「竜子姐っ、ネイルの準備ええな?」
「ああ。きっちり揃えて持ってきたよ」
「密っち! メイク道具は?」
「勿論。とっても楽しみにしてたから、いろいろ買い足しちゃった」
「あかりとセイ!」
「カメリヤ倶楽部から借りてきたよ。スワロフスキーのアクセ一式!」
「手芸部に頼んで共布のコサージュも作ってもらってきてるよ!」
「最後にチョビは……」
「ちゃんと持ってきてます。演劇部からウィッグ借りてくる、でしたよね」
「よろしい。それでは全員っ、の加工に行動を移されたし!」
「「「「「了解っっ!!」」」」」
「みぎゃーっっ!!!」
59.聖夜の奇跡
3年目のクリスマス。
はね学では毎年クリスマスイヴにクリスマスパーティを開いてる。
で、そのパーティは3年に一度、はばたき山の山荘を借り切って1泊2日のスキー合宿を兼ねた盛大なものになるらしいんだけど。
そのクリスマスパーティに、私は3年目にして初めて参加した。
パーティはフォーマルウェア推奨ということで、事前にはるひと水島に付き合ってもらってショッピングモールでドレスを買って。
正直、あっちもいいこっちもいいと二人に着せ替え人形のように遊ばれてただけの気もするんだけど……。
購入したのはワンショルダーのロングドレス。色は黒。
型からウエストにかけてドレープが入っていて、ハイウエストからローウエストまではぴったりとしぼってある。フルレングスのマーメイドライン。
火傷痕を隠すために、黒のレースのロンググローブも買った。
……で。
嫌な予感はしてたんだ。
「アンタ、すっぴんでこれだけドレス着こなしとるんやったら、ばっちり化粧したら相当クるんちゃう!?」
「来るってどこに」
「そうよね。やだ、パーティ前に加工しちゃう?」
「加工って」
「せやな! 、パーティは時間よりも1時間早く集合するんやで!」
「えええ」
などと勝手にはるひと水島が盛り上がって。
まぁ言われたとおり、ちょっと早めに山荘に向かったんだけど。
ついた瞬間、藤堂と水島に有無を言わさず拘束されて、強引に着替えさせられた後は強制的に椅子に座らされて。
どっから持ち出したのか、暴れ防止用にロープで縛りつけられてっ!!
「ちょ、なん」
「、口閉じてちょうだい! それから目は下を向いて! アイラインずれちゃうわ」
「だっていきなりなに」
「頭動かしたらアカン! コテあてとるのに、火傷してまうやん!」
「手も動かすんじゃないよ。石が落ちるだろ」
って、なんで強制拘束されてる私が怒られなきゃならないんだっ!!!
顔に粉叩きつけられるわ、髪はくるくる巻かれるわ、付け爪くっつけられるわで。
息苦しいのがそれから約1時間。
全てが終わってロープが解かれた頃には、もう悪態つく元気もなかった。
ああもう。今日はこのまま寝たい。
私はふらふらと椅子から立ち上がった。
「アンタ……彫刻みたいやな」
「は?」
ぽつりと呟いたはるひの言葉に振り返る。
見ればはるひは頬を赤くして、ぽかんと口を開けて私を見ていた。
いや、はるひだけじゃなくて。
そこにいたみんなが、同じような顔して私を見てた。
「本当。さん、芸術品みたいに綺麗」
「私もまさかここまでなるとは思わなかったわ」
海野と水島がほぅとため息をついて頬を押さえる。
私は眉を顰める。
一体水島たちはどんだけ私を加工したんだか。
部屋の隅にある姿見の前まで、裾を踏んづけないように気をつけながら歩いて、私は鏡の中を覗きこんだ。
…………。
誰だ、コレ。
鏡に映った『自分』に、さらに眉間の皺が深くなる。
くせのないストレートだったはずの髪はゆるく巻かれてサイドアップにされて、ラインストーンのついたコームが飾られていた。
首元にはドレスと同素材のシルクシャンタンのコサージュが付け加えられていて。
両手にはシャンパンゴールドの付け爪。耳には貝パールのイヤリング。
マスカラを塗られた目はいつもよりくっきりして見えた。
それから、珊瑚色の唇。
水島マジックすごい!
