「うりゃっ!」

 右手でボールを放り投げて、素早くバットを構えて高々とボールを打ち上げる。
 私が打ち上げたボールを追って、1年野球部員が大きくバックして落下地点に走りこみ、頭上にグローブを構え、

「っ、眩しいっ」

 真夏の夕陽が目に入ったのか、キャッチし損ねて落球。
 ……ふっふっふ。

「よーっしリセット! もっかい最初っから100球キャッチ!」
「だーっ!! 先輩、もう勘弁してくださいよー!」
「練習の締めって始めて、もう1時間以上たってるじゃないすか!」
「うるさいっ、きっちり取らない方が悪いっ!」

「勝己、お前止めてこい。1年が完璧オモチャにされてんぞ」
「フライの100球キャッチくらいこなせなくてどうする」
「これ以上遅くなったら晩飯食えなくなるっつーの。飯当番だろ」
「今すぐ止めてくる」


 48.野球部直前合宿


 来週頭からいよいよ甲子園が始まる。
 そんなわけで、はね学野球部は直前最終合宿を行っていた。
 といっても目一杯練習するわけじゃなくて、基礎練や軽い走りこみといった調整メニューがほとんどなんだけど。

 ベンチ入りメンバー以外の控え選手だって、気合は十分。
 甲子園を目前に控えて、部員のテンションはかなり上がってた。

 そんな野球部の世話を焼かなきゃいけない私と小石川は朝から晩まで洗濯だ飯当番だ1年指導だと、散々働かされていた。

 甲子園って大目標がなければ暴れてるところだ。

「はぁ疲れた……」
「お疲れ様、さん」

 夕飯を食べて全体ミーティングを終えて、ようやく解放されて。
 合宿所に併設されてるお風呂で汗を流してから割り当てられた部屋に戻ってくれば、小石川が私の分の布団も敷いてくれていた。
 といってもまだ時刻は夜の9時。
 寝るにはさすがに早すぎる。

 小石川は自分の布団の上に体育座りして、その膝の上の書類とにらめっこしてる。

「何してんの?」
「大会当日のお天気情報。それと、みんなの現在の体調チェック」
「ふーん……」

 そういう細かいことはマネージャー歴の長い小石川に一任されてた。
 私は小石川から指示を受けて、データにそった調整メニューを実行するほう。

 タオルをラックにかけて、私は窓辺によった。
 今日も綺麗に晴れた夜空で、星が瞬いてる。
 そよ風よりも弱い風が少しだけ吹いてる、気持ち良さそうな夏の夜。散歩でもしてこようかな。

「……ねぇ、さん」
「なに」

 呼ばれて振り向けば、小石川は書類を膝に乗せたまま私を不安そうに見上げていた。

「なんかマズイデータでもあった?」
「ううん。みんなもちゃんと来週に向けて調整してきてるからその点は問題ないよ。そうじゃなくて、ね」

 書類を脇に置いて、膝を崩す小石川。
 その表情はやっぱり暗い。
 私は小石川の目の前に腰を下ろした。

「なに」
さんは、不安じゃない?」
「なにが?」
「……志波くんのこと」
「は?」

 困ったような表情を浮かべて、小石川は探るように首を傾げた。

 不安? 志波のことで?
 小石川の言いたいことが全然わからなくて、私は小石川と同じ方向に首を傾げた。

「私ね、今年のはね学はきっと優勝できると思ってる。みんなの練習風景見てたら、なんの杞憂もなくそう思えるの」
「うん。私もそう思う」

 他校のデータも見たことあるし、ウチよりよっぽど成績のいいチームもあるけど。
 モチベーションっていうか、今のはね学野球部には勢いがある。

 でも、それなのになんで不安?

 小石川は、視線をそらして、指先でシーツをいじくる。

「……毎年ね、高校野球のヒーローって誕生するじゃない」
「あーうん。ドラフトの目玉ってヤツ?」
「それもあるけど、人気が全国区になっちゃうカッコいい子とか」

 ……なんだ?
 野球の話じゃないの?

