私も志波も、他の野球部員もみんな無事に赤点を免れた期末テストを終えて後。

 9回裏、2アウト、2ストライク、ノーボール。大接戦の1−0。はね学リード。
 ランナー2、3塁で、バッターボックスには相手4番打者。一打逆転のチャンス。
 地方予選決勝、はね学も相手校もすでに夏休みに突入しているけど全校応援で球場にかけつけていた。

 マウンドでは、流れる汗も拭わずに、シンがバッターを睨みつけていた。

 ベンチに残る私と小石川は手のひらを握り締めて試合の行方を見守った。

 アルプススタンドでは、声を枯らさんばかりに応援部が声を張り上げ、吹奏楽部がコンバットマーチを奏でてる。

 シンが、ふりかぶった!
 渾身の一球を、投げる!

 相手バッターは力任せにフルスイング!
 バットは、快音を鳴らした!

「あああっ!」

 はね学からは悲鳴が、相手校からは歓喜の声が上がる。

 ……違うっ。

「打ち上げた! センターっ……志波ぁっ、取れーっ!!」

 立ち上がって叫ぶ。
 ボールはどんづまりのセンターフライ!
 守備についてる志波が走って走って、取った!

「……!!」

 志波が、満面の笑みを浮かべて、ボールを掴んだグローブを天に突き上げた!

「やっ……」

 マウンドのシンが。
 ベンチの控え選手が。
 監督も小石川も。

「ったぁぁぁ! 甲子園だぁぁ!!」

 ワァァァァァ!!

 はね学スタンドが爆発するのと同時に、マウンド上のシンにキャッチャーを務める3年が飛びついた。
 野球部全員がマウンドに駆け上がって、もみくちゃになりながら人差し指を天高く突き上げる。
 小石川も嬉しさのあまり飛び出していって、早速始まった監督胴上げに加わる。

 センターから遅れてやってきた志波も、今までみたことないような笑顔を浮かべてその輪に加わってた。
 志波は一人ベンチに残ってた私に気づいてくれたけど。

 私は小さく微笑み返して、スコアブックの残りをつけた。


 47.3年目:花火大会


 ……というのが先週のこと。
 めでたくはね学野球部は地方代表として甲子園への出場が決まった。
 その後の近隣商店街の盛り上がること。
 はね学野球部は一夜にして街のアイドルになった。

 まぁ中でも盛り上がったのがうちの向かいのひなびた商店街。
 近所づきあいのいい親父とシンの人徳か、甲子園が決まった日からうちに奉納品を届けに来るおっちゃんたちが後を絶たない。

「シン坊、やったな! めでたいときはやっぱ鯛だろ! がっつり食って三振取りまくれよ!」
「いーやっ、育ち盛りの高校生はやっぱ肉だよな!? 特上霜降りのステーキ肉で英気を養うほうがいいよな!」
「日本人は畑のステーキを食っとりゃええんじゃぁ〜豆腐食え豆腐〜」
「っておっちゃんたちっ、豆腐屋のじーさん潰すなよっ! 年齢差考えろよ、マジ死ぬぞ!」

 などなど。
 お祭騒ぎは甲子園本選終了まで続きそうな勢いだ。

 そんな中、はるひから連絡を受けたのはつい3日前。

『もしもし? まずは野球部おめでとさん! ついに甲子園やな!』
「ん。ありがとはるひ」
『そんでな、甲子園準備に忙しいお二人さんには悪いんやけど、今度の日曜の花火大会、みんなで行かへん?』
「花火大会? って、8月頭にやってるアレ?」
『そうそう! 練習も夜までやっとるわけとちゃうやろ? アンタら野球部は青春の一ページを甲子園で綴るんやろけど、アタシら友情の一ページも綴ってんか?」
「はぁ?」
『反応ニブイなー……。とにかく次の日曜午後6時! はばたき駅前に集合やで。全員浴衣参加やからそこんとこ間違えんといてな!』
「浴衣ぁ? えええメンドクサイ……」
『ええやん、夏しか着れんもんやし。アンタ美人やからきっと映えるで? 志波やんもめろりんきゅーや!』

 めろりんきゅーな志波って想像できないっつーかしたくないっつーか。

『とにかく、ちゃんと部活終わったら志波やん連れて来るんやで! みんな誘って待っとるからな!』
「うー……まぁいいか。わかったわかった」
『決まりやな! ほな日曜日な!』

