「あれ? ちゃん一人なん?」


 53.夢のあと


 なんか今、クリスの声がしたような。

 机に伏してた顔を上げて、くっつくまぶたを強引に離してみれば。
 目の前に、横倒しのクリスの顔があった。

 ……なんだ、クリスが体を横に倒して私を覗き込んでるのか。

「……なに」
「寝とったん? お休み中スミマセン」
「別にいいよ……ふあぁ。クリス、どうしたの?」
「ボクは借りとった本返しに来たんよ」

 にこーっといつもの屈託無い笑顔を浮かべて、クリスは私の対面に腰掛けた。

 空調の効いた図書室。
 いつもの昼寝場所。
 私は体を起こして頬杖をついた。

「志波クンは? いっつも二人でここにおったやろ?」
「知らない。志波ならどっか別の場所にいるんじゃないの」
「……やっぱそうなんやね」

 私の返答に、クリスは眉尻を下げる。

ちゃん、志波クンの近くにおるの大変なんやろ?」
「仕方ないんじゃん? あんだけ追っかけがついたら」

 そうやけど〜、と。
 なぜかクリスはきゅっと眉を寄せて首を傾げた。


 甲子園が終わって、夏休みが終わって。
 国体を来週に控えた9月も半ば過ぎ。
 私は、教室と部活以外で志波と顔を合わさなくなっていた。

 というのも。

 小石川の言うとおり。
 2学期が始まってからはね学内外関係なく、野球部のまわりは人が群がるようになっていた。
 特にドラフトの注目が集まるシンと、劇的な勝利をもたらした甲子園ヒーローの志波に。

 学校の外はいつもマスコミが張ってるし、他校の生徒も待ち構えてる。
 学校内でも、いままで話しかけたこともなかったようなヤツに囲まれてる志波を、何度もみた。

 追っかけしてるファンにとっては、志波の都合なんか関係ないんだろう。
 休み時間は教室に押しかけ、放課後はグラウンドに押しかけ。

 律儀な志波は、他に迷惑かかるからって。
 昼休みに化学準備室に来なくなったし、一度図書室に追っかけられたときからはココにも来なくなった。
 さすがに部活はとんずらこけないから黙って練習に集中してるけど。

 そういえば、森林公園にもこなくなった。
 私や水樹と一緒に話し込んでるところを、背びれ尾ひれをつけて報道したがる三流紙もあるらしくて。

 いや、なんかほんと、びっくりした。
 呆れて言葉が出ないってのが本音だ。

「志波クン、大変やね? 甲子園でがんばって優勝したのに、全然休めへんもんな?」
「うん」
ちゃん、志波クンとお話できとるん?」
「別に……部活中は必要があるから話すけど」

 そのとき、図書室の入り口のほうでどたどたと騒々しい足音が聞こえた。
 クリスも一緒に振り向けば、そこには数人の女子がきょろきょろと室内を見回していて。

 うげ。

 私と視線が合ったかと思えば、ひそひそと仲間内で話して。
 ずかずかとこっちにやってきた。

 こっちくんな、メンドクサイ。

さん、志波くんどこにいるの?」
「知らない」

 高圧的な問いかけにカチンとくるものの、極力冷静に端的に答える。

「嘘。知ってるくせに」
「知らないって。志波ならもう何日も前からここ来てない」
「だからどこにいるの?」
「知らないって言ってる」

 下からギロリと睨み上げてやる。
 するとソイツらは一瞬怯んだ様子を見せて、すぐに踵を返して去っていった。

 イライラする。

ちゃん」

 クリスに呼ばれて振り向いたら、ぐに、と眉間を押された。

「皺伸ばし〜。女の子がそんな顔しとったらアカンよ?」
「……」
「志波クンも大変やけど、ちゃんも大変やね。あんな? 人の噂もシチューのごった煮やで?」
「……なんだそれ?」
「それを言うなら75日やろ。どっこも引っかかっとらんやん!」

 って、どっから沸いてでた、はるひっ!!

 私の真横からにゅっと顔を出したはるひは、ちちちと指を振って私の隣に腰掛けた。

も志波やんも不器用やもんな。あの子らに言ったればええやん。志波やんの彼女はアタシや、って」
「そやそや。シンくんも確かそうやって宣言しとったやん」

 関西弁のステレオ放送。私は、はぁ、とため息をついて再び頬杖をついた。

 甲子園のあと、シンの近くにいられなくなるかもって心配してた小石川は今、シンのリハビリに付きっきりだ。
 シンも志波と同じく、つーかあの愛想のよさもあってそれ以上にまとわりつく人間がすごかったんだけど。

