兵庫県西宮。甲子園球場。
 ついに来たんだ。


 49.甲子園前日


 涼しい夜風が吹くホテルの屋上で、私は町並みを見下ろしていた。

 去年、修学旅行の夜に見た夜景とよく似た風景。
 私はてすりに頬杖をつきながら、ぼんやりと先日のことを思い返していた。



 やってきたのは商店街。
 ひょこっと顔をのぞかせて見れば、大好きな顔があった。
 そーっとそーっと近づいて。

 後ろからがばっと!

「元春にいちゃんっ!」
「うおっ!? な、なんだか? こらお前っ、仕事中に不意打ちするなっ」

 バラの仕分けをしてた元春にいちゃんの背中にぴったりと抱きつくことに成功っ。
 でも仕事の邪魔をするわけにいかないから、すぐに離れた。

 元春にいちゃんはくるっとこっちを振り向いて、片手で私の頭をわしゃわしゃと撫でてくれる。

「いいのか? お前。オレに抱きついてるとこ勝己に見られでもしたら、修羅場なんじゃねーの?」
「いまさらじゃん。そんなことで目くじら立てないよ、志波だって」
「いやー……オレは想像するとちょっと怖ぇな……」

 ははっとひきつった笑顔を浮かべる元春にいちゃん。
 
「どうした? こんなとこまで来て、なんか用でもあったか?」
「うん。元春にいちゃんにしかお願いできないなって思って」

 元春にいちゃんのエプロンを掴んで見上げる。
 すると元春にいちゃんは首を傾げつつも。

「なんだか込み入った話みたいだな? わかったわかった。もうすぐ休憩入るから、この先の喫茶店で待ってろ。ALCURDってとこだから」
「ん。ありがと、元春にいちゃん」

 私が突然押しかけたのに、元春にいちゃんは何も聞かずに頷いてくれた。

 ……多分これは、志波にもシンにも頼めないことだから。
 私は元春にいちゃんに言われた喫茶店に先に向かうことにした。



 ALCURDはコーヒーが売りの喫茶店みたい。その点は珊瑚礁と似てるけど。
 頼んだ水出しコーヒーは、2年前に佐伯が淹れたヤツのほうがおいしかった……ような気がした。

 グラスの半分以下くらいにコーヒーが減った頃、エプロンを脱いだ元春にいちゃんがやってきた。

「っか〜暑ィな! アンネリーは花の適温保ってるから気になんなかったけど、ここまでくるだけで汗出て気持ち悪いのなんの」
「元春にいちゃん、冷たいの飲む?」
「そうだな。すんません、アイスコーヒーブラックで!」

 私の対面に腰掛けながら、元春にいちゃんはメニューも見ずに注文する。

「で、どした? オレに頼みって」
「うん。かっちゃんのことなんだけど」

 私が口に出した瞬間。

 ブーッ!!!

「っだぁ、元春にいちゃん汚いっ!!」
「っげほげほげほっっ! いや、わり、げほっ……悪い

 元春にいちゃんが一気飲みしてたお冷を盛大に噴出した。

 慌てて二人でテーブル拭いて。
 元春にいちゃんは自分の口元を拭ってから、目をまん丸に見開いて私を見た。

「かっちゃん、かっちゃんな。どした? かっちゃんがどうかしたか?」
「元春にいちゃん、挙動不審……」
「いやいやいや! そんなことはないぞ。あーと、はまだかっちゃんに会えてない……んだよな?」
「うん」
「そーかそーか。はは。で、どうしたって?」

 綺麗になったテーブルをなおも拭きながら、元春にいちゃんが貼り付けたような笑顔を浮かべてる。
 なんなんだか。

 私はそんな元春にいちゃんに首を傾げながらも、鞄から一通の手紙を取り出した。

「元春にいちゃんはかっちゃんと今も親交があるんだよね?」
「あーまぁな。一応は」
「だったらこれ、かっちゃんに渡して欲しいんだけど」
「……手紙?」

 飾りっ気のない白い封筒。
 元春にいちゃんはそれを手にして裏表とひっくり返しながら見て。
 もう一度私を見た。

「何が書いてあるか聞いてもいいか?」
「……約束果たしに行ってきますって書いた」
「約束?」
「一緒に甲子園行こうねって約束。かっちゃんが約束守れなかったのは何か事情があるんだってわかってるから気にしないでって。シンも怒ってないから安心してって書いた」
「そうか。は優しいな」
「……そう?」

 元春にいちゃんの言葉に眉を顰める。
 優しいなんて前に言われたの、記憶を掘り起こさないといけないくらい昔だと思う。

 元春にいちゃんこそ優しい眼差しをして私を見てるものだから、なんだかくすぐったくて落ち着かない。

「でも、かっちゃんへの手紙なら、勝己に渡して貰ってもよかったんじゃないのか?」
「それがさぁ。志波ってなんか知らないけどかっちゃんのこと口にすると怒るんだもん。つかオレの前で他の男の名前出すなとかって、わけわかんない」
「……あー……オレに言わせりゃどっちもどっちだな、そりゃ……」

 ようやくやってきたアイスコーヒーを一口飲んで、元春にいちゃんは頬杖をついて苦笑した。

「これ、オレがかつ……じゃなくてかっちゃんに渡すんだよな?」
「うん。お願い、元春にいちゃん」
「……あーオレ、かっちゃんにも勝己にも反感買いそうな気が……」
「なんで?」
「いや、こっちのこと。それより、甲子園がんばれよ? 初日からは無理かもしんねーけど、ちゃんと応援に行くからな!」
「うん。シンと志波にも伝えとく」