「野球部が甲子園決めて、ローカルテレビの取材とか、たくさん受けたでしょ? はばたき市で今、シンくんと志波くんの人気がすごいことになってるの、知ってる?」
「知らない」
「……知らないの??」
「全然」

 向かいの商店街のおっちゃんおばちゃんが盛り上がってるのは知ってるけど。
 そういう情報は今初めて知った。

 小石川はきょとんとして私を見つめてたけど、やがてぽんっと手を打って。

「そっか。さんはベンチメンバーじゃなくて1年生の練習に付き添ってること多かったもんね。あのね、甲子園決まってから、シンくんと志波くんのまわり、すっごく女の子増えたんだよ」
「へぇ」
「はね学の子だけじゃなくて、はば学やきら校の子もいたし……なんか、ファンレターみたいの貰ってるトコも見たし……」

 ごにょごにょ。
 小石川の語尾が小さくなっていって、変わりに顔が赤くなっていく。

 えーと。
 もしかして私、今恋愛相談されてる?

 なんと言ったらいいものかわからなくて、私は無言で小石川を見てた。

「シンくんて、女の子に優しいでしょ」
「あー、うん」
「愛想もいいし、見た目もカッコいいし」
「そう?」
「甲子園が終わったら……私、シンくんの側にいられるのかな」

 きゅ、とシーツを握り締める小石川。

「もしはね学が優勝したら、絶対にシンくんのまわりすごいことになるよね。きっと、たくさんの女の子に囲まれて、私なんか側にいられなくなるんじゃないかって……」

 ……ゴメン、小石川。
 否定してあげたいけど、否定できない。
 アイツの尻軽に関しては、フォロー出来るような情報持ってない。

「あー」

 かける言葉がなくて、私も視線を泳がせる。
 まいった。こんな相談私にされても、返しようがない。
 若先生と水樹の件は恋愛相談っていうより、むしろ人生相談に近かったし……。

 今すぐはるひか水島をメールで呼び出したい気分だ。

 すると小石川は顔をあげて。

「ねぇ、志波くんだってきっとそうだよ? さんは、全然不安じゃないの?」
「は?」
「志波くんもファンレター貰ったりしてるよ? シンくんみたいに慣れてるわけじゃないみたいだから、困った顔してたけど」
「へー……志波が」

 あの朴念仁が。
 女子からファンレター?
 ……その場面想像するとすっごい笑える。

 くつくつと肩を揺らしていたら、小石川の呆れたようなため息。

「そりゃ志波くんはシンくんと違って硬派だし、浮気の心配なんてないかもしれないけど……」
「……ちょっと待った。別に私、志波と付き合ってるわけじゃないし」
「でもさん、志波くんが好きなんでしょ? 付き合ってないなんて言ってて、志波くんが他の子と付き合い出したらどうするの?」
「それは」

 今までそうならなかったのが、自分でも不思議に思ってる。
 まぁ大抵のヤツは志波のコワモテ無愛想に一歩引くんだろうけど。
 水樹みたいに人懐っこいタイプが志波の近くにもっといたら、そうなったって不思議じゃなかった。

 でも、そうなったところで私に何が言える?

 私は志波が好きだけど、志波はそうじゃない。元春にいちゃんから保護者権が委譲されただけだ。
 志波が、他の誰かとつきあいだしたら。
 ……そうなったら。

 いやだけど。苦しいけど。
 今のままの私には何も言えない。
 対等な立場になるまで、何も言えないよ。

さん、志波くんとつきあっちゃえば?」
「無理」

 仮に志波が私とつきあってくれるとして。
 卑屈になる。劣等感でいっぱいになって、まともな付き合いが出来なくなる。

 そんなのは嫌だ。

 だから、私が自分自身に納得できるまでは、無理だ。
 例え、その間に志波の隣に誰か他の人が並ぶようになったとしても。

 それは、仕方ない、こと、だと。

「ちょっと、散歩してくる」
「え、今から? もう外出禁止時間だよ!」
「先生来たら、脱走したって言っといて」

 小石川の引止めにも耳をかさず、私は立ち上がり部屋を出た。

 暗い廊下。
 奥の男子大部屋からは賑やかな声と明かりが漏れてる。
 私はそれに背をむけて、合宿所の裏口からグラウンドへと出た。

 満天の星空。
 昼間は太陽がさんさんと降り注いで部員が汗を流したグラウンドも、今は月の光が満ちて静寂が包んでいた。

 静かで気持ちが落ち着く。
 私は、ゆっくりとグラウンド中央に向かって歩き出した。

 今は甲子園のことに集中しなきゃいけないってわかってる。
 小石川だってわかってるはずだ。私よりもずっと長く、1年のときから野球部のマネージャーやってきてるんだから。
 それでも心の中を占めてるのは、自分の中の本当の1番の存在なんだろう。

