『...Je vous accueille.
 J'attends en France.
 Je veux vous voir tot,Ritsuka.』

 届いたメールを確認して、私はパソコンの電源を落とした。


 61.家恒例大忘年大会


 部屋の電気を消して、下へ降りる。
 ひんやりとした部屋を出た瞬間、居間から上がってくる熱気に包まれた。

 ……たった10分でどんだけ出来上がってるんだろ。おっちゃんたち。

 私はリビングのガラス戸を開けた。

 途端に轟いてくる馬鹿騒ぎ!

「今年の商店街はめでたいこと続きだったな! おうシン坊! こっち来て飲め!」
「ややっ、くんはまだ未成年です。お酒はだめですよ?」
「いいじゃねぇか先生。新年迎える祝い酒にいちいち細かいこと言わんでも」
「だよな! オレも飲んでみてぇ!」
「ハリークン、若ちゃんセンセ困らせたらアカンよ〜」
「へぇ、いい酒あるじゃないか」
「た、竜子姐カッコええコメントするな〜……」
「何を言っているんだ、針谷くんも藤堂くんも! 高校生が飲酒など、言語道断だろう!?」
「そうです! 氷上くんの言う通りです! ついでにそこのアナタ! それは水島さんに対するセクハラ行為にあたりますよ!?」
「ひなびた商店街の青年部に一筋の光を!」
「おいおいっ! 酒屋の兄貴っ、水島さんに何してんだっ!」
「密さん、こっちこっち」
「ありがとう、セイさん。なんだかすごい盛り上がりよね?」

 大して広いとも言えないリビングに、向かいの商店街店主家族一同と、最後の年だからとシンが手当たり次第に呼んだはね学メンツとがひしめきあってる。
 既にテーブルも椅子も床も区別なし。
 自分の目の前の開いたスペースに料理を並べて、怒涛の宴会に突入してた。

 うあ……毎年のことながら表現のしようがないな、この騒ぎは。

「こら! どこ行ってた!」
「あーごめん」

 台所から怒鳴られた。
 そこには一人バンダナを頭に巻いて料理製作にいそしんでる佐伯。
 その手前のテーブルには佐伯の作った料理を盛り付けてる海野と、巻き込まれるのを避けてるのか、自分のペースで黙々と食べてる志波。

 私はだいぶ伸びた髪をひとつにくくって、せまい台所へと向かう。

「お前な。客に振る舞いさせるってどういう了見だ」
「いいじゃん別に。佐伯料理うまいんでしょ」
「そういう問題かよっ」
「珊瑚礁潰れてヒマしてんだからいいじゃん」
「……潰れたんじゃなくて、閉店したんだ!!」

 足で蹴られそうになったからひょいっとかわしてやる。
 佐伯は志波みたいに、眉間に皺を寄せたまま焼きそばを作ってた。

 あのクリスマスの日。自宅のパソコンに届いていたメールで、私は珊瑚礁の閉店を知った。
 突然のことだったから驚いたんだけど、その足ですぐに向かった珊瑚礁はCLOSEDのプレートがかけられてて。
 マスターに会おうと思って行ったんだけど、いたのは佐伯だけだった。

「じいちゃんはここに住んでないんだ。で、なんか用か?」
「なんか用ってほどでもないけど。本当に閉店したんだ」
「まぁな。……そっか、お前じいちゃんと仲良かったもんな」
「うん」

 珊瑚礁から出てきた、ラフなカッコした佐伯と一緒に見慣れた小さな建物を見上げる。
 建物は何も変わってないのに、お客さんがいないお店。
 なんだか変なカンジだ。

「マスターのコーヒー、もう1回飲みたかったな」
「おい。お前が飲んでたコーヒーはほとんどオレが淹れてただろ。いちいち注文つけまくって」
「だから数少ないマスターのコーヒー飲みたかったんだって」
「ほう。オレのコーヒーじゃ不満か」
「うん」
「……今に見てろ」

