5月下旬。
 最近、というか5月の頭くらいから。
 私と志波は化学準備室でお弁当を食べていた。


 40.日常


「若せんせー」
「はいはいっ。いらっしゃいさん、志波くん。コーヒー入ってますよ」
「ちわす」

 今日も今日とて志波と連れ立って、チャイムと共に化学準備室へ。
 出迎えてくれる若先生はにこにこしながら、すでに人数分のビーカーコーヒーを淹れていた。

 若先生は自分のデスク、その横の袖机に私、そしてさらにその隣にでっかい体を小さくして志波。

 そしていつものように、3人揃って両手を合わせて、

「米粒ひとつに神様7人」
「今日もおいしくいただきます」
「……いただきます」

 この食事の前の一言がどうも志波には慣れないらしくて、いつも最後の言葉しか言わない。
 初めて言ったときは、若先生も目を丸くしてたっけ。

「……さん、今のなんですか?」
「知らない。けど親父とお母さんがいつも言ってて、食べ物残したら問答無用で鉄拳飛んできた」
「やー……素敵な言葉ですけど、さんのお家はしつけが厳しいんですね……」
「その割りに……」
「志波、言いたいことは最後まで言えっ」

 なんてやりとりがあって。
 あ、思い出したらムカムカしてきた。

 にこにこ笑顔の若先生が箸をのばした唐揚げをかすめて、ひょいぱくっと口に放り込む。

「あっ、さんひどいですっ! 先生の唐揚げ、食べましたねっ?」
「ふんら、もんるらあるららしらりひえー」
「……飲み込んでから言え」

 突っ込む志波は黙々と箸を進めていた。
 まぁ、私と若先生の弁当のおかず争奪戦はいつものこと。
 志波は自分の弁当に箸が伸びてきたその時は、きゅぴーんと目を光らせて無敵の守備をする。


 で、なんでこんな図体でかいのがせまい化学準備室に詰めてお昼を食べているかというと。
 事の発端はGW直後の昼休み。
 私が化学準備室に呼び出されたことから始まった。

「若先生、呼んだ?」
「呼びました。先生今日は真面目なお話しますよ。さん、そこ座ってください」

 用事が終わったらそのまま屋上行って弁当食べようと思って弁当箱持参でぷらぷらやってきた私に、化学準備室のデスクに座ってた若先生は難しい顔して。
 似合わない、つか、怖くない。
 一体なんなんだと思いながら、私は言われたとおり若先生の向かいに用意された丸椅子に座る。

「で、なに?」
「なに、じゃないです。さん、4月中、一度も化学の授業に出てないでしょう」
「あーうん。出てないよ」
「出てないよじゃないです。さん、出席日数足りないと卒業できませんよ」

 ソレを言われると。
 む、と私を睨みつけてる若先生から視線をそらす。

「1年生のときもそうでしたけど。さん、どうして化学の授業出てくれないんですか……」
「だって化学キライ」
「む。先生知ってますよ。さんは2年生のときはちゃんと化学の授業出てたそうじゃないですか」

 ち、余計な情報仕入れて。若先生のくせに。

「なんで先生の授業は出てくれないんですか」

 それは、若先生がぬけてるから出し抜きやすいというか。

「……すん」
「いい大人が拗ねるなっ!!」

 説教かと思えば愚痴かっ!!
 と思って、若先生に視線を戻して。

 私は思わず若先生の首に手を伸ばして、締め上げていた。

「ぐえ、さん、ぐるじいですっ」
「説教しながら、弁当食うなーっ!!!」

 なんなんだこの教師っ!!
 人が視線逸らしている間に、自分だけぱくぱく弁当食べ始めてんの!
 私は若先生の首を絞めたままがくがくと揺さぶる。

「わわわ、じゃ、さんも食べながら話を」
「食べながらそういう話をするかっ」
「や、お腹が空いてると気分がささくれだちますからっ」
「だったら最初っから昼休みに呼ぶなーっ!!」

 もうすでに議論の余地なんかあるかっ!
 若先生の言うとおり、空腹も手伝って私の不機嫌ゲージは一気にリミットブレイク。

 シメる! そして落とす!!

「覚悟しろ、若せんせぇぇっ!!」
「うわわっ!」

 たまらず私の手を振り解いて立ち上がり、準備室の入り口に向かって逃げ出す若先生。
 逃がすかっ!

 すぐに私も踵を返す。
 でも若先生の手はもう準備室のドアノブに伸びて、


 ガン!!


