。
 確かに海野はそこにいた。
 防波堤の上で、うずくまるようにしゃがみこんでる。

「あかりっ! アンタ、どないしたん!?」
「海野っ」

 はるひがスピードをあげて海野に駆け寄る。

 海野がのろのろと顔を上げた。
 頬に涙のあと。虚ろな目。
 首に巻いてあるのは、いつも水樹が巻いてた白いマフラーだ。

「はるひ……さん……」
「なんで泣いとるん!? ……わっ、アンタめっちゃ冷えとるやん!」
「私……瑛くんが……」
「……佐伯?」

 私とはるひは顔を見合わせた。
 ここで佐伯の名前が出てくるってことは。

 うわ、もしかして。

「とりあえずどっか入ろう。海野が風邪引く」
「そ、そやな。えっとここからやと……」

 一番近かったのは珊瑚礁だけど、今はもう営業してないし。
 商店街か、はばたき駅の方か……。

「……家が一番近いかも」
ん家? お邪魔していいん?」
「うん。親父もシンも今日はいないから」

 私とはるひは海野の両脇を抱えるようにして立ち上がらせ、ゆっくりと防波堤を降りた。
 海野は涙こそ止まっているものの、腫れぼったい目をしたまま俯いていた。



 大晦日の惨劇の跡を全くカンジさせないくらいに修復されたリビングに二人を通して、コタツの電気を入れる。
 カフェオレを入れようとして、しばらく迷ってからミルクティに変更。
 3人分のミルクティを作ってコタツまで持っていったら、若貴が海野の上にのっかって丸くなっていた。
 海野はようやく笑顔を取り戻して若貴を撫でてる。

 よし、若貴グッジョブ。

「な、なぁ……それであかり、何があったん……?」

 ミルクティを一口飲んでほっと一息ついてから、おずおずとはるひが切り出した。
 海野はこくんと頷いて口を開こうとして。

 ぱーぱーぱーぱぱーぱーぱぱー

 海野の携帯が鳴った。
 携帯を操作して届いたメールを読んでる海野。
 その表情が、また少し曇ってしまう。

「……セイちゃんからだ」
「セイから?」
「瑛くんを引き止められなかったって」

 自嘲気味に笑って、海野は携帯を閉じる。

「海野、佐伯とケンカしたの?」
「ううん」

 首を振って、海野はミルクティに手を伸ばす。

 私とはるひは、海野が話してくれるまで辛抱強く待った。
 そして、ようやくエアコンが効いて部屋の中も温まってきたころ、海野は口を開いた。

「はるひは知らなかったと思うけど、瑛くんね、あの灯台近くの喫茶店に住み込んで働いてたの」
「えっ? 灯台て、あの羽ヶ崎の?」
「うん」

 まず海野ははるひに向けて話し出した。
 佐伯のこと。珊瑚礁のこと。学校で優等生をしていた理由。
 聞いているはるひは目を点にして、ぽかんと口を開けていた。

「でも、その珊瑚礁が去年のクリスマスに閉店になって……瑛くん、すごく落ち込んでた。私、出来るだけのことして瑛くんを励ましてたつもりだったんだけど」

 海野がぐっと唇を噛んで、両手も握り締める。
 にゃん、と若貴が鳴いて海野の膝から飛び降りた。

「今日……さっきの場所で……もう全部諦めるって……実家に戻って、ご両親の勧める大学を受けて……珊瑚礁も諦めるって……」
「あ、あかり、泣いたらアカンて……」

 ぽろぽろと涙を零し始めた海野の手を、こっちも泣きそうな顔してはるひが握り締める。
 海野は真っ赤になった目で私を見上げてきた。

「学校にいた時の瑛くんが本当で、私と一緒にいたときのが嘘の自分なんだって……」
「んなわけないじゃん」

 人を慰める言葉を知らない私は、ずいぶんと素っ気ない言葉だなと思いつつも。

「そんなはずない。佐伯が何考えてるかわかんないけど、絶対その言葉こそ嘘だ」
「そうやで、あかり。アンタと一緒におったときのサエキックが一番いい顔しとったやん!」
「でも、私の振る舞いが瑛くんを傷つけてたんだよ」

 海野は両手で顔を覆ってしまった。

「いつも気を張り詰めてる瑛くんが楽しめればと思って、私もふざけあったりして接してたけど、いつもぎりぎりの状態で過ごしてた瑛くんには、自由を見せ付けられて傷ついてたんだよっ……」
「アンタ、それは考えすぎやて! なぁ?」

 はるひは同意を求めて私を見た。
 けど。

 頷けなかった。

 私もそうだったから。
 楽しそうに楽器を奏でる水島やのしんを見て嫉妬して卑屈になってたころがあった。
 くじけてももう一度夢に向かい始めた志波を見てずっと焦ってたころがあったから。

 でも、私の場合は、そんな卑屈な感情さえも志波が包み込んでくれたから。
 佐伯には、海野の気持ちが届かなかったんだろうか。
 クリスマスのあと、海野が一緒にいてくれたからって、穏やかな笑顔見せてたのに。