 ポケットに手をつっこんで、ぶつぶつとなにやら言ってる佐伯。
 私は首を傾げる。

「なんだよ?」
「珊瑚礁に固執してた割りにあんま落ち込んでないなーと思ってる」
「ああ……まぁ」

 佐伯は決まり悪そうに髪を掻きあげた。

「さっきまで、あかりがいたんだ」
「ふーん……昨日からずっと?」
「そこは、つっこむな」

 ほんのり赤くなる佐伯だけど。

 でも、そっか。
 佐伯は海野に支えてもらったんだ。

「よかったね。支えてくれる人がいて」
「は? なに言ってんだお前……が言う台詞か?」
「私も昨日思い知ったっていうか」

 眉を顰める佐伯に、私は左手を振ってみせる。

「治った」
「……治ったって、……動くようになったのか!?」
「うん。志波が治してくれた」
「そっか……なんかわかるよ、その意味」
「素直な佐伯って気持ち悪い」
「ウルサイ」

 チョップされそうになって、私はひらりと身をかわす。

「佐伯、大晦日の夕方5時、海野連れて家に集合ね」
「は? いきなりなんだよ?」
「じゃそういうことで」

 きょとんとする佐伯に一方的に言い放って帰ったわりには、佐伯は律儀に海野を連れてやってきたんだよね。

「マスターも連れてきてって言えばよかった」
「うちのじいさんをこんな騒ぎに巻き込めるかっ」
「あー、それはそうかも」

 慣れた手つきでキャベツを切り刻む佐伯の横で、私は新しいグラスを取り出して。

「ここは佐伯に任せて海野も食べてくれば?」
「おい。なんでオレは働いてなきゃならないんだ?」
「佐伯が働いてると私が楽だから」
「ふざけんなっ!」
「ま、まぁまぁ瑛くん……。さん、この料理とりあえず向こう持ってくね?」

 からあげを山盛りにした皿にプチトマトとパセリを綺麗に盛り付けて、海野は立ち上がる。

「奥の親父の集まりはしばらく乾き物と枝豆だけで足りるから、手前ののしんたちのとこ運んで。あ、青年部に要注意」
「はーい」

 佐伯とお揃いのバンダナを巻いたまま、海野がせまいリビングに突撃していく。

「藤堂、水島、海野のフォローよろしくっ」
「ああ、任せときな」
「あかりさん、コッチコッチ」

 まぁ、あの二人に任せとけば、がつがつした青年部に海野が捕まってもどうにかなるだろう。
 私は青年部の脳天に蹴りかましてる藤堂を安心して見つめたあと、テーブルに置いたトレイにグラスとぐい飲みを並べた。

「食ったのか?」

 目の前で頬杖ついて、佐伯が作った一番焼きそばを頬張ってる志波が私を見上げる。
 一昨年飲まされてつぶされた苦い経験から学んだのか、志波は親父や商店街親父ーズには一切近寄らないようにして台所に居座ってるみたいだ。

「まだなんにも。あ、佐伯もまだ食べてない?」
「食ってない。だから作った料理勝手につまんでる」
「そっか」

 そういえば私もいい加減お腹すいた。

「なにか食うか?」
「うん」
「わかった」

 志波が皿を手にして立ち上がる。
 既に赤い顔してるシンのところまで行って、隙間にしゃがみこんで。

「なんかくれ」
「おー勝己っ! まぁこっち来て座れっ」
「お前、親父さんに似てきたな……。いいからなんか食うものよこせ」

 苦々しく眉間に皺寄せながら皿を突き出す志波だけど。

「あれ、負けるな」
「うん。負けると思う」

 料理を作る手を止めて、佐伯が言った言葉に私も同意。
 二人でしばらく志波とシンの攻防戦を見つめてみる。

「なんだよ。と付き合いだしてからアイツにべったりで、男の友情無視しやがって」
「あのな。普段男と話したがらないのはお前のほうだろうが」
「やだー、勝己くんたらヤキモチー?」
「気色悪い声を出すなっ」
「だったらまずは駆けつけ一杯だろ。おーい肉屋のおっちゃんっ、コッチ来て勝己も交えて飲もうぜー!」
「おっ、渋い兄ちゃんもようやく参戦か!? 酒か? ビールか?」
「お前っ、酒癖悪いにもほどがあるだろ! 離せ!」
「いいから飲めー」
「!!!」