なるほど、こういう技で世の男どもは騙されていくわけだ。妙に納得したりして。
「さんっ、きっと志波くん喜ぶよ!」
「いや、逆に怒るかもしれんで? 綺麗になりすぎて他の男に見せたないんちゃうか」
水樹やはるひはなんだか盛り上がってるし。
私はため息つきつつ、手近のベッドに腰掛けた。
「息苦しい。パーティまだ? さっさと終わらせて寝たい」
「アンタもほんとものぐさだね。生徒会に一曲頼まれてるんだろ?」
「んー……」
私の支度を終えたみんなも、各々着替え始める。
すぐ側で着替えてる藤堂は私を見下ろしながら呆れた口調で言った。
私は頷く代わりに首を傾げる。
今日の午前の授業が終わったあと、氷上に呼び止められて頼まれた。
今夜のパーティで、クリスマスに相応しい歌を歌ってほしいって。
「のしんに頼めば?」
「針谷くんにももう依頼済みだ。生徒会現行執行部でアンケートを取ったところ、くんの歌を聞いてみたいという下級生からの意見が多かったみたいなんだ」
「……なんで下級生から?」
「言いたくはないが、君は有名人だろう。毎年毎年、屋上で歌を歌っては教頭先生と追いかけっこしてるって。授業中に聞こえてくる歌声の主の生歌を聞きたいんだそうだ」
私は天然記念物かっつーの。
氷上の頼みを、私はいつものように断ろうとした。
でも、ふと。
最後のチャンスかもしれないって、なんの脈絡もなく思った。
文化祭で、志波に今のままでいいって言われて気が楽になったけど。
考えてみれば、私は高校生活で何ができただろうって。
体育祭での女神、野球部のマネージャー、文化祭の主役。それなりにやってきたけれど。
志波やシンが甲子園制覇の夢を達成したような、全身全霊を込めたようなこと、あっただろうか。
……もちろん、今までしてきたことだって一生懸命やったつもりだけど。
このまま、志波に見守られたまま終わってしまうのは嫌だ。
この気持ちが単なる意地、単なる見栄かもしれなくても。
「……わかった。私が曲選んでいいんだよね」
「やってくれるのかい? よかった! リクエストどうりの音源を生徒会で用意するよ。一体、何の曲だい?」
私の伝えた曲名に、氷上は一瞬驚いた顔をしたけど、すぐに穏やかに微笑んで。
「なに」
「いや……僕はその歌を知らないけれど、くんがそのタイトルの曲を選んだ気持ちがわかる気がして」
……成績優秀者の前で言うようなタイトルじゃなかったなぁって、少しだけ恥ずかしかった。
そんなわけで。
気恥ずかしさと、うまく伝えられるかという若干の不安とで、私は頷くことが出来ずに首を傾げていた。
「楽しみですね、さんの歌」
「そうだよね。文化祭のクリスティーヌの歌もすごく綺麗だったし! 何の歌を歌うの?」
「それは聞いてのお楽しみ」
「もう、いいじゃない私たちにくらい教えてくれても!」
「にしてもハリーも大変やな。ハリーの歌大好きやけど、の歌の後やったら相当のプレッシャーやで」
あははとみんなの笑い声が弾ける。
……しっかし女の着替えは時間がかかる。
普段の姿からどんどん綺麗になっていくみんなを見ているのは楽しくもあったけど、一人手持ち無沙汰に待ってるには長すぎた。
「先行ってていい?」
パーティ開始時間にはまだ時間があるけど、少しくらい人は集まってるだろうし。
お腹もすいたからあわよくばつまみ食いしたい。
「あ、じゃあ私準備終わったから、さんと先に行くね」
空色のドレスに着替えた海野がぱたぱたと駆け寄ってきた。
ゆるくアップスタイルにした海野はいつもよりも大人っぽくて、襟元に光る銀のチョーカーがよく似合っていた。
「わかりました。ではまたあとで会場で会いましょう!」
「うん。さん、行こう?」