 ……という話を前日まですっかり忘れてて。

「志波、明日部活に浴衣一式持って参加ね」
『……は?』

 前日の夜にいきなり伝えた割には、志波は律儀に浴衣を持って部活に来ていた。

 花火大会の日に浴衣を持って登校なんてことしたから、志波はシンを筆頭に散々野球部員にからかわれてた。
 なんかちょい悪もそれに参加してたし。

「若いもんはいいなぁ。部活で汗を流したあとは花火大会でデートか。先生も昔に戻りたいもんだな?」
「いやいやいや、まさか硬派の勝己が部活に全く関係ないもん持ち込むとは思わなかったなー。しかもと揃ってか?」
「お前はから話聞いてるだろうがっ」
「イヤーン、勝己くんてば羨ましー!」
「気色悪い声を出すなっ!」

 部室で散々盛り上がってる男連中はほっといて。

「小石川、シャワー浴び終わったら着付け手伝って」
「うん、いいよ。髪結いも手伝っちゃう!」

 私と小石川は女子更衣室にさっさと移動した。

 体育系部活所属者向けに設置されてる簡易シャワー室で軽く汗を流す。
 シャワー室から出たときには、すでに小石川が妙なテンションでスタンバってた。
 ……って、その笑顔は一体なんなんだっ。

「私ね、いっぺんさんを綺麗に着飾ってみたかったの! だってさんって彫刻みたいな綺麗な顔してるでしょ? 背も高いしモデル体型だし」
「はぁ?」
「部室に化粧ポーチ置いといてよかった! さんっ、まずは髪を結ってから着付けね!」
「いや別に髪はこのままで……」
「だーめっ! だいぶ伸びたじゃない。浴衣を着るときは肩下まで伸びた髪は上げるのが原則なの!」
「……そうなの?」

 小石川は私の両肩を押して長いすに座らせる。
 そして素早く私の背後に回って髪を結い始めた。

 ……なんか変な感じ。
 こんな風に誰かに髪を結ってもらうのって、すごく久しぶりだ。
 お母さんが生きてた頃はよくこんな風にしてもらってたっけ。
 子供の頃は遊びに行く前にいつもこんな風に……。

 ……子供の頃、か。

 かっちゃん、間に合わなかったな。
 一体何があったんだろう。
 今も一人で何かに悩んでるんだろうか。
 甲子園、一緒に行くって約束したのに。

 これから向かう甲子園は、シンの夢で志波の夢で私の夢で、だけどそこに、かっちゃんはいないんだ。

 気持ちが沈む。

 そのとき、小石川に髪を強くひっぱられて、ぐきっと首が鳴った。

「だっ!」
「もうさんっ、俯いてちゃだめっ!」
「ハイ……」

 小石川って、しおらしくて献身的な南ちゃんとかシンのヤツ言ってなかったっけ……?

 ずきずきする首の痛みに耐えながら、私は小石川にされるがままに髪を結われて薄く化粧までさせられて。
 昔お母さんが着ていたっていう濃紺に菖蒲のぼかし柄が入った浴衣を着て。
 蝶の地織模様が入った淡い真珠色の帯をタテヤ結びに締めてもらって。

 小石川は私を上から下まで眺めたあと、やりきった! という満足そうな笑顔を見せた。

「完璧! 見せびらかしに行こ!」
「は? いいよ。もう行かないと遅刻するし」
「志波くんと一緒に行くんでしょ? どっちみち志波くんからかいながらみんないるよ」
「あー……確かに」

 荷物を手早く巾着に詰めなおして、今日持ってきた鞄は部室に預けておく。

 私は小石川に手を引かれながら、下駄に履き替えた足でちょこまかとその後をついていった。
 ……浴衣、歩きにくい……。

 職員玄関前でちょい悪に品のない口笛を吹かれたあと、到着した正面玄関。
 そこにはいつもの制服集団の中にぽつんと一人、黒い浴衣を着た志波がいて。
 なんか変な光景だった。
 案の定、部員は先輩後輩関係なく志波をからかってるみたいで、志波は腕を組んだまま眉間の皺を深くしてだんまりを決め込んでいた。

「志波、ごめん遅くなった」

 声をかけると。

 一斉にこっちを振り返る野球部一同。
 志波も顔を上げて私を見て、目を見開いた。

「すっげぇ、クールビューティマジ可愛いじゃん」
先輩、浴衣美人っすね!」
「でかした小石川。グッジョブ!」
「くっそぉぉ、なんでこのあと志波先輩の独り占めなんだよぉぉぉ」

 口々に好き勝手騒ぎ出す部員たち。

 ……褒められ慣れてないからくすぐったい。
 私は小走りで志波に近寄った。

「行こ、志波」
「あ、あぁ」
「はー……こうして志波と並ぶと絵になるよなー」
「ああくそっ! 志波っ! 花火会場でちゃんと決めて来いよっ!!」
「っ、何の話だっ!」