「……負けたな」
「うん」
「つーかお前も焼きそば食うなら志波を人身御供にするな」
「おもしろいかと思って」

 私と佐伯は出来上がった焼きそばを頬張りながら、抵抗むなしくシン率いる商店街青年部に拉致られてしまった志波を生温く見守るのでした。



 それから数時間。
 テレビでは紅白が後半戦に移った頃には……うう。

「なんつーか……今年はいつにも増してひでぇなぁ、オイ……」

 台所のテーブルには、バイトを明けて遅れてやってきた元春にいちゃんと、マダム会に若先生を取られてしまって若干ご機嫌斜めの水樹と、ちょっと味見と言って酒を舐めてると思ったらいつのまにやら出来上がってしまった佐伯と。

「水いる?」
「…………いる…………」

 さんざんからまれたあと、最後には力技で逃げ出してきた志波が、ぐったりと椅子にもたれてのけぞっていた。

 まったりとしたダイニングとは絨毯一枚隔てただけで、まるで別世界。
 リビングの方は、さっきよりもずっと勢いを増してきていた。

「第20……にじゅう……何番だ? つか何番でもいいか! 針谷幸……ん、歌いますっ!!」
「わーわー! ハリークンカッコええなぁ!」
「にいちゃん上手いじゃねーか! 祭歌ってくれ、祭!」
「いーや兄弟舟だろ!」
「いいねぇ。針谷、アンタ演歌歌ってごらんよ」
「わーわー! ハリークン演歌、演歌ー!」

「サエキックの料理ほんま美味しいわ……。アタシ、サエキックにも弟子入り志願したほうがええやろか」
「くっ、この唐揚げの絶妙な揚げ具合……! 本職のオレに匹敵しそうだな! やるな、あの兄ちゃん……!」
「高校生に対抗意識燃やしてどーすんだよおっちゃん……。オレは海野さんが作ってくれたサラダの方がうまいと思うけどな!」
「ええと、それ、野菜切って並べて市販のドレッシングかけただけなんだけどな……」

「今現在商店街が生き残る術として上げられるのは、やはり地域密着の団結力と目玉となる名物を作り上げることでしょう! 幸いにもここは世間を賑わせた甲子園の英雄ご用達の商店街、これを生かさない手はありません!」
「そうです! そしてはね学から徒歩15分という立地も見逃せません! 主婦だけのターゲットから高校生を取り込むことも考えなくては!」
「おお、なるほど!」
「さすが一流大目指してる学生は言うこと違うぜ!」

「若さもあるでしょうけど、お姉ちゃん綺麗な肌してるわねぇ。化粧水何使ってるの?」
「あ、私も聞きたい!」
「化粧水よりも洗顔料を選んだほうがいいんですよ? ねぇ、若王子先生」
「はいはい、水島さんの言うとおりです。洗顔料の中には皮膚から必要以上に油分を取り去ってしまうものもありますからね」
「やだぁ、先生、じゃあいいの教えてくださいよ〜」
「先生化学の先生なんでしょう? 何かいいの作ってくださいよ〜」
「ややっ、あの、それはちょっと」

 いろんなとこでいろんな塊が出来てて、もう好き放題盛り上がってるカンジ。
 ここのダイニングテーブルは、言ってしまえば素面の識者の集まりだ。
 ……あ、佐伯と志波は除く。

 元春にいちゃんと水樹と私は、ぐつぐつと煮立つ土鍋の中の水炊きをつつきながら。

「元春にいちゃん、これで足りる?」
「おー大丈夫大丈夫。つーかセイ、今のうちに食べとけよ? ただで飯食えるときにしっかり食べておかねぇとな」
「はーい……」
「……あー、まぁ酒の席なんだからよ。若王子も大人の付き合いってもんがあるんだろうし。ここは大目に見てやれ。な?」