「ん」
髪をまとめたり化粧したりとまだまだ準備に時間がかかりそうなはるひたちを残して、私は海野と一緒に部屋を出た。
パーティ会場の隣のコテージ風の宿泊施設の一室。7人が泊まるには若干手狭感があるものの、施設は綺麗でカンジはいい。
別の部屋のクラスメイトたちともすれ違いながら、私と海野はパーティ会場へと向かう。
「さん初めての参加だもんね。プレゼント持ってきた?」
「一応。なんでもいいって言うから、UFOキャッチャーでダブった白熊どくろクマ持ってきた」
「あはは、さんっぽいね」
海野は楽しそうに笑ってる。
そういえばそうだった、って。海野を見てて思い出した。
幼い頃はクリスマスは楽しかった。誕生日だったし、世間もお祭ムード一色で。大抵の人がにこにこしてる日だったなぁって。
思い出す余裕が出来たのも、きっと。
「……あ、ハリーとクリスくんがいる!」
山荘を出て、さすがにドレス一枚では寒い外を小走りに走ってパーティ会場に飛び込めば、海野がすぐに見知った顔を発見した。
色とりどりのイルミネーションに飾られた会場内の、入り口よりちょっと入った壁際のテーブルの前。
喉を押さえてあーあーと発声してたのしんと、そののしんを小首を傾げながら見てたクリスが海野の声に気づいてこっちを振り返る。
「オッスあかり! 可愛いカッコしてんじゃん……」
「ほんまやね! あかりちゃん可愛ええなぁ……」
二人とも笑顔で口々に海野を褒め称えて。
でもその語尾がどんどんと弱くなっていって、なぜか二人ともぽかんと口を開けて私を見た。
「なに」
「なに、ってその言い草、やっぱか!?」
「うわぁ〜ちゃん、めっちゃ綺麗や〜……。ほんまもんの女神サマやな?」
「水島とはるひが悪ノリしたの。疲れたよ」
ひょいと肩をすくめてみせても、のしんは相変わらず呆けたようにしてるし、クリスはクリスでぱちぱちと手を叩いて。
「ねぇねぇ、志波くんはまだ来てないの?」
「あ、お、おう。まだ見てねぇな。シンならさっきコテージで見たけど」
早く志波くんに見せたいよね、そうやね〜、と海野とクリスは盛り上がってる。
そういうクリスとのしんも、今日はきっちりとスーツを着こんできてて普段とは違う。
まわりにいる他の生徒もそうだ。
生徒がこうなら、教師もそうなのかな?
「やや。女神さまの降臨ですね?」
で、タイムリーに聞こえてきたのが若先生の声。
振り向けば、ブラウンのフロックコートを着た若先生が、にこにこしながらやってくるところだった。
「若王子先生、メリークリスマス!」
「若ちゃんセンセ、メリークリスマ〜ス♪」
「海野さん、ウェザーフィールドくん、メリークリスマス。針谷くんとさんも。さんは3年目にしてようやくの参加ですね?」
「うん」
こっくりと頷いたところで、再び近づいてくる新たな足音。
複数の足音は、ようやく着替えを終えたらしい女子チームと、どこかで合流したのか氷上だった。
「おっせーよ! 待ちくたびれたぞ!」
「まだパーティ始まっとらんやん! 女の子は準備に時間がかかるもんやの!」
口ではやいのやいの言いながらも、のしんとはるひはじゃれ合うように小突きあう。
「くん、メリークリスマス。その、ドレス姿とても似合うよ。パーティでの歌、期待してるよ」
「うん」
律儀に挨拶してくる氷上は、すぐに小野田と冬期講習がどうのという色気のない話に突入。
で。
「水樹さん」
「あ、先生」
「どうしたんですか。ここに到着する前と違うね? 髪型も……唇も。お化粧したんですか?」
若先生は早速水樹にべったりだ。
……にしても、水樹こそ綺麗だと思う。
小柄で幼い印象が普段強いのに、今は白のベルベットドレスを着てぐんと大人っぽい。