「だっ!!」
「……あ?」

 突然内開きに開いたドアに若先生は顔面を強打して、ドアを開けた張本人の志波は体半分を化学準備室に入れたところで、ぴたりと動きを止めた。

「グッジョブ、志波っ!」
「……なにやってんだお前」

 ぽかんとしてる志波に向けて親指を突き出し、私は額を押さえてうずくまってる若先生の白衣の首根っこをつまみあげた。

「すっきりしたから勘弁してあげる」
「ううう……さんも志波くんもひどいです……」

 すん、とすすり上げながらも若先生は立ち上がり、背中を丸めたままとぼとぼとデスクに戻る。

「志波も若先生に呼ばれたの?」
「いや、昨日忘れた化学のプリント持ってきた」

 ぴらりとB4サイズのザラ紙を摘み上げて私に見せる志波。
 志波は少しだけ眉を顰めて私を見下ろす。

「……先生に呼ばれたのか?」
「うん」

 私の返事に、志波は器用に片眉を上げた。
 そしてゆっくりと若先生のデスクに近づいてプリントを手渡す。

「遅れてスイマセン」
「はぁ、志波くんはちゃんと先生の授業を受けてくれるのに……」
「は?」
「いえいえ、さんにちゃんと授業出るようにお説教してたんです。志波くんが心配するようなことは何も」
「……別に」

 会話が成立してるのかどうなのか。

 若先生は行儀悪く箸を咥えながら、志波が持ってきたプリントを受け取った。

「そういえば若先生、弁当なんて持ってきてんの? 前は購買でパン買ってなかった?」
「はい、前は購買でパンを買ってました。何度もさんの踏み台にされました」
「ちょうどいい高さだからね」
「お前、非難されてることくらい気づけ」

 志波のお小言は無視して、若先生の手元をのぞく。
 真四角に平たいお弁当箱。3色そぼろごはん、ポテトサラダ、塩茹でブロッコリ、それから唐揚げ。

 絶対これ、若先生が作ったはずがない。

「やや、そんなに見つめてもあげませんよ。このお弁当は僕のだ。誰にも渡すものか」
「ふーん?」

 若先生がこういう反応するってことは。

 ひょいぱくっ

 スキをついて唐揚げを掠め取り、口に放り込む。

「あっ、先生の唐揚げっ……」
「……あー、やっぱひ。これ、食べたころある」
「飲み込んでから言え」
「むぐ。……これ、水樹の唐揚げだ」

 ぺろっと油のついた指を舐めると、志波が目を丸くした。

「……水樹の?」
「うん。前に食べたことある」
「……」
「若先生、水樹に弁当作らせてんの?」
「作らせて、って人聞き悪い……。みんなにはシーッ、ですよ?」

 うらめしそうに私の指を見ていた若先生だけど、ころっと表情を変えて締まりのない笑顔を浮かべる。
 志波はますます驚いた顔してた。

「水樹さんのおいしいお弁当で、午後もやる気ばっちりです。水樹さんはお弁当作りの天才です」
「へー、そんなにおいしいんだ。他のも食べ」
「だめですっ。これは先生のです。さん、自分のお弁当持ってるでしょう?」
「自分で作った弁当なんか食べてもおいしくないもん。交換しようよ、若先生」
「だめですっっ」
「いーじゃんっ」

「ちょっと待て……」

 箸を咥えたまま、弁当箱を高々と持ち上げて私の手から遠ざけようとする若先生と、そのお弁当を奪い取ろうと身を乗り出す私。
 ほとんど若先生に覆いかぶさるような態勢で弁当を取り上げようとした時、志波に首根を掴まれて引き戻された。