 頬を膨らませながら白菜とえのき茸をぱくぱくヤケ食いとも取れる勢いで食べてる水樹。
 元春にいちゃんは若先生のフォローにまわってるけど、あんだけ頬に口紅つけられてんの見たら水樹じゃなくたって腹立つだろう。
 まぁ、それが40,50のおばちゃんでも。

 ところがその水樹に、だんっとカラにしたグラスをテーブルに叩きつけた佐伯が座った目をして説教する。

「贅沢言うな、セイ。在学中に教師と恋愛してて暗黙の公認されてるだけでも幸せと思え。あんまりわがまま言ってると、お父さん恥ずかしいぞ」
「真咲先輩、お父さんがお母さんと一緒にいられないからって八つ当たりしてきますー」
「なんだと? 口答えする気か? よし、セイ。お前ちょっとここ来て座れ」
「おいおいっ、佐伯はからみ酒かよっ。つーか未成年、少しは自重しろ!」
が悪い。酒なんかこっちに持ち込むから」
「弱いくせに飲むほうが悪いっ」
「なんだと? 口答えする気か? よし、。お前ちょっとここ来て座れ」
「性質悪ぃなお前……。おら水飲んで酔い覚ませ!」
「なんだと? オレに指図する気か? よし、真咲さん。ちょっとここ来」
「こら佐伯っ! 元春にいちゃんに生意気な口きくなっ!」
「ああもう話ややこしくすんなっ」

 ばちばちと火花を散らす私と佐伯の間に入る元春にいちゃん。
 はぁぁとため息ついたあと、椅子に座りなおして今度は志波の様子を探る。

 志波は、さきほど注いでやった水を一気にあおったあと、頬杖つきながらちまちまと白菜を口に運んでる。
 どうやらグロッキーというわけではなさそうだ。

「勝己は大丈夫そうだな。あとはシンか? アイツ、あのペースだとまーた大惨事引き起こしそうだな……」
「元春にいちゃんに任せたっ」
「だな」
「任せんな! ……とはいえオジサンが止めねぇんじゃオレしか止めるヤツいねーんだよな……。くそ、常識人は辛いぜ」

 元春にいちゃんは器に盛った鍋の具を一気にかきこんで席を立つ。
 鍋の中身はだいぶ貧相になってきていた。

「水樹、まだ食べる?」
「ううん。ありがとうさん。久しぶりにお腹一杯食べれたよ」
「志波は?」
「いい」
「佐伯……は潰れたか」

 いつの間にやら机に伏してくうくうと寝息をたてていた佐伯の手からカラのグラスを取り上げて、私はカセットコンロの火を止める。

「わ、瑛ってばほんとに寝ちゃってる」
「水樹、悪いけどそこのブランケット佐伯にかけてやって。ソファ占領されてるし、このままにしとくしかないよ」

 そーっと佐伯の寝顔を覗き見てた水樹がおかしそうに笑いながら佐伯の肩にブランケットをかける。
 土鍋は志波が台所に下げてくれて、私はテーブルから食器類を引き上げた。

「ねぇねぇ、さん、志波くんっ。瑛の寝顔可愛いよ」
「……そう?」
「……そうか?」

 右頬をテーブルにくっつけて横向きに寝てる佐伯だけど、どこが可愛いのかわからなくて志波と私は首を傾げる。
 まぁ、あの憎まれ口叩くいつもの表情からすればおとなしい分可愛いと言えなくもない。

 えいえい、と佐伯の頬を楽しそうにつついてる水樹のほうがよっぽど可愛いんじゃないかなぁ……と思ってたら。

「や、水樹さん。楽しそうですね?」

 頬についた口紅をごしごしとこすりながら、若先生がやって来た。
 よくマダム会が手放したなーと思って若先生の後ろを覗けば、代わりに元春にいちゃんが捕まってた。
 ……若先生、教師のくせに教え子身代わりにするなんて、やるな。