「セイとが並ぶと黒と白のコントラストだな」
「持っとる雰囲気も対極ってカンジやし。ええなぁべっぴんさんは……」
「はるひだって似合ってるよ、その服」
「あんがとさん。ま、素直に受け取っとくわ」
あははと笑うはるひだけど、本当にはるひの雰囲気に合ってて可愛いと思うけどな。
「それにしても志波やん遅いんちゃう? もう少しで始まるっちゅうのに」
「そうよね。もう、せっかくをこれだけ綺麗にしたのに志波くんに見てもらわなきゃ意味ないじゃない」
はるひと水島が会場の壁掛け時計を見上げる。
時刻は6時少し前。はね学の生徒も続々と会場に到着する中、まだ志波は来ない。
慣れない格好をしてるせいでただでさえ落ち着かないってのに。
早く来ないかな、志波。側にいて欲しい。
と。
「……やや。さん、王子さまが来たみたいですよ?」
ちゃっかり水樹のエスコートポジションをキープしてる若先生が、私ににっこりと微笑みながら会場の入り口を指した。
急いで振り返る。
そこには、らしくスーツを着崩した志波が、きょろきょろと辺りを見回していて。
「おーいこっちだ志波! おっせーんだよ!」
のしんが手を振って大声を張り上げれば、ようやく志波はこっちを向いてゆっくりと歩いてきた。
第2ボタンまで開けたシャツに黒いジャケット。なんかホストみたいだ。
「イベントごとまで遅刻ギリギリかよっ」
「悪い」
「そんなことより志波くんっ、ほらほら見て! さん、綺麗でしょ!」
無意味に偉そうなのしんの説教に気のない返事をする志波。
その志波の両腕を水樹と海野が掴んで、強引に私の方を振り向かせて。
志波は眠そうな目を一瞬だけ見開いて、頭のてっぺん、つま先、そして私の顔に視線を動かして。
「……ああ」
「ってそれだけかいっ! 志波やん、なんか言うことあるやろ!」
べしっと盛大に突っ込むのははるひだ。
水島と藤堂にいたっては大きくため息ついたりなんかして。
っていうか……志波にコメント求める自体が間違ってるって……。
ところが志波は。
片眉を器用に上げて。
「悪い。言葉にならなかった。そうだな……綺麗だ」
いつもの無表情で、社交辞令のような感想を言った。
まぁ、志波にしてみれば最大限のお世辞といえるかもしれない。
私は小さくため息をつきながら苦笑するしかない。
「ん、ありがと」
「ああ」
お礼を言えば志波も小さく微笑んで私の頬を指で撫でる。
すると。
「あ、アカン……ここ、高校生カップルとちゃうで……!」
「志波くん、か、カッコいいなぁ……!!」
「なんなんだっつーの、お前らのそのムーディな会話はっ!!」
全員が全員、妙に身悶えながら呻いていた。
で、一人大人の若先生はというと。
「志波くん、今のイタダキです。先生も今度真似してみようっと」
にこにこしながら、手のひらに何かをメモるような仕草をしていた。
なんなんだって、だから一体っ。
教頭の挨拶とともにパーティが始まった。
何はともあれ、まずは腹ごしらえだ。
一曲歌わなきゃいけないっていっても、空っぽの胃で歌えるわけも無い。
突撃はね学甘党部ー! と勢いよく消えていったはるひと水樹から出遅れて、私は志波と一緒にテーブルをまわる。
「そこのターキー食べたい」
「これか? ……あ、そっちのサンドイッチ確保しといてくれ」
「ん。あれ、ローストビーフもあるんだ」
「両方食えばいいだろ。盛っとくぞ」
「すっげぇ絵になるモデル系カップルなのに食い物しか目がないのかよ……」
「なんかいろんな意味で話しかけられないよね、あの二人……」
外野の言葉はムシムシ。
あらかた料理を選んだあとは、会場の壁際に用意してある椅子を陣取って食事にありつく。