「海野……」

 上手く伝えられるか自信がなかったけど。

「佐伯に優しくしてあげて。……っていうか、えっと、多分佐伯は自分に自信失くしてるんだと思う。海野のことが大切だから、だから今別れを切り出したんじゃないかって」
「……どういうこと?」
「えーと」

 眉間に皺が寄る。
 ダメだ。いつもいつも思うけど、私の国語能力の低さは自覚するたびへこむ。

「つまり、佐伯はあかりのことを今でも大事に思っとるってことやな?」
「そうそう」
「あのプライド高そうな佐伯が、いつもあかりに救われてることを変に気にしとって、そんでもって珊瑚礁いう喫茶店も守りきれへんかったことが重なって」
「うんうん」
「自分はあかりの側におったら甘えてしまう、あかりまで駄目にしてまうんやないかって、極論にたどりついてもーたんちゃう?」
「それだっ」
「……、アンタなぁ……」

 補足してくれたはるひに大感謝!

 海野は涙に濡れたままの顔をしてぽかんとしていた。

「瑛くん……だから……」
「だから?」
「うん……さっきね、もう耐えられないんだって……これ以上、情けない自分を私に見られるのは嫌だって……」
「そっか」

 海野は涙を拭いた。
 はるひも残ったミルクティを一気に飲み干して。

「そうとわかれば、あかりのすることはひとつやな」
「え?」
「サエキックかて、頭が冷えればとんでもないことしたって後悔するに決まっとる! あかり、少しほとぼり冷めるの待ってから佐伯に連絡とるんやで」
「……話、聞いてくれるかな」
「聞いてくれるよ。つか、聞かなかったらシメに行く」
「せやな! 竜子姐と密っちも連れてくで!」
「ちょ、ちょっとはるひもさんもっ」

 かなり本気の私とはるひの発言に、海野が慌てた。

 そこへ。

 ぴんぽーん

 インターホンが鳴る。
 誰だ?

「ちょっとごめん」

 私は二人に断って、ドア付近の通話ボタンを押した。

「はい?」
『……志波です』

 ……あ。

 思わず私ははるひと海野を振り返った。
 二人は一瞬きょとんとしたものの、すぐにどーぞどーぞと両手で押し出すジェスチャーをした。

 私は急いで玄関に出る。
 鍵とチェーンを外してドアを開ければ、そこには制服姿の志波。
 へぇ、体育大訪問って制服で行くもんなんだ。
 ……じゃなくて。

「上がっていいか?」
「あー、えと」

 タイミングの悪い。
 いつもならすぐに招き入れてハグハグするところなんだけど、今はあんなことがあったばかりの海野がいる。

 私が返答に困っていると、志波が玄関に並べられた見慣れない靴に気づいたみたいだった。

「……悪い。客が来てるのか」
「客っていうか、海野とはるひなんだけど」
「……へぇ」

 意外だ、と言わんばかりに志波は片眉を挙げる。

「お前が家にダチ呼んで遊ぶタイプだと思ってなかった」
「遊んでたわけじゃないんだけど」
「そうか。……じゃあ、帰る」

 あ。

 志波が玄関のドアノブに手をかける。

 すると、後ろから足音が響いてきた。

「あれ? 志波やん帰ってまうん? アタシらもうおいとまするから、上がってけばええやん」
「は? はるひと海野帰るの?」

 振り返れば、きっちりコートを着込んだはるひとあかりがリビングから出てきた。
 海野も涙がひっこんで落ち着きを取り戻してるみたいだ。

 私と志波はきょとんとして二人を見る。

さん、話聞いてくれてありがとう。私、ちゃんと考えてみるね。志波くん、さんのことよろしくねっ」
「……? ああ……」
「あかりのことはアタシに任しとき。アンタかて志波やんと一緒にいられる時間もう少ないんやし、一緒にいられるときは一緒にいたほうがええよ」
「少ないって」

 はるひと海野は志波の横をすり抜けるようにして玄関を出て、ほなまた学校でー! とあっという間に去っていった。
 なんなんだ。

「……海野になにかあったのか?」
「うん、まぁ……。志波、とりあえず上がれば?」
「そうする」

 首を傾げながらも志波は靴を脱いで上がりこんできた。



 みかんとコーヒーという微妙な組み合わせがのっかるコタツで、志波は黙々とみかんを食しながら私の話を聞いていた。
 海野と佐伯の話。
 一通り話し終えたあと、志波は小さくため息をついた。
 あ、吐息がみかんの匂いしてる。

「それで海野の目が赤かったのか」
「よく見てるね、ほんと」

 志波の上に乗っかったまま口を開ければ、志波はその中にみかんを放り込んでくれる。
 しゃべり続けて乾いた喉に、みかんの甘酸っぱい果汁が染みる。

 志波は2個目のみかんをたいらげてチラシで折ったゴミ箱に皮を投げ捨ててから、座椅子のせもたれを少し倒した。
 私は志波の胸にすがるように抱きついて、その私の髪を志波が梳く。