 元春にいちゃんはしっかりと手紙を受け取ってくれて。
 笑顔でエールを送ってくれたから、私も笑顔でそれに答えた。



 ……そんなことがあってから数日、甲子園は開幕して、明日はいよいよはね学の初戦だ。
 対戦相手のデータは大したことないらしいけど、それでも地区大会を勝ち抜いてきただけの実力はあるんだから気は抜けない。
 朝一の試合だから、みんなもう休んでるはず。
 でも街の明かりを見ればわかるとおり、いつもならまだまだ寝るには早い時間だったから。

 夜風に吹かれながら気持ちを落ち着ける。
 かっちゃんと、夢にまでみた甲子園。
 正直ここまで気持ちが高ぶるとは思ってもいなかった。

 寝れなかったらどうしよう。

 かっちゃん、手紙読んでくれたかな。

 そこへ。

「ここにいたのか」
「……志波?」

 聞きなれた声に振り返れば、上下トレーニングウェア姿の志波がいた。
 腕組みしてホテル内に繋がるドアにもたれかかってる。
 表情はいつもの無表情。

「……眠れないのか」
「志波こそ。どうしたの、こんなとこまで来て」
「気分転換。オレも寝れなかった」

 志波はゆっくりと歩み寄ってきて、私の隣に立った。
 そのままてすりに手をついて、眼下の夜景を見下ろす。

「なんか前にも見たような気がする」
「私も思った。修学旅行の時のと同じだなって」
「……ああ。あれか」

 志波が小さく笑った。

「枕投げの後な」
「そうそう。教頭が怒鳴り込んできて」
「針谷たちが2時間正座してるときに見た風景だな」
「うん。巻き添えくらいたくないから窓の外で黙ってて」
「……だな」

 見上げれば、志波もタイミングよく私を見下ろした。
 優しい目。

「……それから」
「は?」
「こうして」

 ぐい、って。
 志波が、私の肩を抱き寄せた。
 驚いて志波を見れば、こっちはこっちで微妙に照れた様子だったりして。

「カッコ悪っ」
「悪かったな」
「でもあったかい」

 私はいつものように志波に抱きついた。
 真夏の夜。熱帯夜。だけど、不快な感じは全くなくて。

 志波はぽふぽふと私の頭を撫でる。

「……
「なに」

 ぴったりと志波にくっついたまま見上げると、志波は少し悲しそうな目をしてた。

「どうかした?」
「……本当のことが言えなくて悪かった」

 ……は?

 志波の言葉の意味がわからなくて、ぱちぱちと目を瞬かせながらもう一度志波を見上げる。
 すると志波は、辛そうな目をしたまま、さらに。

「どうしても言い出せなかった。約束のことを忘れたことなんてなかった。でもオレは……もう野球を続ける資格を失くしたと思っていたから」

 一体、なんのこと。

 私は志波の腕を掴んだままではあったものの、体を離して独白を続ける志波を見た。
 志波はさらに続ける。

「お前に名乗り出ることも出来なかった。……お前が抱えた苦しみにも気づこうとしないで」
「……」
「手紙、嬉しかった」

 !!

 志波の腕を掴んでる手に力が入る。
 だって、それ、それって。

 志波は、困ったようにふっと微笑んだ。

「オレの分も甲子園がんばってくれ」
「は? オレの分『も』?」
「……かっちゃんからの伝言だ」
「…………………」

 な ん だ 。

 期待して損した。

「つか、まぎらわしい言い方するなっ!」
「悪い」
「大体なんで志波がかっちゃんの伝言持ってくんの」
「……真咲に託したところで間に合わないだろ」
「そうだけど」

 なんかムカツク。
 志波から手を離しててすりに頬杖をつく。

 でも、そっか。
 かっちゃん、手紙喜んでくれたんだ。

 それを思うと口元が緩む。
 よかった。
 かっちゃんの分も、甲子園がんばらないと。

「……嬉しそうだな」
「うん。当たり前じゃん」
「そうか。よかったな」

 対する志波はなんだか不機嫌そうだ。
 またか、コイツは。

「志波」
「なんだ」
「優勝してね」
「……試合前日にマネージャーがプレッシャーかけるか、フツー」
「優勝以外ありえないっ。3年は今年しかチャンスがないっ」
「あのな」

 ぼすっ

 志波が大きな手の平を乱暴に私の頭に乗せた。
 だけど、その顔は不機嫌モードから一転してまた柔らかいものに変わってて。

「絶対勝つ」
「うん」
「先に行くから……ついて来い」
「……ん」

 私は腕を伸ばして、もう一度志波に抱きついた。



 ついに始まる。
 夢の甲子園。
 みんなの夢を叶えるために、がんばるんだ。



「出来ました主将! 各校の女子マネ一覧表っ!!」
「でかした1年! よーしお前らコピれ!」
「うおっ、秋田代表の女子マネ可愛くねぇ!? さすが秋田美人ってだけあるよな!」
「ずっりー! 大阪代表、野球名門私立だからって3人もいんのかよ!」
「あのー、志波先輩の分どうしますか?」
「いや、いらねぇだろ? がいることだし。つか、あのストイックにこんなコピーばれたら野球に集中しろとか怒り出すに決まってるって」
「ですよね?」
「鹿児島代表要チェックだ!」
「静岡代表も捨てがたいっ!!」

「(様子なんか見にくるんじゃなかった……)」
「おーどうした小石川ー?」

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