 3年の部員に揶揄するように声をかけられて、志波は真っ赤になりながら叫び返す。
 そして、ずかずかと足早に歩き出してしまった。
 って。

「ちょ、志波」

 着慣れない浴衣は足が開かないから追いかけるのも一苦労だ。
 穿いてるものも下駄だし。

 私は慌てて志波の浴衣の袖を掴んだ。

「っ」

 驚いたように志波が振り返る。
 ってただ袖をひっぱっただけなんだからそんな驚かなくても。

「待って」
「……悪い」

 見下ろす志波の表情が柔らかくなる。

「……おい、なんなんだアレ」
「美人に袖をつんつんって、男の憧れ目の前で再現しやがって」
「許されがたいッ! 実に許しがたいぞ志波っ!」

「……なんか言ってるけど」
「ほっとけ。……歩くの早かったか?」
「うん。浴衣着てると足開かないし」
「そうか。今ならまだ時間あるし、ゆっくり歩こう」
「ん」

 後ろでぎゃんぎゃん叫んでる野球部を志波の言うとおりほっといて。
 私と志波は、待ち合わせ場所のはばたき駅目指して歩き出した。


「あっ、気づけばシンと小石川もいねぇ!」
「ずっりー! 主将抜け駆けーっ!!」
「あーくそっ! シンと志波っ、アイツら合宿で袋にしてやるっ!!」


 学校を離れて、海沿いの坂道。志波の1歩後ろを歩く。
 日はだいぶ傾いて夕暮れ色が空を染め始めてる。
 花火会場直結のはばたき駅に向かう道だけど、まだまだ距離があるせいか、私と志波以外に花火観客とおぼしき人影はない。

 私は志波の浴衣の袖を掴んだまま、茜色に染まっていく海を見つめながら無言で歩いていた。


「なに」
「袖離せ」
「やだ」

 志波の方を見ないで即答する。
 なんだか夕暮れって心細くなる。
 前はこの道を下るとき、いろんな海の色を見てただ綺麗だとしか思わなかったのに。

 せまりくる刻限に、自分自身焦ってるのがわかる。

「……皺になる」
「あ、そっか」

 ため息まじりに言った志波の言葉に納得して、しぶしぶ手を放す。
 私が掴んでいた袖の裾は、見事にくしゃくしゃになっていた。

「ごめん」
「いや……」

 志波を見上げて謝れば、志波はなんだか困ったような表情を浮かべていた。

「なに」
「……どうかしたか?」
「なにが?」
「落ち込んでるように見える」
「そうかも」

 首を傾げながら返事する。

 正直、甲子園出場が決まってから気持ちに靄がかっていて、気分が晴れない。
 理由はわかってるんだけど、こればっかりは。



 見上げた志波の表情はいつもの感情が読めない無表情。
 でも、目の前に手が差し出された。

「……来い」

 その手が何を意味するのかわからなくて、しばらくじーっと見つめていたら。
 志波が私の手をとって、そのまま手繋ぎした。

 あったかくておっきな手だった。

 そのまま志波に手を引かれて、道を歩く。
 志波は何も聞いてこない。ただ前を見つめて歩いてく。

「……かっちゃんのこと考えてた」

 なんとなく聞いて欲しくなった。
 志波は、そうか、と短く返事した。

「一緒に甲子園に行くって約束してたのに、リミットまでに見つけられなかった」
「……」
「志波はかっちゃんが今どうしてるか知ってるんでしょ」
「……ああ」
「今、何してるの? 一人でいるの? 私みたいに、ずっと立ち止まったまま苦しんでるの?」
「……」
「志波っ」
「前に言ったはずだ」

 志波が怖い目をして私を見下ろす。
 むか。
 負けずに睨み返す。

「オレの前で他の男の名前を出すな」
「なんでっ! 志波は心配じゃないの!? かっちゃんの友達のくせに、かっちゃんが苦しんでるの黙ってみてるだけ!?」

 手を振り解く。
 志波は眉間に皺を寄せて、苦々しい顔をしてた。

「お前……」

 そして意を決したように口を開いた。

「お前、オレとかっちゃんと、どっちが好きなんだ?」
「……は?」
「答えろよ。オレがお前の言うかっちゃんに似てるから、それで好きとかなんとか錯覚してるだけじゃねぇのか」
「ばっかじゃないの!? かっちゃんは優しくてカッコよくて頼りになって、志波とは正反対だっ!」

 ひくっ

 志波のこめかみがひきつった。

 ……そうだとしても。

「それでも私の一番は志波だもん」
「……っ」
「つかそれとこれとなんの関係があんの?」

 ほんと志波の考えてることってわけわかんない。
 人を睨みつけてるかと思えば、今は片手で顔覆っちゃってるし。

「志波っ」
「いや……いい。悪かった。ただ聞いただけだ」

 眉間の皺はさらに深くなってるものの、そこに怒りの表情はすでにない。
 なんなんだっコイツはほんとにっ。


「……」
「来い」
「む」

 手を差し出されたら、それには抗いがたくて。
 私はしぶしぶ手を繋ぐ。

 私と志波は再び歩き出した。

「ちゃんと、歩いてる」
「は?」

 唐突に志波が口を開いた。
 歩いてるって。そりゃ見ればわかるけど。

「……かっちゃん」
「え。ほんとに?」
「ああ。……お前に感化されて、前を向いて歩き出してる」
「は? なんで私……会ってもいないのに」
「……それは」
「もしかして志波が話してるの? 私や、シンのこと」
「まぁ……そんなところだ」