 一度、シンに言ってやったんだ。私が。
 シンの夢を支えてやったヤツをないがしろにすんな、って。

 そしたら翌日。

 あの阿呆は校門前のマスコミにむかって。

「これから彼女とリハビリ行ってきまーす!」

 なんて、小石川の肩を掴んであっけらかんと言い放ったもんだから。
 その日だけは、志波のまわりからも人が消えた。

 いや、あれには大笑いした。

「志波やんも志波やんやで。彼女ほっぽって逃げ回っとる場合とちゃうやろ。なぁ?」
「ボクもそう思う。志波クンとちゃんはぴったんこしてへんと」

 クリスとはるひは息を合わせて、なー? と頷きあってるけど。

「……私と志波、付き合ってるわけじゃないよ」

 何度も言った言葉だけど、今は口にするだけで痛みが走る。

 そうなんだ。
 シンと小石川の二人と違うのは、そこだ。

「何言うてんの。志波やんももお互い好き合っとるくせに」
「お互い好きだったら付き合ってることになんの?」
「普通そうやろ?」
「私普通じゃないし」

 志波が、私を好いてくれてる気持ちは疑わない。
 志波は、嘘なんかつかない。

 だけど付き合ってない。

 私の左腕は、まだ動かない。

ちゃん、あんまり難しいこと考えんで、志波クンが好きって気持ちだけ大事にすればええんちゃう?」
「気持ちだけでどうにかなるなら、とっくにどうにかしてる」
「アンタも負けず嫌いっちゅーか、頑固っちゅーか……」

 呆れた顔して私を見るはるひも頬杖をつく。

「でもまぁ、がこういう子やってわかっとったし。アタシはどっちかっていうと、志波やんに突っ込み入れたいわ」
「そやね〜。志波クンが大変なんもわかるけど、ちゃんに寂しい思いさせとったらアカンよね?」
「そやそや。もっと男らしくがつんと追っかけに物申してやればええねん!」

「志波は悪くないっ」

 ガタンと、私は立ち上がった。
 大きな音に、はるひとクリスは目を丸くして私を見上げるけど。

 志波が悪いはずがない。
 だって、ただ夢に向かってがんばっただけなのに。

 私がそれに追いつけないだけだ。
 それなのに志波が悪く言われるのは、我慢できない。

「あ、あんな? 別に志波やんの悪口言っとるわけとちゃうで?」
「ボクたち、ちゃんが最近一人でおるから、ちょっと心配になって……」

 志波だけじゃなくて、はるひやクリスにも迷惑かけて。

 私は何も言わずその場を離れた。

 やっぱり。
 私は足かせでしかない気がする。

 教室に戻れば、掃除も終わってクラスメイトは誰もいなかった。
 6時間目をサボるつもりで、HRも全部寝過ごしたんだな。
 自分の鞄を掴んで、私はグラウンドに向かう。

 甲子園が終わったら、私のリハビリを手伝ってくれるって志波は言ってた。
 だけど実際は追っかけやらマスコミやらでそれどころじゃない。

 それどころじゃないのに。


「……ごめん、遅れた」

 グラウンドでは野球部の練習が始まってた。
 フェンスの外にはマスコミ。内側には追っかけファン。

 国体までの臨時主将に就任した志波は、1年の投球練習を傍らで見ていた。

「着替えてくる」

 くるりと背を向けて部室に向かおうとすれば、腕を掴まれる。

「なに」
「こっち使え」

 右手首を掴まれて、手のひらに何か渡される。
 渡されたのは、拳大のクッションボール。
 私が左手のリハビリに使ってるのと、ほとんど同じものみたいだけど。

「……お前の手なら、この大きさのほうがいい。……と思う」
「なにこれ。どうしたの」
「昨日駅前のスポーツ用品店で見つけた」

 ……志波は、自分が注目浴びて大変な思いしてて、私のことなんか構ってる場合じゃないのに。
 それどころじゃないのに、いつもこうやって。

「……ありがとう」

 それだけようやく伝えて、私は足早に部室に向かった。

 更衣室に駆け込んで扉を閉めて、その扉にもたれかかる。

 なんで今さらこんな気持ちになるんだろう。
 私と志波の関係は今までとなにも変わらないのに。
 変わらずに、ただの、

 ただ、の。

「っ」

 ツキンと走る痛みに、気持ちがざわつく。

 きっと、志波はもっともっと先へ行く。
 このままそれを追いかけられなかったら、どうなるんだろう。
 志波は、いつまで待っててくれるんだろう。

 まわりにあんなに人がいるんだから、私じゃない誰かに視線を移すのも、時間の問題なんじゃないか、って。

「っは」

 バカみたいだ。

 そうなったって仕方ないって、わかってたはずなのに。

 私は志波に貰ったクッションボールを鞄に突っ込んで、乱暴にその鞄を置いた。

 さっさと着替えて練習に参加しないと。
 小石川がシンのリハビリについてるから、やらなきゃいけないことはたくさんある。
 今は国体に集中して、1,2年の強化練習こなさなきゃいけないんだ。

 ジャージに着替えてもろもろの書類を持って。

 深呼吸して、私は部室を後にした。

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