「お帰りさん……あれ、どうしたの? 目が赤いけど」
「ん、なんでもない」
「……もしかして、志波くんと何かあった?」
心配そうに眉根を寄せる小石川に、私は小さく微笑んだ。
番外編の番外編3.猫と野球部
私、余計なことしたのかな、と不安そうに尋ねてくる小石川に、そうじゃないって伝えて。
……まぁ少しだけ、事情を説明した。
途端に頬を紅潮させていく小石川。
「やっと!? わぁ、やっと両想いなんだって気づいてくれたの、さんっ!」
「気づいてって……は? 小石川、志波の気持ち知ってたの?」
「知らなかったのって、絶対さんだけだってば!」
ぐりぐりと拳で私の肩を押す小石川。
あれ、そうだったんだ?
なんだ私、水樹や若先生のこと言えた立場じゃなかったのか。
うわ、あの天然ボケボケ教師と同列か、私っ。
対して小石川はなぜか嬉しそうに枕をばふばふ叩きながら抱きしめて、にっこにこの笑顔を浮かべてる。
「きっと志波くん、甲子園で大活躍するよ! モヤモヤ感ゼロだもんね、これで!」
「あ、そう……」
他人事に妙にテンション高くなってる小石川を見ながら、私は体操着を脱いだ。
下に着てる長袖のアンダーウェアを脱いで、もう一度半そでの体操着を着なおす。
小石川には、もう何度か怪我のあとを見られてるけど、それでも見てて気持ちいいものじゃないから、寝るとき以外は極力隠してた。
でもさすがに真夏に長袖をずっと着てるのは暑い。
私は怪我した部分にだけ、手早くサラシを巻きつけた。
「手伝おうか?」
「平気。あ、でもここだけ結んで欲しい」
「うん」
小石川は器用にサラシを結ぶ。
すると、「あれ?」と呟いて私の左手首を取った。
「さんこれ、どうしたの? 前からずっとつけてたっけ?」
「は? この革バングルのこと? ずっとつけてたけど」
「なあんだ! もう、ラブラブなんだから〜」
小石川はまたまた嬉しそうに笑い出す。
なんだそれ、ラブラブって。
「志波くんに貰ったんでしょ?」
「違う。去年のクリスマスに……サンタに、貰った」
「だからそのサンタさんが志波くんでしょ? 私、これ買うとき一緒にいたもの。クリパのプレゼント交換に出すのかと思ってた」
「……は?」
思いがけない言葉に、目が点になる。
そんな私の様子に、小石川も首を傾げる。
「去年のクリスマス前に私、デキシーで志波くんと会ったの。何探してるの? って声かけたら、クリスマスっぽいものってそれだけ言ってたからてっきり」
「……」
「アクセのとこで悩んでたみたいだったから、それ、勧めてみたの。クリスマスっぽくないけど、トルコ石は12月の誕生石だしって」
誕生石。
革のバングルの中央に埋め込まれたターコイズ。
「考えてみればさん、シンくんと双子なんだもん、同じ誕生日だよね。そっか、だからトルコ石がついたそれに決めたんだね」
「志波が……」
知らなかった。
これ、志波がくれたんだ。
あの頃は、お互いいろんなことが重なってギクシャクしてた時期だったのに。
それなのに、これを選んで、届けてくれてたんだ……。
私は、ぎゅ、とバングルを右手で掴む。
「小石川、教えてくれてありがとう」
「さん、本当に知らなかったの? もう、誰からのプレゼントかも知らないで身につけてたなんて、さんらしい」
くすくすと笑う小石川につられて、私も噴出した。
そのときだ。
視界の端に、なにやらうごめく黒いものが飛び込んできたのは。
って!!!
「こ、こいしかわ」
「? どうしたのさん……」
「虫、平気?」
「え、虫? ううん、昆虫全般苦手なの、私。どうして?」
「だったら、後ろ振り向くなっ」
「後ろ?」
言った先からくるりと振り向く小石川。
その、私の小石川の視界に飛び込んできたのは。
窓の下で、ぴょこぴょこと触覚を動かしながら、素早い動きでこっちにむかってくる、人類の敵、ゴキブリが!!!
「「ひ」」
私と小石川は同時に立ち上がり。
「「きゃあああああっっっ!!!」」
同時に絶叫を上げて、部屋を飛び出した!