 曖昧に答える志波だけど。
 一気に私の心にかかっていた靄が晴れていく。

「じゃあ今何してるの。野球は? シンが甲子園に行くって知ってるんでしょ?」
「ああ。知ってる。野球も……また始めた」
「ほんとに!? でも、じゃあなんでまだ会ってくれないの」
「……いろいろ、な」

 いろいろ。
 まだ何かあるんだろうか。
 かっちゃんの足を止めてるものが。

 俯いて思考をぐるぐるとめぐらせていたら、志波に手をひっぱられた。

「わ」
「お前まで引きずられるな」
「志波……」

 私を見下ろす志波の目は温かい光を持っていた。

 この目。
 多分、私が志波のこと好きなんだって自覚したのは、この目を見てからだと思う。
 海のように深い、志波の瞳。

「心配しなくても、時がくれば会ってくれる」
「ほんとに?」
「……ああ。だから、お前は自分のことに集中しろ。……かっちゃんも、お前の行く先を心配してる」
「かっちゃんが」

 うわ。
 気にかけてくれてたんだ。
 かっちゃん。ずっと離れてたのに。
 すごく嬉しい。顔が緩む。

 私のテンションが一気に上がる。
 かっちゃんがもう立ち止まってないってわかっただけなのに、自分にも何か光が差したような感じ。

 すると。

「おい……」

 急に不機嫌な声音になった志波に呼ばれた。
 見上げたそこには思ったとおりの仏頂面。

「そんなに嬉しいか」
「嬉しいよ。当たり前じゃん」
「……そうか。よかったな」
「うん。……って、ちょ、志波っ! 歩くの早いっ!」
「さっさと歩け。遅れる」
「だから早く歩けないんだって言ってんじゃんっ!!」

 なんなんだいきなりっ!
 不機嫌になったかと思えば勝手にずんずん歩き出してっ!
 ああもう志波は本当にわけわかんないっ!
 なんでこんなヤツが好きなんだ私はっ。自分自身にも腹立ってきたっ!

「待て志波っ! それ以上先に行ったらこの斜面から飛び蹴りかましてやるっ!」
「……ハァ、なんだってオレはコイツなんか……」



 その後ぎゃんぎゃん口喧嘩しながらたどりついたはばたき駅には、はるひとハリーが声かけたと思われるいつものメンツが揃ってた。
 若先生まで浴衣着て来てたのにはさすがに驚いたけど。

「先生今日はみんなの友達の若王子貴文です。先生扱いはブ、ブーです」
「はぁ? 年考えなよ若先生。図々しいにもほどがあるっ」
「ひ、ひどいですさん……友情に年の差なんて関係ないのに」

 しょぼーんと落ち込んだ若先生はいつものように水樹に慰めてもらってた。

 打ち上げまで時間があるっていうから、各々縁日回ったり場所取りに行ったり。
 少し前に集合して花火を見ようってことだったけど、結局人ごみでみんなと合流することは出来なくて。
 志波と一緒に食べ物屋台をめぐってた私が打ち上げ時にいたのは、会場から遠く離れた縁日の隅。

 屋台の天幕が邪魔で花火がよく見えなくて。

「志波見える?」
「あ? まぁ、少しは」
「うー、こういう時背が高いって便利だよね。志波っ、肩車っ」
「は!? 何言ってんだお前はっ!」
「む、一人だけ花火見てずるいっ」
「ちょっと待て。お前冷静に考えろ。浴衣でどうやって肩車するってんだ……」
「そんなのこうやって袂を」
「っ!! 足を出すなっ!!」
「っだぁ、そんな大声出さなくても聞こえるっ!」

 で、結局また口喧嘩になって。

「……なぁ。なんでアンタ志波やんと険悪になっとるん?」
「知るかっ! 志波が悪いっ!」

「志波クン、思い出作りの日に喧嘩しとったらアカンよ? ちゃんと仲直りせな」
「……ほっとけっ」
「やや、志波くん顔が赤いです」
「っ」

 打ち上げ終了後、再びはばたき駅前に集合した時には私と志波の機嫌はもう最悪。
 お互い背中合わせになって仲裁に入るはるひやクリスの忠告も無視してた。

 あああもう。
 なんで私は志波なんか好きになったんだっ!!!

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