 ところが、話しかけられた水樹は再びぷくーっと頬を膨らませて。

「楽しいですよ? 先生だって楽しそうだったじゃないですか」
「えーと……水樹さん、怒ってる? ピンポンですか?」
「ブ、ブーですっ」

 怒ってるじゃん。
 私は首を傾げ、志波は小さく噴出す。

「若先生が水樹ほったらかしにしてマダム会と遊んでるから」
「だな」
「やや、先生遊んでたわけじゃないですよ?」
「たくさんキスされてて、鼻の下伸ばしてたくせに」
「あ、カチン。そういう水樹さんだって佐伯くんにデレデレしてたくせに」
「してません!」
「ケンカしてどーすんの若先生……」

 お互い頬を膨らませて不満を漏らす水樹と若先生。
 ていうか高校生と同レベルでケンカする教師って。若先生らしいっちゃあらしいけどさ。

「水樹も若先生にキスしたいならすればいいじゃん」
「え!?」
「おい。お前の常識を世間常識と思うな」
「だってそれが仲違いの原因じゃないの?」
「まぁ……それはそうなんだが」
「やや、さんナイス提案です。ささ、水樹さん。遠慮せずにどうぞ」

 そう言ってふくれっ面から瞬時ににこにこ笑顔になって頬を差し出す若先生。
 対する水樹も一瞬で真っ赤になっちゃって身を引いてる。

 さてどうするんだろ。

 ……と思いながら二人を見てたんだけど。
 そうだ。重要なこと思い出した。

「水樹、悪いけど10分くらい若先生借りていい?」
「えっ? う、うん。いい……っていうかっ、先生はみんなの先生なんだから私に聞かなくてもいいよっ」
「何言ってんの。水樹の若先生じゃん」

 私はテーブルから立ち上がる。
 水樹と若先生と、ついでに志波も私を見上げた。

「ちょっと相談……ていうか報告。進路のことで」
「はいはい。いいですよ?」
「じゃあ私の部屋で」

 若先生も立ち上がる。
 その表情は、私がこれから何を言おうとしてるのか既に察しているような顔だった。

「すぐ戻るから。なんか注文入ったら自分で用意しろって言っといて」
「うん」

 いってらっしゃいと手を振る水樹の横で、志波は神妙な顔してこっちを見ていた。

 私と若先生は、すでに潰れて床に横たわってるおっちゃんたちを跨いで廊下に出て、2階に上がる。
 暖房を入れてなかった部屋は真冬の冷気でひんやりと冷えていた。
 私は若先生にクッションを渡して、パソコンの電源を入れてからベッドに腰掛けて向かい合う。

「若先生、遅れてごめん。進路決めたよ」
「うん、そうだと思いました。音大の願書提出は年明けからだから十分間に合います。休み中に必要な証明書は作っておくから心配しないで」
「……は?」

 にっこりと微笑みながら言う若先生の言葉に私は首を傾げる。
 私の反応が意外だったのか、若先生も同じ方向に首を傾げて。

「あれ? 違うんですか?」
「違うよ。近いけど」

 目をぱちぱちと瞬かせる若先生。
 私は立ち上がったパソコンに手を伸ばしてメールソフトを起動させて、今日届いたばかりのメールをプリントアウトする。

 そしてそれを若先生に手渡した。

「若先生、フランス語読める?」
「フランス語はちょっと。……もしかしてさん、海外に出るんですか?」
「うん」

 手渡したメールに視線を落とすものの、読めないんじゃ仕方ない。
 私は後ろに手をついて、足を組んだ。

「昔師事してた人に連絡取ってみたんだ。腕が動くようになったから、またバイオリンやりたいって。そしたら受け入れてくれるって返事が来た」
さん、そういえば子供の頃は海外にいたって言ってたね」
「うん。その人公演活動しながら音楽院の非常勤講師もしてて。望むなら音楽院への入学も推薦してくれるって」
「やや、それはすごい。じゃあ、卒業後はすぐに?」
「行くつもり」

 大きく頷く。
 子供の頃から毎日何時間ものレッスンしてたって極めるには至らない世界で、どこまで辿り着けるかわからないけど。

 今しか志波に追いつけるチャンスがない。
 胸張って志波の隣にいられるように、努力したい。

「音楽院に入るかどうかはわからないけど。一応進路だから若先生に言っておいたほうがいいのかなって思って」
「うん、言っておいたほうがいいです。さんの時間も、ようやく先へ向けて動き出したんだね」

