「あっ」
ロッカーの扉を開けて、珊瑚礁の制服に手を伸ばしたところでようやく私は気がついた。
「あちゃあ……忘れてた」
自分の失態に気づいた私。だけどのんびりしてる時間はないから、急いで制服を着替えてフロアへと駆け戻った。
〜ネイルリムーバー〜
「ねぇねぇ佐伯くん、ネイルリムーバーってある?」
「は?」
フロアに戻った私は、開店前の最終チェックをしている佐伯くんに声をかけた。
佐伯くんはきょとんとしながら私を振り返ったけど、目の前に突き出した私の手を見てあっという間に眉間にシワ寄せて。
返事の代わりにチョップ一発!
「アイタっ!」
「飲食店の雇われ従業員の身分で、マニキュアなんかつけてくんな!」
「だから落とすためのリムーバーない? って聞いたのに〜っ」
私はチョップを振り下ろされた脳天を抑えながら、恨めしげに佐伯くんを見上げた。
そう、私の両手の爪にはマニキュアが塗ってあったんだ。
ほとんどの飲食店での規定にあるように、珊瑚礁も勿論従業員身だしなみはきっちりしてる。
爪は白い部分が目立たない程度に短く切りそろえて、マニキュアなんてもってのほか! ……まぁ、私も普段はミルハニーのお手伝いしてるから自覚はちゃんとしてたんだけどさ。
「今日、掃除当番と重なっちゃったから学校から直接来たんだもん。うっかりしてて」
「あのな、うっかりで済む色じゃないだろ? なんなんだよ、その毒々しい黄色は」
「ひどっ! 毒々しいって!」
目を通していた伝票の束を脇に置いて、佐伯くんはカウンターに腰かけながら呆れた視線を私に向ける。うぅ、イケメンの冷たい視線を快感と思えるようになってきちゃいけないんだから、っ……!
私はぶんぶんと頭を振って、気を取り直して再び佐伯くんにマニキュアの塗られた爪をつきつける。
「これ、カルセオラリアっていうお花の色なんだよ! 毒々しくなんてないんだから」
「花の色? ぷっ……が? そういうキャラか?」
「なんか最近、私の扱いひどくないですか佐伯先輩……」
「気のせいだろ?」
「気のせいじゃないよー!」
むきーっ! と両手を挙げて大袈裟に怒って見せれば、佐伯くんは楽しそうに笑う。
……って、ほのぼのしてる場合じゃないんだった。
「それでね、話は戻るけどネイルリムーバー持ってない?」
「男でそんなの持ってるヤツいるわけないだろ?」
「ハリーとくーちゃんは持ってたよ」
「それは、アレだ。アイツらは別枠。志波が持ってるとこは想像できないだろ?」
「うっ……それは想像できないかも……」
などと言いつつも、お花に囲まれた部屋の中で志波っちょが爪の手入れしている瞬間を想像してしまって、私はふらっとよろけてみたり。
アリエナイアリエナイ。
「あ、でも除光液ってアセトンだろ? 業務用のアセトンならあるからそれ使うか?」
「それって純アセトン100%でしょ!? そんなのつけたら爪痛んじゃうよ!」
「うるさい。に選択権はないっ」
「ぎゃーっ! 断固拒否っ! 絶対拒否っ!」
いつも私をからかって苛めるときのようにニヤリといい顔してほくそえんだ佐伯くんに、私は慌てて飛び退る!
ところが佐伯くんってば今日は随分と機嫌がいいのか、逃げた私を追いかけてきたんだ!
「とにかく、客の前でそんな爪してるのはお父さん許しませんっ」
「じゃあ今からネイルリムーバー買ってくるから、今日は遅刻扱いでひとつっ」
「雇い主を前にして堂々と遅刻宣言とはいい度胸だな、っ!」
「雇い主は佐伯くんじゃなくてマスターだもーんっ!」
もう、フロア中駆けずり回って。
でも身長差から言っても短距離のタイムから言っても、私が佐伯くんに掴まるのは時間の問題。
せまい珊瑚礁の中なんて、あっという間に追い込まれちゃうし。
「観念しろ、っ」
「わぁっ」
往生際悪くカウンターの中に逃げ込もうとしたところ右腕をぎゅむっと掴まれて、そのまま思い切り後に引っ張られた私は、ぼすん! と何かに背中をぶつけてしまって。
「うぅ〜、掴まっちゃっ……」
アセトン100%だけはなんとか阻止しなきゃ! と思いながら佐伯くんを振り向けば。
目を見開いた佐伯くんまで、わずか10センチ。
……あ、さっき私の背中がぶつかったのって壁じゃなくて佐伯くん自身だったんだ。
そっか、だからなんか衝撃が柔らかいなーとか、妙に温かいなーとか……。
じゃなくてっ!!