「……でもオレは、少し佐伯を尊敬する」
「は? なんで?」

 ぴったんこしたまま顔だけ上げると、志波は複雑そうな目をして私を見ていた。

「自分から別れを切り出したところが。終わりが見えてるのに、ずるずるとしがみついてるオレとは違う」
「なにそれ」

 志波の終わり?
 何を言ってるのかわかんない。

 志波は私の髪を掴んだまま、私の左頬に手を添えた。

「ドライなヤツだな」
「……??」
「お前は卒業式を境にきっちり終わらせられるのか? ……じゃなきゃ、今こうしてるわけねぇよな」
「ちょ、待って。なんのこと言ってんの?」

 私は体を起こした。
 怪訝そうに志波を見つめていれば、志波も体を背もたれから起こす。

「卒業式に終わるって何?」
「……外国に行くんだろ、何年も。お前は、オレじゃなくて音楽を選んだんだろうが」

 なにも感情がない表情で、真っ直ぐに向けられたまなざし。

 あ。

 そこで初めて、志波が何を言ってるのかを理解した。
 そして、私と志波の間に溝があることに、ようやく気づいた。

 私は志波から離れる。コタツから出て、少し距離を置いた。

「そ、か。ごめん、志波。なんか私、勘違いしてた」
「……?」

 志波が怪訝な顔をする。

 そうだ。
 大晦日の日、志波は言ってた。
 長い、って。
 音楽を学ぶには短い時間だけど、離れているには長すぎる時間。

「私」

 志波に甘えきってた。

「……ごめ……」
「おい……?」
「思い込んでた。てっきり、志波が」

 待っててくれるものだと。

 私の言葉に、志波が息を飲む。

 ……そんなわけないじゃん。そんな長い時間、会うこともできないヤツ待ってるなんて。
 志波は一流大で野球を続けて、きっと将来はプロに進む。
 野球に専念しなきゃいけない時期に、いつ戻ってこれるともわからない私なんか、待っててくれるわけない。

 だから、卒業式で終わり、なんだ。

 志波と、別れなきゃならない、の?

 鼓動がズキンと胸に響く。

「おい……ちょっと待て……何か、行き違いがあるぞ」

 志波の困惑した声が聞こえた。
 俯いてた顔を上げると、なんとも情けない表情をした志波が、私に向き直っていた。

「うん。ごめん志波。勝手に思い込んでた」
「そうじゃなくて。お前、いいのか?」
「……嫌だけど、仕方、ない」
「だからそうじゃない。っ、おいっ、泣くな!」

 狼狽した志波の声に、余計に涙が止まらなくなる。
 なんか、最近涙腺ゆるくてだめだ。
 泣いてたら志波を余計に困らせるのに。

 志波がコタツから出てきて私を抱きしめる。

「いい、志波、優しくしなくても」
「……」

 耳元で聞こえる志波の大きなため息。

。なぁ、オレは待っててもいいのか?」

 ……は?

 全然予想してなかった言葉に、思わず涙が引っ込んだ。
 少しだけ体を離して志波の顔を見上げてみたら、志波は眉尻を下げて困り果てた顔してた。
 なんか、おもしろい。

「オレの方こそ思い込んでた。お前は二者択一で音楽を選んだんだと……」

 なにそれ。
 つまり私が音楽を選んで志波を切り捨てた、って?
 なんでそんな自分が損するようなことしなきゃなんないの。

 っていうか、志波。

「……どれだけかかるかわかんないんだよ」
「平気だ。待つのは慣れてる」
「連絡取るヒマもないかも」
「今だって必要以上に連絡しあってるわけじゃねぇだろ」
「……うん」

 私は志波にぎゅっと抱きついた。志波は大きな手で背中を撫でてくれる。
 何度かキスをして、抱き合って、際限なく続くかと思ったそれを止めたのは、私と志波の間に割って入って来た若貴だった。

「にゃー」
「なにが『にゃー』だっ。オスのくせに志波にべったりで可愛くない」
「……オレは助かった」
「は?」
「なんでもない」

 志波はごしごしと私の涙の後を拭いて、コタツに戻る。

「来い。……みかん食うか」
「食うー」
「にゃー」
「……みかんが好きなのか? ここん家の猫どもは」

 うあ、若貴と一緒にされたっ。
 むっとしながらも、私はいつもの定位置である志波の膝の上に座る。

「佐伯も」
「ん?」
「……いろいろ、自分の中で思い込んでる部分があるんだろうな」
「うん。海野とちゃんと話す機会を作らないと」
「だな」

 志波が私の口にみかんを放り込む。

「志波」
「なんだ?」
「卒業までにやること、少し見えたかもしれない」

 今までいろんな人が私を支えてくれた。
 それは志波に限らず、クリスだったり若先生だったり、まわりのいろんな友人たち。

 それを返す時期が来たんだと思う。

さんにもきっと何か変化があります。高校生活3年間っていうのは、勉強だけじゃない、そういう変化をとげるための時間でもあるんだから』

 若先生にいつか言われた言葉を思い出す。
 変化をとげるきっかけをくれた友人たちに、今度は私が返す番だ。

「そうか」

 志波は何も語らずに、ただ頷いた。
 ただ、優しく微笑んでくれていた。

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