 志波が好きだ。

 不完全な私が今志波に対して出来ることといえば、志波の夢を叶える手伝いをすることくらい。
 だから、マネージャー業に集中しなきゃいけないんだ。

 その先、志波がどこへ行くんだとしても。
 私が、どこへも行けなくても。

 ……あー、余計なこと思い出した。
 夏休みが終われば、いい加減進路決めないといけない時期なんだ。
 シンは甲子園で優勝してドラフト1位もぎとるんだって息巻いてるけど。
 私はどうしよう。腕が動けば道はひとつだけど、動くまでの間は、何をしてればいいんだろう。

 フリーター? 家事手伝い?
 のしんみたいに夢追いのためってわけでもないのに?
 カッコ悪ッ!!

 がっくりと肩を落としてため息をついたときだ。
 ざくざくとグラウンドの砂を踏みしめる音が聞こえて振り向けば。

「志波」
「どうした」

 志波が、ゆっくりとこっちにやってくるところだった。
 練習着から体操着に着替えた格好。
 私の目の前まで来て、私を見下ろす。

「なにしてんの。外出禁止時間だよ」
「お前が言えた台詞か。……小石川に、お前が出て行ったって聞いて」

 小石川が?
 わざわざ志波に伝えにいったんだろうか。

 私はくるりと志波に背を向けて、そのままグラウンドの端に向けて歩き出す。
 志波も、私の後ろをついてきた。

「何かあったのか」
「なにもない」
「……そうか」

 グラウンドの周りはちょっとした林に囲まれている。
 少しだけ高くなってる土手を乗り越えて、私はその林の中に足を踏み入れた。

「おいっ」
「志波も来る?」

 慌てた様子で声をかけてくる志波を振り向いて訪ねる。
 志波は怪訝そうな顔をして、私を見ていた。

「ほんの少し入ったとこに開けてるとこがあって。木に囲まれてるからグラウンドより涼しいよ。休憩時間に見つけた」
「お前……不用意にこんなとこ入るな……」

 はぁ、とため息をつきながらも、志波は安心したようで私のあとを追ってきた。

 ほんのちょっとだけ、好き放題伸びた草木を分け入ってたどりついたそこは。

 真上から月の光が差す、まるで円形のステージのような場所。
 昼間見た時は秘密の隠れ家みたいって思ったけど、夜になると表情が変わる。

 私は短い草が生えている中央部分に寝そべった。

「そんなとこで寝るな」
「気持ちいいんだもん」

 木々の葉に覆われた、丸い空に浮かぶ丸い月。

 志波は眉を顰めて、私の傍らに腰を降ろした。

 会話はなく、ただ静かに時間だけが流れる。

 なんか、眠くなってきた。

「寝るな」
「う。蒸してなくて気持ちいいんだもん」
「蚊に喰われまくるぞ」
「それはヤダ……」

 しかめっ面して志波を見れば、志波は相好を崩してクッと笑う。

 あ。

 そっか、この顔。
 出会った頃とは違う、柔らかい志波の笑顔。
 こういう顔見せてたら、女子も寄ってくるか。

「……なんだ?」
「ファンレター貰ってるんだって?」

 じっと志波の顔を見つめて、小石川情報を確かめてみる。
 すると志波は、いつもの仏頂面に早変わり。

「……」
「なんて書いてあんの? 好きです、とか、応援してます、とか? あ、いつも佐伯が言われてるようなこと?」
「言われても反応に困ることだ」
「大抵の会話の反応困ってるくせに」

 揶揄するように言えば、志波は眉間に皺を寄せた。

 でもすぐに、なにかに気づいたかのように目を瞬かせた。


「なに」
「内容が気になるのか?」
「……ちょっとだけ」

 シン宛てのファンレターなら、中身は大体予想つくけど。
 志波のは想像つかない。どんなんなのか、ちょっとだけ興味ある。

「……そうか」

 ところが志波は、私の返答になにやら満足した様子で表情を明るくした。
 なんだ?