「志波っ、何する……つか、何してんの?」

 あとちょっとで奪えたのに。
 抗議してやろうと振り向いた先で志波は、こめかみに手を当ててなにやら苦悩してるらしく大きくため息をついた。

「オレはお前ほど順応性がよくない」
「は?」
「……特定の生徒が特定の教師に弁当を作って渡すってのは、いいのか?」
「いいんじゃん? だって水樹と若先生だよ?」

 何をいまさら。
 志波だって、二人の噛みあってないけど実はお互い好いてるって状況知ってるくせに。

「若先生、弁当交換ー」
「駄目ったら駄目です」
「ちぇ。じゃあいいよ。私も水樹に弁当作ってもらうから」
「……ちょっと待て」

 私に獲られまいと、弁当をかっこみ始める若先生。
 仕方なく私は引き下がって、ぶつぶつと呟く。
 すると、また志波から待ったがかかった。

「お前、水樹の経済ひっ迫させる気か」
「あ、そっか」

 水樹は勤労学生で毎月かつかつの生活してるんだった。
 ……私と志波は無言で若先生に非難の視線を向ける。

「や、先生はちゃんと水樹さんに給食費払ってますよ?」
「うわ、エンコーだ」
「だな」
「えーとその言い方はちょっと……」

 ごほごほとむせつつ、反論を試みる若先生。
 うう、結局水樹の弁当はお預けか。

「はーあ、仕方ないから今日も自分で作ったつまんない弁当食べるか……」

 持参した弁当の包みを持ち上げる。
 さて今日はどうしよう。
 当初の予定どおり屋上の給水塔の上で食べるか、それとも教室戻って食べるか。

 そこへ、ごくんと口の中のものを飲み干した若先生が。

さん、いつものお弁当がおいしくなる方法教えましょうか」
「は? そんなのあるの?」
「えっへん、あるんです。ズバリ、大勢で食べるとおいしくなります」
「あー」

 わかる気は、する。
 年末年越し大忘年大会なんかがいい例だ。
 みんなの話に夢中になって、料理の味なんかどうでもよくなるというか。

 ……っておいしくなるわけじゃないじゃんっ。

「大勢ったって私友達少ないし。大勢苦手だし」
「やや、野球部マネージャーさんの台詞とも思えない。じゃあ、先生と一緒に食べますか?」
「「は?」」

 にこにこと、いつもののんきな笑顔を浮かべてる若先生の唐突なお誘いに、私と志波の声がハモった。

「……なんで志波がここで驚いてんの」
「いや……」

 ふい、と顔をそむける志波だけど、若先生は首を傾げて。

「よかったら志波くんもどうぞどうぞ。先生も最近、化学準備室で一人ごはんは味気ないなーと思ってたところですし」
「はぁ」
「化学準備室で昼ごはん? こんな薬品臭いとこで?」
「今ならお昼寝用に、あそこの来客用ソファを提供しますよ?」
「よっしゃ! 若先生、商談成立っ!」

 年明けくらいから通い詰めた化学準備室で、大抵私が陣取ってた大きめのソファ。
 図書室で昼寝するよりずっと気持ちいいはずだ!

 私は若先生とハイタッチして、若先生のデスクのすぐ横に座り込む。
 さっさと食べて、ソファで昼寝っ。
 弁当の包みを解いてお弁当箱を取り出して。

 ところが。

「おい」
「ん?」

 見上げたそこには、不機嫌極まりない志波の顔。

「なに怒ってんの、志波」
「あのな」

 口を開くものの、志波はしかめっ面したままそれ以上何も言おうとしない。
 なんなんだ一体。

 すると、若先生には志波の言いたいことが伝わったみたいで。
 ぽんと手を叩いて「志波くん、ちょっと」と、化学室の方へと志波を引っ張っていった。

 若先生と志波が仲いいらしいってのは前々から知ってたけど、あそこまであうんの呼吸で無言の志波を理解するとは。
 水樹ー、うかうかしてると志波に若先生取られるぞー。
 なかなか戻ってこない二人を待たずに私はお弁当に箸をつける。

 そして、しばらくして戻ってきた二人。
 若先生は変わらずのんきな笑顔を浮かべていたんだけど。
 志波は。

「何話してたの?」
「…………べつに」

 顔を赤くして、そっぽを向いてしまった。


 そんなこんなの出来事のあと、結局志波もお昼に同席することになって、今に至る。

「若先生、どうせなら水樹と一緒に食べればいいのに」
「水樹さんは西本さんや海野さんたちと一緒だからいいんです。大人は我慢です」
「大人? 誰が?」
さんひどいです……」

 大抵会話してるのは私と若先生。志波は無言で聞いていて、時々話しかけたときだけ「ああ」とか「だな」とか短い相槌をうつばっかりだ。
 だから一番に食べ終わるのはいつも志波。で、続いて若先生。
 私はのんびりと食べてるから、志波がコーヒー飲み終えた後もまだお弁当を食べてるって時も多い。