無我夢中で廊下を走り抜けて、男子の部屋の方へ。
私たちの悲鳴に気づいたのか、かちゃりとタイミングよくドアが開いて、1年が2人、顔を覗かせる。
向かいの部屋からは、監督と、副顧問のちょい悪も出てきた。
「へ、ユリ先輩に先輩、どうしたん」
「いいからどけっ!!」
「は、はいっ!?」
必死の形相の私に怒鳴られて、ビビッたように道をあける1年部員。
私と小石川はそのまま男子の大部屋に飛び込んだ。
修学旅行のように大部屋にぴっちり布団が敷き詰められた男子の部屋では、部員が思い思いに騒いでたらしいけど。
私と小石川が突然飛び込んできたことにみんな一様にぎょっとして、その場に固まった。
部屋の奥に3年の集団。
シンと志波もそこにいた。
「志波っ!」
「シンくん!」
「「は?」」
私は志波の、小石川はシンの腕をとって強引に立たせて、そのまま部屋の外まで引っ張っていく。
「な、なんだぁ? ユリ、一体どうした?」
「ゴキブリ出たのっ!! シンくん、退治してっ!」
「ゴキブリ……それでお前もか」
「窓際にいた! 追い出せ志波っ!」
何がなんだか、という様子のシンと志波を部屋の外に追い出して、私と小石川はドアをしめる。
はぁぁぁ……。
そしてそのまま、部屋の入り口で背中合わせに崩れ落ちた。
「んだぁ? 小石川はともかく、クールビューティまでゴキブリ嫌いなのか?」
「うるさいっ!」
「へぇぇ、なんか意外っすね。先輩ならスリッパで踏んづけるくらいするのかと思ってました」
そんな気持ち悪いこと誰がするかっ!!
腰が抜けた私とユリのまわりにぞろぞろと集まってくる野球部員。
そこへ、がちゃりとドアを開けてちょい悪と監督も入ってきた。
「そのゴキブリ、きっとオスだな。娘二人の部屋を狙って入ってったんだから」
「まぁ小石川とでよかったな? うちのエース二人が専属ナイトだからなぁ」
オーバー40チームががはがは笑いながら、親父な会話で盛り上がってるし。
ああもうどうでもいいよ。
さっさとゴキブリ退治してくれればっ。
そこへ。
「……先輩、腕どうしたんすか?」
私のすぐ横にしゃがみこんだ1年が、左腕に巻いたサラシに気づいた。
ヤバ、慌てて飛び出てきたから上着着るの忘れてた……。
1年の言葉に、遠巻きに見ていた部員も集まってくる。
「おいおいっ、どうしたんだよそれ?」
「なんか派手に包帯巻いてんじゃん! いつ怪我したんだ??」
「いやあのこれは」
うううめんどくさいことになってきた。
「先輩、そんな怪我した腕で練習付き合ってくれてたんすか?」
「主将は怪我のこと知ってんですよね? 主将、先輩にキビシイからなー」
シンの悪口はもっと言え。
「違うよ! さんが本当に怪我してたら、シンくんだってちゃんと止めるよ!」
案の定、小石川が反論するけど。
本当にってなんだ? ユリ先輩は知ってんすか? なんちゃって包帯なわけねぇだろ? などなどなど……。
私を除いたところで盛り上がり始める部員たち。
監督とちょい悪には事前に言ってあるから、教師二人は黙って成り行きを見てるけど。
「……昔怪我した痕を隠してるだけだから。別に、今怪我してるわけじゃないよ」
収拾つけるには言うしかないのかな、と思って。
私は座り込んだまま、取り囲むように集まってる部員たちに告げた。
「怪我の痕? そんな広い範囲?」
「火傷と手術のあとだからね」
「もしかして、そのせいで先輩って左手あんま使わないんですか?」
……は?
2年の部員が言った言葉に、私は目を瞬かせた。
ちょ、なんでバレてんの?
すると、他の部員たちもが口々に顔を見合わせながら。
「やっぱお前らも気づいてたんか。オレも変だなーって思ってた」
「そっすよね? 洗濯してるときとか荷物運びしてるときとか、右手ばっか使ってるからもしかして、なんて思ってたんすよ」
「、やっぱお前の腕って後遺症あるのか?」
唖然。
みんな気づいてたことに、私が気づいてなかった。
「まぁ野球はチームだからな。仲間のことはよく見てるもんだ」
ちょい悪が腕組みしながら私を見下ろす。
チーム、か……。
ずっと一人でいたから、そんなこと気にしたこともなかったけど。
私を見てる人が、まわりにこんなにいたんだって、改めて、いや初めて気づいた。
「昔、車の事故で。左手の握力、ほとんどないんだ」
するりと、口から言葉が出た。
私の言葉に、部員全員がどよめく。
まじで? とか。やっぱ腕不自由だったんだ、とか。
前はこんなふうに言われるの嫌で嫌で仕方なかったけど。
みんなが好奇心だけじゃなく、本心で私を心配してくれてるのがわかったから、なんだかくすぐったかった。
そこに、シンと志波が戻ってきた。
「おーいユリっ、っ。追い出」
「シンっ! お前な!」
「主将っ、身内ったって、もう少し先輩のこと考えてくださいよ!」
いつもどおりの志波と、うんざりした表情のシンが大部屋に入ってくるなり、今まで私と小石川を取り囲んでた部員が入り口に詰め寄る。
あっという間にシンを取り囲んでしまう部員たち。
シンは突然のことにぎょっとして。
「な、なんだぁ? どうしたお前ら」
「どうしたもこうしたも!」
そして部員全員でシンの吊るし上げが始まる。
いーぞ、もっとやれ!