 そして志波も私の隣に寝そべった。
 黙って月と星を見上げて、口元には小さな笑み。

「どーしたの……」
「別に」
「ふーん?」

 志波の横顔を見てたら、ふわんと何かが漂った。

 あ、合宿所の石鹸の香り。

「風呂入ったあとなんでしょ。汚れるよ」
「お前もそうだろ」
「そうだけど。うわ、石鹸の匂いがする志波ってなんか変」
「悪かったな。いつもは汗臭くて」
「別に……志波の匂い、私好きだし」

 ぐっ

 何かにむせこんで、志波が反対方向に頭を向ける。

「どうかした、志波」
「お前な……」

 呆れた口調で、もう一度こっちに顔を向ける志波の顔は、ほんのり赤かった。
 その目が、軽く見開かれる。


「なに」
「……香水でもつけてるのか?」
「は? つけてないよそんなの。……あ、でも」

 ごろんと体を志波の方に向ける。

「小石川が使ってるシャンプーすっごいいい匂いしたから。それうつったのかも」

 合宿所のシャンプーが髪に合わないらしくて、毎年愛用のものを持参してるって、小石川が言ってた。
 ほんの少し甘い香りのするシャンプー。女子用の風呂場にふわんと漂ってたし。

 と。

「うまそうな匂いだな」

「は?」

 ごろんと、志波も私の方に体を向けて。
 腕を伸ばしてきて、私の背中にまわして、そのまま。
 志波は、私の頭頂部に顔をうずめるようにして、私を抱きしめた。

「☆×а▲*$д>@&○■;бっっ!!??」

 ちょっと待てちょっと待てこの隠れエロ天然っ!!
 何さらりと大胆行動してんだコイツはっ!?
 普段はこっちが抱きつこうとしても、すぐ逃げ出すくせにっ!!

 あ、あまりにナチュラルな志波の動きに、反応が遅れたっ……。

 志波からする匂いも、いつもの匂いじゃなくて、戸惑う。
 なんだこれ。なんなんだこれっ。

「ちょ、志波っ」
「いいから。おとなしくしてろ」

 この場面でその台詞は犯罪者くさいぞ志波……!!!

 だけど。

 志波に触れられてるところが熱くて、それがすごく心地よくて。
 しばらくすれば、焦りもおさまってきた。
 いつもと違う志波の匂いに戸惑いはあるものの、私もいつものように志波にしがみついた。



 志波の手が私の髪を撫でる。

「待ってるからな」
「!」
「オレはどこにも行かねぇ。先に進んでも、ずっとお前を待ってる」

 まるで、心を見透かされたような。

 ……じゃなくて。

「し」

 頭を押さえ込まれてて、志波の顔を見ることが出来なかったけど。
 今の志波の言葉に、私の中で、小さな期待が生まれる。

「しば」

 震えそうになりそうな声を搾り出して。

「なんだ」
「志波、今、好きな人、いるんだ」
「……ああ」

 志波の服をぎゅうっと掴む。

「それって、それ、もしかして」
「……気まぐれで、いつもふらっといなくなっては戻ってきてる、猫みてぇなヤツ」

 っ。

 泣きたくなる。

「いつから」
「さぁな。もう覚えてねぇ」

 全然、気づかなかった。

 私は志波の腕から強引に逃れて、体を起こす。
 志波もいつもの無表情で上体を起こして、黙って私を見た。

「志波」

 自分でもきっと、情けない顔してるってわかる。
 それでも私は志波の目を真正面から見つめた。

「リハビリ、がんばる。ちゃんと動かして、志波と対等になれるようにがんばるから」
「……ああ。無理は、するな」
「うん」
「とりあえず今は、甲子園に集中しとけ。それが終わったら……オレも手伝うから。お前のリハビリ」
「うん」

 耐え切れずに一筋流れた涙を、志波がそっとぬぐってくれた。
 私はもう一度志波に抱きついて、その肩口に顔をうずめた。

 志波は、私の背中を優しく撫でてくれた。

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