テーブル代わりに1個椅子を挟んで腰掛けて、私は志波にジンジャーエールのグラスを渡す。
「えーと、メリークリスマス?」
「なんで疑問系だ。食うか」
「うん。……ねぇ、なんで志波あんな遅かったの?」
「プレゼントを選んでた」
簡潔に答えて、志波は料理を頬張る。
ふーん……。
志波のことだから、プレゼント交換用の品物なんて超適当に選んでるのかと思ってたけど。
まぁ特に追求することもないから、私も料理に手を伸ばした。
「……そういう服を着るときにそのバングルは合わねぇだろ」
「固結びしてあるからはずれないんだもん。それじゃなくてもこれは外したくない」
もぐもぐと口を動かしながら志波が私の左腕を見る。
レースのグローブの上にはめられた革のバングル。グローブをはめるときちょっと厄介だったけど、外す気は毛頭なかった。
あ、そうだ。
「志波」
「なんだ?」
「遅れたけどお礼。バングルありがとう」
「……気づいてたのか」
「夏に小石川に教えてもらった」
「そうか」
愛想もなく答える志波だけど、少しだけ目尻が下がったような気がした。
「……あの頃は」
こくんと飲み干してから、志波はバングルに視線を落としたまま口を開いた。
「まだ、お前の気持ちがよくわからなかった。何考えてんだってずっと思ってた。……今から思えばただの嫉妬だったな」
「嫉妬?」
「先生に」
志波が顔をあげて私の目を捉えて、眉尻を下げながら笑う。
「お前を感情のままに傷つけて……謝罪したいと思いながらも時間が過ぎて謝りにくくなって……苦肉の策ってヤツだ。シンに頼んで枕元に置いて貰った」
「そうだったんだ。だからシン、サンタでも来たんじゃないかって言ったんだ」
私はバングルを撫でる。
「」
「ん?」
顔を上げれば、優しい志波の海のように深い瞳が見えた。
いつだってこの目で、私を見守っててくれた。
「……そういうのも、いいな」
「ドレス?」
「ああ。……誰にも見せたくない」
「はるひが予想したとおりのこと言ってる」
「そうなのか?」
「うん。……でもこのあとステージで歌わなきゃいけないから、みんなに見せるよ」
「……仕方ない。何歌うんだ?」
志波に尋ねられて、私は言おうか言うまいか一瞬躊躇するものの。
「ユーレイズミーアップ……」
「洋楽、か?」
「うん」
こっくりと頷いて立ち上がる。
ある程度モノは食べた。これ以上食べたら歌うのに支障がでる。
「志波……」
座ったまま私を見上げる志波を呼ぶ。
「……どうした?」
志波が眉を顰めて立ち上がる。私の頬を撫でるようにして手をあてて、上を向かせて。
私は頬に感じる志波の温もりに目を閉じた。
「今日歌う曲、聴いてて」
「? ああ……」
「全部詰め込んで歌うから」
「……震えてるぞ、お前」
志波の硬い声に目を開ける。
案の定、志波は心配そうに私を見下ろしていた。
私は頭を振る。
「なんだっけ。……武者震いっていうヤツだと思う」
「どうした。何か、あったのか?」
「なんにもない。少し、緊張してるだけ」
こんな気持ち久しぶりだ。
気持ちが高ぶって、手が震える。
私は強引に笑顔を浮かべて、志波の手を掴んでそっと離す。
「聴いてて。志波、志波に聴いて欲しい」
「ああ。ちゃんと聴く。……本当に大丈夫か?」
うん。
私は返事の代わりに、こくんと頷いた。
いつも私を包んでいたのは不安と恐怖。平等にやってくる時間に対して、取り残されるという強迫観念。
だけど志波がそれを取っ払ってくれたから。
今、私を包んでいるのは、溢れ出そうな感謝の気持ち。
私はくるりと方向転換して歩き出す。
ステージ近くで教頭と話しこんでた氷上の後輩たちに声をかけて、歌の準備に入る。