「……なんなんだ?」
その輪の中から、志波が抜け出てくる。
私と小石川も入り口付近を離れて、奥の方に避難した。
「シンがいかに私を虐げてるかわかって、野球部全員が私の味方になった」
「……は?」
ガッツポーズを見せても、志波は怪訝そうな顔。
小石川は横でくすくす笑ってるし。
「それより志波くん、ゴキブリ追い出してくれてありがとう! 本当に助かっちゃった」
「いや……一応他もチェックしといた。多分、もういないと思う」
志波も私と小石川の対面にあぐらをかいて座る。膝の上に頬杖ついて、眠そうな顔してこっちを見てる。
「眠いの?」
「眠い」
ふと座り込んでる布団の脇を見れば、志波の荷物が置いてあった。
あ、ここ志波の割り当て布団なんだ。
「じゃあさん、私たちもそろそろ戻ろうか?」
「は!? やだよ、あんなとこ戻るの! ゴキブリ出たとこでなんか寝れるかっ!!」
志波の無言の寝かせろ催促をキャッチした小石川が立ち上がるけど。
冗談じゃないっ! 一度でもゴキブリでたところ、バルサンも焚かずに寝られるわけないっ!!
「だ、だけどあの部屋以外に眠れるところなんてないよ?」
「シンと志波があの部屋で寝ればいいじゃんっ。志波、部屋交換っ!」
「……は?」
志波の腕を掴んで揺すってみれば、がくんと顎を外した志波が大きく目を見開いた。
「何言ってんだお前……部屋交換って、ここで寝る気か?」
「うん」
「ちょ、ちょっとさんっ、男子の部屋で寝られるわけないじゃないっ」
「だって他に寝れるとこないじゃん」
「いや、ないけどそれはちょっと……」
小石川と志波が呆気にとられた様子で私を見てる。
私だって、ムサイ男臭漂う大部屋でなんか寝たくないけど、ゴキブリと添い寝することに比べれば数百倍ましだ。
絶対譲れないっ! 断固としてここで寝るっ!
「志波の布団これでしょ?」
「……ああ」
「取った!」
「あのな」
素早く掛け布団をめくり上げて潜りこむ。
が、それよりさらに素早く、志波に布団の端を掴まれて引っ張り合いになってしまった。
右手一本で太刀打ちできるわけもなく、あっさりひっぺがされてしまう布団。
負けるかっ。
私は猫が威嚇するような姿勢で、布団のど真ん中に丸くなる。
「お前な。常識考えろっ」
「ゴキブリと寝ることが常識と思えない」
「どっちの話してんだ。……大体、小石川までこの部屋で寝られるわけねぇだろ。お前みたいに無神経な性格じゃあるまいし」
むか。
事実を言われてカチンとくる。
小石川を睨みつけるように見上げれば、小石川は困ったように焦ったように視線を泳がせた。
「え、えーと、私は出来れば向こうの部屋で寝たいな〜。ほら、シンくんと志波くんがちゃんとチェックしてくれたっていうし」
「ゴキブリ1匹の影には50匹潜んでるからやだ!」
「そんなにいるか。いいからどけ」
「やだ」
「」
「やだっ」
フーッ! と毛を逆立てて威嚇してやる。
志波は心底あきれ果てた顔をして私を見下ろしてるけど。
「はいはいっ! 解決案提案っ!」
そこに割り込んできたのは、散々吊るし上げくらってたシンだ。
転げるように野球部の輪から飛び出してきて、手を挙げて主張してる。
私たちのところまでやってきたシンは、小石川の肩に手を置いて。
「がこの部屋で寝たって、勝己がいりゃ手ぇ出すバカもいねぇだろ? ってわけで、オレとユリが向こうの部屋で」
「ふざけんなーっ!! お前っ、彼女連れで合宿ってだけでも許されがたいのに、独り身男の集団をよそに甘酸っぱい夜を過ごそうなんざ、誰が許すかーっ!!」
「うおっ!?」
途端に炎上した野球部全員にのしかかられて、シンがつぶされる。
……ていうか、コイツ本物のバカだ。
私と志波も呆れた視線を送るしかない。
そのシンの上に折り重なるようにしてのっかってる部員の一番上、シンとバッテリー組んでる正捕手の3年が私と志波を見下ろす。
「いーじゃん。、そこで寝ろよ。オレたちにだって甘酸っぱい青春の思い出を作る権利はあるはずだっ」
「「「おおーっ!!」」」