 私の発言に目を丸くしてた若先生だったけど、最後は穏やかに微笑んで頷いてくれた。

「先生応援します。がんばれ、さん」
「うん、がんばる」

 言われなくても。
 私はセーターの下のバングルをそっと掴んだ。

「じゃあそろそろ先生は下に下りようかな。さんの部屋、ちょっと寒いです」
「ん。暖房いれてないからね。若先生、鍋の残り食べる?」
「お言葉に甘えちゃいます。ああでも、さんはそのままそのまま」
「は?」

 よっこいしょとおっさん臭い掛け声をかけて立ち上がった若先生は、なぜか腰を浮かせた私を引き止める。
 怪訝そうに問い返せば、若先生は似合いもしないウインクひとつ。

「きちんと伝える人が、もう一人いるでしょう?」

 そう言いながら部屋のドアを開けたところには。

「志波」

 出入り口を塞ぐような形で、志波が立っていた。
 若先生は志波の肩をぽんっと叩いて、そのまま階段を降りていく。

 なんでそこに志波がいるのかわからなくてぽかんとしたまま見ていたら。

「入っていいか」
「うん。いいけど……」

 後ろ手にドアを閉めながら、志波はゆっくりと入ってきた。
 さっきまで若先生が座っていたところに、志波があぐらをかいて座り込む。
 私も再びベッドに腰掛けた。

 志波はいつもの無表情ながら、目だけは複雑に感情が渦巻いた色をしてた。

「どうし」
「決めたんだな」

 私の言葉を遮って、志波が口を開く。
 こくんと頷けば、志波は大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出して。

「フランス、か」
「うん。聞いてた?」
「ああ。……どのくらい行くつもりなんだ?」
「それはわかんない。演奏活動が出来るようになるまで、どれだけかかるかわかんないし」

 志波はもう一度深呼吸する。
 まるで、自分を落ち着かせようとしてるみたい。

「多分、最低でも3〜4年は。寝食忘れるくらい没頭して練習しても、それでも足りないかも」
「……長いな」
「一番短い期間で言ってるんだけど」

「長い」

 志波の口調が変わった。
 イラついてる。
 いつの間にか、無表情だったそれが怒ってるともとれるような落ち着かない表情になってて。

「長いって言われても」
「なんで日本の音大じゃダメなんだ。そんなに違うのか、外国と日本は」
「別に……ただ、私は向こうのほうが音楽関係の知り合い多いし、学び直すにも師事出来る人があっちだし」
「行くな」
「無茶言うなっ」