ステージといっても、山台のような一段高くなった場所を低いてすりで囲んであるだけの簡素なものだ。
てすりはクリスマスオーナメントで飾りつけられていて、その中央にマイクが1本おいてあるだけ。
さっき教頭が開会の挨拶したのもここ。
「先輩、音源はいつでも流せますよ」
「うん」
深呼吸しながらステージを見つめていたら、生徒会からオーケーサインが出た。
私は、ゆっくりとステージに足を踏み入れた。
マイクの前に立って会場を見回す。
1年から3年まで、みんな着飾って楽しそうに食べたり話したりしてクリスマスを楽しんでる。
祝ってる、じゃなくて楽しんでる、ってのが日本っぽい。
私がステージに立ったのを見つけた近くの連中がこっちを指差して、それがまわりにも伝染していく。
はるひやクリスや天地といった友人たちが前の方に駆け寄ってきた。
そして、志波はほんの少しだけ離れた壁際で私を見つめてる。
ざわめきが小さくなってきた頃、静かなバイオリンの音色が響き始めた。
この歌のことを知ったのは、たまたまテレビで流れていたのを聴いたとき。
自分のことを歌われてるのかと思って、あの時は本当にドキッとした。
やがてピアノの伴奏が加わり、私は大きく息を吸った。
「When I am down ......」
全ての感情を乗せて歌いだす。
落ち込んだとき、疲れ果てたとき、もう駄目だと思ったとき。
そのどんなときでも、志波は私の側で静かに見守っててくれた。
時には怒ったり、時には慰めてくれて。
私の気づかないところで、優しさをプレゼントしてくれていた。
歌いながら志波を見つめる。
志波は、まぶしそうに私を見ててくれた。
全て許してくれた。
志波がいたから、私の時間が動き出したんだ。
もう留まらなくていいんだって教えてくれた。
志波。
感謝の気持ちしか浮かばない。
歌いながら泣きそうになるのを堪えて、私は声を張り上げる。
「You raise me up, so I can stand on mountains......」
あなたが奮い立たせてくれるから、険しい山も、荒波の海も越えていける。
志波、聴いて。
どうか、届いて欲しい。この表しきれない感謝の気持ちを。
「You raise me up......To more than I can be」
短い歌だ。
私は歌い終え、ほぼ同時に音楽も止む。
しーんと静まり返った場内に、ぎくっとする。
……もしかして、クリスマスに関係なさすぎてみんな引いてる?
どきどきしながら目の前で聴いてくれていたはるひを見る。
すると、はるひは頬を真っ赤に紅潮させて、目をきらきらと輝かせて。
ぱちぱちと、いきなり激しい拍手をしだした。
その波が広がる。
一瞬で、会場内には大雨のような拍手の音しか聞こえなくなった。
「すごい! アンタ、ほんますごいで!」
「マジで感動した……。同じ歌い手として、嫉妬よりも感激しか出てこねぇよ!」
「ちゃん、すっごく綺麗な歌声やったで!」
口々に称えてくれる友人たち。
私はそれを半ば唖然として見つめた。
……大勢の聴衆。喝采の声。
昔体験したことのある、恍惚の時間。
自然と、頬が緩んだ。
「ありがとう」
こんな感覚に怯えなくなったのも全部志波のおかげだ。
早く志波の側に行きたい。
私ははやる気持ちを押さえられずに、ステージを降りようとして一歩踏み出して。
ロングドレスを着ているときは、裾さばきに注意しましょう。
つんっ
「う、わっ!?」
つま先をドレスの裾にひっかけてしまって、私は大きくつんのめる!
ぐるぐる両腕を回してバランスをとろうとするものの、裾踏んづけたままだからうまいこといかなくて、ぐらりと体が傾いて。
落ちるっ!!