「……おい」
キャッチャーのソイツが言った言葉に、まわりから拍手が巻き起こる。
むしろ拍手してないのは潰されてるシンと、呆気に取られてる小石川と、ゆらりと黒いものを立ち上らせ始める志波だけだ。
野球部その他代表のソイツは志波のオーラに一瞬たじろぐものの、
「何も手ェ出すとかそういうんじゃねぇって! ただ、女子と同じ部屋で寝るっていうときめきメモリアルをだな」
「そーだそーだ! 合宿所の風呂の覗きを本家じゃねぇから我慢したのにっ」
「何わけわかんねぇこと言ってんだっ」
半ギレ状態の志波に、なおも食い下がる野球部一同。
よーし今のうちに。
「別にの隣は志波でいいからさ。な? お前だって健全な高校生男子ならわかるだろ?」
「わからねぇな……」
「おいっ、どっからバット取り出した!? 枕投げじゃあるまいし、千本打撃は無しだろ!」
「し、志波先輩落ち着いて! あ、ほら! 先輩が布団奪ってますよ!」
あ、余計なこと言うな1年っ!!
志波が他の部員と揉めてる間に、奪われた掛け布団をひっぱって来て体に巻きつけたところで、志波がこっちをくるりと振り向いた。
間一髪!
私は簀巻き状態になって寝転がった。
「何やってんだお前はっ!!」
「志波の布団奪取作戦成功っ」
「いいから部屋に戻れ!」
「やーだーっ」
力ずくで布団を引き剥がそうとする志波に、私だって今度は全身を使って抵抗する。
するとついに。
ぷちっ
なんだかコミカルにも思える音が聞こえたかと思えば、志波の目が座った。
「……おい」
威圧的な態度で、簀巻き状態で寝転がる私の傍らに膝をつき、顔を覗きこんでくる。
「部屋に戻れ」
「やだ」
即答すれば、志波はさらに目を細めて。
ぐっ、と私の顎を掴んだ。
おおっ!? とまわりから小さなどよめきが起こる。
「食っちまうぞ」
おおーっ!?
今度は大きなどよめき。
私は布団を跳ね飛ばして飛び起きた。
「な、なんだ。やっぱも女だよな」
「志波ぁ、いくらなんでも、そういう脅しは無しだろ……」
やいのやいの盛り上がるまわりを無視して。
私は。
ふー、と大きなため息をついて気を抜いた志波の両肩を掴んで。
「いいの?」
「……………………は?」
志波にしては随分と間抜けた表情と声だった。
私はそのまま、問答無用で志波を押し倒す!
「っ!!??」
不意をつかれたらしい志波はばたんと簡単に後ろに倒れて、私はその上に馬乗りになってぱきぱきと手を鳴らした。
うおおおおおっ!!
周りは一斉に盛り上がる。
「すげぇぇぇ! クールビューティが志波を押し倒したぁぁっ!!」
「マウントポジションかよ!? ドS女王かっ!?」
「ちょ、ちょっと待てお前ッ、何して」
「前から志波っていいガタイしてるなーって思ってた。見てみたい、その肉体美」
「は!?」
引きつった表情で私を見上げてくる志波。
私はわきゃわきゃと手を動かして。
「えーいっ、ひん剥いてやるっ」
「それが女の台詞っ……ちょっと待て、本当に脱がそうとするなーっっっ!!!」
「うおおお、これ止めるべきか見逃すべきか判断つかねぇぇ!!」
「シンくん、あれ……」
「ほっとけほっとけ。下手に手ぇ出しての機嫌損ねたらまた収拾つかなくなる」
「若いもんはいいですなー」
「そうですなー」
結局。
私と小石川は監督たち教師の部屋と交換することになった。
酒とタバコのにおいが充満してたけど、まぁゴキブリに比べればマシか、ってことで。
合宿があければ大会に向けていよいよ甲子園入りだ。
目指すところは優勝のみ!
……かっちゃんも、はばたき市のどこかで見ててくれることを祈りながら。
「……お前な、大会前に男のプライド傷つけるようなことすんなって……」
「結局見せてくれなかった」
「くれなかったって、たりめーだろーがっ。お前、そういうことはせめて二人きりの時にだな」
「シンくん、そのフォローの仕方もどうかと思う……」
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