 簡単に言う志波に、私もイライラしてきた。

 なんでそんなこと言うの。
 私がずっと音楽をやりたいのにやれなくて辛い思いしてたの知ってるくせに。
 志波だって、私の左腕が動くの願ってくれてたのに。

 志波が、チャンスをくれたのに、なんで今さら。

「私の進路だもん、志波に関係ない! これしか方法ないんだから」

 この先も、志波の側にいるためには。
 自分自身に納得できるようになるには。

 だけど、志波は私のこの言葉が気に入らなかったみたいだった。

 志波の顔が一気に怒りに染まって、立ち上がったかと思えば乱暴に私の両肩を掴んで、そのまま。

「うわ」

 仰向けに、ベッドに押し倒される。

「ちょ、なにするっ」

 両腕を拘束されて、私の上に四つん這いの状態でのしかかってきた志波に抗議の声を上げる。
 でも志波は、まるで親の仇でも見てるかのような形相で私を睨みつけたままだ。

「行くな」
「だから無理だって!」
「行くな」

 志波の力は強い。拘束から逃れようともがいてみても、びくともしない。

「行くな、

 まだ言うかっ。
 私も負けじと志波を睨みつけてやろうとして。

 思わず、ドキリとした。

「……志波?」

 さっきまで怒ってたのに。
 志波は、今にも泣きそうな、情けない顔して私を見てた。
 こんな顔、初めて見る……。

「……止めたところで、止められるわけもねぇって解ってる……」

 志波がのしかかってきて、重みを全身で受け止める。
 首筋を舐められて、全身が震えた。

「し」
「行かないでくれ、。今のままでいいだろ。なぁ……」

 志波の手が、私の体を滑る。
 突然の事態にどう反応すればいいのやら。

「志波、下、大勢いるんだけど」
「だからどうした」
「どうしたって、人の話聞いてんの」


 服の裾から志波の手が潜り込んできて、冷たい手の感触にまた体が震えた。

 …………。

 まぁいいか。

 私は力を抜いた。

 志波が、望むならそれでも。
 志波の望みで今の私に叶えてあげられることなんて、ほとんどないし。

 行くな、って言ってくれたことも、正直なところ嬉しかったし。
 ただ私が志波の側に自分自身自信を持っているためには、どうしても行かなきゃいけないから。
 そばにいて欲しいと望まれたことは、素直に嬉しかった。

 だから。

「志波」

 志波の髪を梳く。

 その途端、志波の体重が一気にのしかかってきた。

「ぅげっ! ちょ、志波、重い!」

 全身筋肉の塊の大男にのしかかられたらつぶれるって!
 私は必死にもがくけど、志波はぴくりともしない。

 そして気づいた。

「……寝てる」

 すー。

 私の耳元で、志波の寝息が聞こえた。
 ついでに、ほんのり香るお酒の匂い。

「……」

 ちょっと待て。

 コイツ、酔った勢いかっ!!

「重いっつーの!」

 両手両足で志波の体を上からどける。
 ごろんと寝返りうつようにして転がった志波は、のんきな顔して完全に落ちていた。
 こ、この狂犬が……。

「朝まで寝てろっ」

 私はベッドから起き上がる。

 が。

 立ち上がった瞬間、ひんやりとした空気に包まれて、私は自分の体をすくませた。
 暖房入れてないから寒いのは当然なんだけど。

「……」

 振り返る。

 ベッドの上には半永久的熱源と布団。
 下は阿鼻叫喚の地獄絵図。プラス、後片付けと酔っ払いの始末。

 どっちをとるかの選択はコンマ以下で決められた。

 私はいそいそとベッドに戻って、足元の布団を引っ張り上げて志波の隣にもぐりこむ。
 あーあったかい。志波の温もりと匂いはいつだって心地いい。

 どうせ潰れる連中は勝手に潰れるだろうし、はるひやはね学連中は若先生と元春にいちゃんが対応してくれるだろう。
 準備やら給仕やらで疲れたし。今日はもう寝るっ。

 私は志波に擦り寄ったまま、若貴みたいに手足を丸めて目を閉じた。



 で、翌日。

 なぜか私と志波は、荒れ放題に荒れたリビングで、親父とシンと元春にいちゃんの前で正座させられていた。
 私をのぞく全員が、なぜか妙に難しい顔をして。

 その後ろで、ちらちらとこっちの様子を覗いてる商店街店主家族一同。
 はね学生たちは昨日のうちにちゃんと帰ったみたいだった。

 ……で、なにこれ?

 首を傾げていたら、親父がおもいっきり不服そうにため息をついた。

「なんもなかったって、情けねぇ。お前それでも男か」
「ってオジサン! それ娘の父親の台詞じゃねーだろ!」
「つーか勝己……据え膳目の前に潰れるって、ちょーっと情けねぇぞ?」
「………………」

 はぁぁと残念そうに腕組みしながらため息をついてる親父とシンの横で、元春にいちゃんだけがなんか突っ込んでるけど。

 あ、志波もため息ついた。

なら逆に襲うかとも思ってたがな」
「オレもー」
「だって志波さっさと寝ちゃうんだもん」
「……オレ本当にこの家族と血の繋がりあんのか自信なくなってきた……」
「………………」

 元春にいちゃんは頭を抱えて、志波はもう一度ため息をついた。


 まぁそんなカンジで。
 行く年来る年、2009年の元旦を迎えたのでした。


「……」
「どうしたの志波。自分の手じーっと見て」
「……いや」
「?」
「思ってたより、でかかったな、と」
「は?」

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