 でも今日はほぼ同時に食べ終えた。
 ビーカーコーヒーをすすっていると、若先生が立ち上がる。

「じゃあ先生は一度教員室に戻ります」
「はいはーい」

 これもいつもどおり。
 授業の準備があるとかで、若先生は予鈴がなるまで教員室に戻ってしまう。
 本鈴前に若先生が戻ってくるまでは、私と志波のふたりだけの時間だ。

 ということはつまり。

 コーヒーを飲み干して、私はキャスターつきの椅子に腰掛けたまま、足で地面を蹴る。
 メンテの悪い椅子がきゅるきゅると音をたてながら滑り、志波の背後にまわりこんで。

「ふはー」
「………………」

 この時間は志波に抱きつき放題。時間制限15分。
 背後から腕をまわしてぴったりとくっつけば、志波はぴきっと硬直する。
 あーあったかい。満腹感も重なって、ついうとうとする。
 だもんだから、せっかく若先生に提供してもらったソファは、今まで一度も使うことはなかった。

「……
「んー」

 いつもはただ黙って座ってるだけの志波だけど、めずらしく声をかけてくる。
 まどろみながら返事すると、志波は大きくため息をついた。

「お前、こんな抱きつき癖あったか?」
「あった。日本戻ってからは」
「……だな。昔はなかった」

 ……ん?

「しば」
「今まで」

 ちょっとひっかかったことを聞こうと思った矢先に遮られる。
 肩越しに私を見る志波は、こっちも眠そうな目をしてた。

「真咲以外に、誰に」
「……は?」
「誰に抱きついてたんだ?」
「誰って……はばたき市に戻ってくる前は親父かシンにだけど」
「…………シン?」
「うん」

 事故のショック、母親を亡くした衝撃で、精神の幼退化、それによる甘え癖。
 ……なんてことを医者から親父が言われてた。

「よく抱きつかせてもらえてたな」
「前はね。今より私の精神状態悲惨だったから、仕方なくってとこだったんじゃん?」
「……そうか」
「今はもっぱら志波と」
「……と?」

 ぴく、と志波の体が反応する。
 そして、低い声。

「……誰だ」
「元春にいちゃんに貰った等身大どくろクマ」
「…………そうか」

 あ、志波の体から力が抜けた。

「こうしてて、気持ちいいのか?」
「気持ちいいよ」

 あったかいし志波の匂いがするし。

「志波は気持ちよくない?」
「……その質問に答えろ、ってのか?」
「うん」
「……………………」

 あ、また力が入った。

「あ、もしかして気持ち悪い」
「違う! ……悪くない……全然」

 勢い込んで答えてから、志波は大きく息を吐いた。
 背中から抱きついてるから、志波が前を向いちゃえばその表情を窺い知ることはできないんだけど。

 ここで会話が途切れる。
 今日はめずらしく志波が話しかけてきたせいもあって、私の目も冴えた。
 物はついで。聞いてみようか。

「志波」
「なんだ」
「かっちゃんのことなんだけど」
「……」

 急に志波が立ち上がる。
 支えを失って、私は前のめりに倒れこみそうになって慌ててバランスを取った。

「ちょ、いきなり立つなっ!」


 むっとして文句を言えば、志波は私を見下ろした。
 幾分、怒ってるような表情で。

「なに」
「言っておく」
「は?」
「オレとお前しかいないときに」

 ぐ、と志波の右手が伸びてきて、私の首筋を掴む。
 親指が顎にかけられて、強引に上をむかされて。
 驚いて目をぱちくりさせてる間に、志波の顔が目の前まで近づいていた。

「オレの前で、他の男の名前を出すな」

 ……は?

 あまりの物言いに、目が点になる。
 なんだいきなり。

 でも志波は表情を変えず、座った目をしたまま。

「……食っちまうぞ」

 はぁぁ??
 ちょ、なに志波、一体どーした。
 呆気にとられて何も言えずにいたら、予鈴が鳴り始めた。

 志波は私からぱっと手を離して体を起こす。
 そして自分が食べてたお弁当のゴミをくしゃくしゃと丸めてゴミ箱に入れて。

「先戻る。お前は先生が戻るまで待ってろ」

 こっちを振り向きもせずに言って化学準備室を出て行った志波の耳が、真っ赤になっていた。

 ……一体、今の、なに。

 志波がドアの向こうに消えるのを見ながら、私はぽかんと。

 わけわかんない、ほんとわけわかんない。
 志波は謎だ。何考えてんのか、全然読めない。
 なんか前にも似たようなことあったような、と思いながら、私は椅子に座り込んだまま若先生の戻りを待つしかなかった。

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