……と思った時、ステージを囲むてすりをがしっと掴むことに成功して、なんとか倒れずにすんだ。
あーびっくりした。顔面から床にぶつかるかと思った。
空いてる右手で胸を押さえて息を吐く。
「お前なぁ。せっかくビシッ! と決めたのにそこで笑いとるんじゃねっつの!」
「うううるさいっ! 取ろうと思って取ったわけじゃないっ!」
呆れかえるのしんに、くすくすと笑うはるひ。
クリスだけだ。手を貸してくれるの。
「ちゃん、大丈夫?」
「ん。ありがとクリス」
クリスの手をとって、私は身を起こす。
そこへ。
「!!」
志波が、物凄い形相で走ってきた。
「志波やんアカンわ。出遅れたな?」
はるひの揶揄にも目もくれず、志波は私の前まで走りこんできて。
あまりの勢いに、クリスも一歩引いてしまうくらい。
「大丈夫だよ。どこもぶつけて」
「そうじゃない!」
そう叫んで志波は、私の左手をがしっと握る。
「お前っ、左手握ってみろ!」
「……え」
驚愕に目を見開いてる志波の言葉に、はっとする。
そうだ、私、今。
てすりを、左手で。
志波に掴まれた左手を見下ろす。
昨日まで、思い通りに動かすことのできなかった指。力を込めても力が入らなかった指。
「!」
「さん!」
シンが走り寄ってくる。若先生や水樹や、私の友人たちも集まってくる。
みんな気づいたんだ。私の左手の変化に。
私は、ゆっくりと、恐る恐る、左手の指に力を入れた。
志波の左手を握る。力を込める。指が、志波の手の甲に食い込ん、で。
「……動いた」
もう一度。
指は、私の意のままに志波の手を掴む。
夢じゃない。
「動いたっ……志波、指、動くっ」
私は夢中で志波を見上げた。
「志波っ、動いた! 指が動くよ、ほら!」
「」
「志波が願ってくれたからだ……初雪に願ってくれたから、だから」
泣きたいんだか笑いたいんだかわからない。
ただ、ひたすらに。
「ありがとうっ、志波、ありがとう! ありがとう……」
ひたすらに、志波に感謝の言葉を告げるだけしかできなかった。
志波の両腕を掴んで、その胸に額を押し付けて。
溢れ出る歓喜の涙を止めようともしないで、私はずっと、ありがとうを繰り返した。
「多分、さんは満たされたんだと思いますよ」
「満たされた?」
「そう。腕は元々完治していたんでしょう? 動かなかったのは、さんの心の問題だったんです」
「つまり、志波やんがその心の問題を解決したってことなん?」
「確かにそう考えるのが自然かもしれない。シンくんが前に、音楽に対する強迫観念でくんは腕が動かせないんじゃないかと言っていたからね」
「音楽が続けられない寂しさも、志波くんが癒してくれたから心の呪縛が解けたのね。素敵……」
「よかったよね、さん……。本当によかったよねっ」
「水樹、もらい泣きしてんじゃないよ。ほら、涙拭きな」
「にしても当の本人は泣きつかれて爆睡かよ。ったく、ステージで倒れた時はビビったっつーの!」
「まぁまぁハリークン、張り詰めてたものが切れたんよ。今はそっと眠らせとこ? な?」
「さんのことは私たちがちゃんと見てますから、みなさん今日はもう宿舎に戻ってください。消灯時間過ぎてますし」
「……ああ。頼む」
うっすらと目を開ける。
薄暗い室内。冷えた空気。
……ここ、どこだ?
私はむくっと体を起こす。はずみで布団がずり落ちた。
静かに響く寝息に、あてがわれたコテージの部屋なんだと気づく。
頭の近くではるひが眠っていた。
私、いつ寝たんだろ?
服装はドレスのまま。とりあえず寒いから、物音立てないようにして荷物をひきよせて着替える。
その間、昨日の記憶を引き寄せて。
私は、左手に視線を落とした。
ぐっと握ってみる。……力が入る。
枕を掴む。荷物を持ち上げてみる。
出来た。
グローブを脱いで火傷の痕を確かめると、確かにそれは今までどおり残っていて。
だけど、左手が動く。
動くんだ。
「……志波」
私は左腕を持ち上げて、バングルに口付けた。
部屋の壁掛け時計は5時を指している。
冬の朝はまだ暗い。
でも私はコートを着こんで、そっとコテージを出た。
吐く息は真白になって天に昇る。
目で追っていけば、オリオン座が視界に入る。
静かで、気持ちいい。寒いけど、ぴりっとした空気がはっきりと目を覚ましてくれる。
私はざくざくと雪を踏みしめながらその辺を散歩した。
「風邪ひくぞ」
その時、聞きたかった声が届く。
振り向けば、隣のコテージからポケットに手をつっこんだ志波が歩いてくるところだった。
「目ぇ覚めちゃったんだもん」
「オレも。いつもの習慣ってヤツだな」
口をとがらせれば、志波は小さく笑う。
志波は私の目の前まで来て、優しい目をして見下ろした。
「左手、ちゃんと動くか?」
「うん。動いてる。早く帰ってバイオリン弾いてみたい」
「スキーサボる気か?」
「んー……ううん、それは出る。スキーやったことないからやってみたい」
そうなのか、と片眉だけ上げて問いかけてくる志波。
スキーに限らずウインタースポーツの類は子供の頃からほとんどやったことがない。だから興味ある。
……と。そんなことより。
「志波、ありがとう」
「まだ言ってるのか?」
「うん」
「……そんなに言わなくていい。オレも、ホッとした」
志波は笑ってるけど、なぜか寂しそうな目をしてた。
どうしたんだろう。
「ちゃんと、お前の幸せを願えてたんだってわかって、ホッとしてる」
「なにそれ」
「……コイツは無駄になっちまったな」
志波は私の質問には答えず、ポケットから小さな箱を取り出した。
クリスマスカラーの包装紙に包まれた、プレゼント?
「一日遅れた。誕生日おめでとう」
「あ」
そっか。昨日、誕生日だった。
私は志波が差し出したプレゼントを受け取る。少し重みを感じる箱。
「ありがとう。開けていい?」
「ああ」
ちゃんと志波の返事を待ってから、包みを開ける。
中から出てきたのは、……あ。
「デジカメだ……。高かったんじゃないの、コレ」
箱の中身は、グレーシルバーの手のひらサイズのコンパクトなデジカメだった。
志波を見上げると、志波は小さく首を振る。
「気にするな」
「ん……でもなんでこれが無駄になるの? 嬉しいよ。私写真撮るの好きだし」
「でも、音楽の道に進むんだろ?」
ああ、なるほど。
志波が言ってるのは私の進路の話だ。
そっか……そんなところまで気ィまわしてプレゼントにコレを選んでくれたんだ。
つくづく志波って、ほんと。
「うん」
私は頷いた。
志波が左手を動かしてくれて、光がさした。
子供の頃にやっていたとはいえ、音楽の世界でブランクがあるのは相当なハンデだ。
これから死に物狂いで真剣に打ち込んだとしても、どこまで進めるかわからないけど。
志波のように、夢を掴む希望が生まれて、もしかしたら先を行く志波に追いつけるかもしれないって可能性が見えたから。
「」
呼ばれて見上げた瞬間、キスされた。
ほんのわずかな時間のキスのあと、かすかに見えた志波の目はとても切なげで。
抱きしめられて、髪を撫でられて。
でもその志波の手がいつもと違ってとても冷たいのがすごく違和感があって。
「志波?」
「お前が夢に向かって進めるようになったのが、オレは嬉しいんだ……本当だ」
「うん……なに、志波どうし」
「もう何も気にするな。今まで我慢してきた分、全て夢に打ち込め」
「うん……?」
「……それがきっと、一番正しい」
志波。
なんか様子が変だ。
「……し」
尋ねようとした瞬間、解放される。
志波の目は、いろんな感情が混じった複雑な色をたたえていた。
「見るな。……惑う」
「は?」
「……日が昇るまで寝てろ。体を冷やすな」
一方的にそう言って、志波は大股で自分のコテージへと戻っていった。
どうしたんだろう。
何か言いたそうなカンジがしたんだけど。
でも男子のコテージに乗り込んでいく元気とテンションが今はなかったから、私は首を傾げつつも自分のコテージに戻った。
動くようになった左手。遠く彼方に遠ざかっていた夢が、手の届くところにまた近づいた。
今度こそ掴みたい。
そうしたら、今よりもずっと志波に相応しい存在になれるはずだ。
きっと。
私はベッドにふたたび横になって、踏み出す未来へと思いを馳せながら目を閉じた。
Back