「「うわぁっ!!」」
同時に叫んだ私と佐伯くんは、慌てて飛びのいた。
見れば佐伯くんも顔真っ赤にして、何度も目をぱちぱちさせて。
「ご、ご、ごめん。コレは、ほら、事故だ事故!」
「う、うん。わかってるよ、わかってる。あは、あははは!」
なんて二人してなぜか笑いながらフォローしあったりして……。
でもちょっと、役得〜♪ なんて思ってるのは内緒。あはは。
「コラ、二人とも何を騒いでいるんだ? 準備は終わったのかい?」
すると、奥で食材チェックをしていたマスターが戻って来て、散々騒いでいた私たちに少しだけ眉根を寄せながら話しかけてきた。
「騒いでごめんなさい! でも、開店準備はもう終わったよね?」
「あ、ああ。準備は終わったんだ。でもがマニキュアなんてつけてたから」
「マニキュア? さんが?」
マスターが首を傾げながら私を見たから、私は肩をすくめながら両手を見せた。
さっき佐伯くんが毒々しいなんて表現した、黄色い爪。これがごくごく肌色に近いピンクだったりベージュだったりしたなら、最悪今日だけは、ってことも出来たかもしれないけど、この色じゃあねぇ……。
「なるほど。確かに営業には向かないかもしれないね」
「ご、ごめんなさい……」
「いえいえ。さんの年頃の女性ならばこういうことに興味を持って当然です。落としてくるのを忘れたのはいただけないが、まぁ失敗をしない人間などいませんからね」
私の手をとってしげしげとネイルを見つめていたマスターは、視線を私を私の顔に移してからにっこりと微笑んでそう言ってくれた。
マスター優しい! 佐伯くんとのこの対応の違いはどうなんだろ!
ついついロマンスグレイの優しい笑顔にふにゃら〜ってなってしまったら、その後で佐伯くんが口を尖らせていくのが見えた。ふふふ。
「さん、もしかしてこれは花言葉のマニキュアですか?」
「えっ!? マスター知ってるんですか?」
「な、なんだよ? その、花言葉のマニキュアって?」
いたずらっぽく笑ったマスターの口から出てきた言葉に、私も佐伯くんも口をぽかんと開けた。
うわ、なんか意外〜。確かにテレビのCMでバンバン流れてるものだけど、マスターが知ってるなんて思わなかった。
「そうなんですよ! これ、カルセオラリアのマニキュアなんです」
「おや、正解でしたか。さんもやはり女性ですねぇ」
「え? えへへ〜」
「コラ、話に置いてくな! なんなんだよ、その花言葉のマニキュアって!」
ニヤリとマスターに微笑みかけられたら照れちゃうよ。
頬が熱くなるのを感じてふにゃふにゃになりそうだった私だけど、それを止めたのは再び脳天チョップを私にかました佐伯くんだ。
「こら瑛。何度言ったらわかるんだ? そうぽこぽことさんを殴るんじゃない」
「だ、だってさ」
「あー、あーっと、あのね! 花言葉のマニキュアってのはね!」
マスターに注意されて拗ねる直前まで口を尖らせた佐伯くんに(その顔がまた可愛いんだけど、これ言ったらもう完全ヘソ曲げちゃうから内緒にしとくけど)、私は慌てて説明する。
「今女子の間ですーっごく流行ってるんだよ。コンビニで買えるマニキュアなんだけどね、恋のおまじないつきなの」
「恋のおまじない? が?」
「うっ……い、いいじゃん別にっ! 色の名前が花の名前になってて、自分の好きな人にマニキュアを塗ってもらうと、その花の花言葉通りの関係になれるっていうおまじない!」
「……」
赤くなりながらも最後まで説明した私に、佐伯くんはぽっかーんと口開けて。
でもすぐに、心底呆れたって顔して呟いた。
「その年でそんな企業戦略に乗せられんなよ……」
「い、いーじゃんっ! 乙女の夢なのっ!!」
「だから、乙女の項目辞書以下略」
「ちょ、ついに省略!?」
はぁ、って大きなため息ついた佐伯くん。
そ、それにしても以下略って……佐伯くんも日々いろんな小技を入れてくるなぁ……!
ところが。
眉尻下げて呆れた顔してた佐伯くんの顔が、ふとこわばって。
「どうしたの?」
聞いた瞬間、今度は超不機嫌そうに眉間にシワ寄せる佐伯くん。
あ、あれ? なんでいきなり不機嫌?
「お前、それ」
「それ? あ、爪?」
「他になにがあるんだよ。それの花言葉ってなんなんだよ?」
「カルセオラリアの? 確か『我が伴侶』だったと思うけど」
ひきっ!
私がカルセオラリアの花言葉を告げた瞬間、佐伯くんのこめかみに青筋が走った。眉間のシワなんか志波っちょでも追随を許さないってカンジに深くて、さらには目も座るし口もへの字に曲がるし。
ここまで不機嫌な佐伯くんなんて、初めて見る……かも?
え、え? 私、なんかした? 何か変なこと言った??
……でもその不機嫌絶頂な佐伯くんの後ろじゃ、なぜかマスターが声を殺して肩をふるわせてるんだけどなぁ……。
「で、誰」
「え? だ、誰って」
「それ塗ったヤツ」
「この爪? 誰、って」
「……別に、オレには関係ないけど」
そう言ってそっぽ向いちゃう佐伯くん。
な、なんだかなぁ……関係ないなんて言っちゃうなら聞かなきゃいいのに。って、これは佐伯くんの天邪鬼発言か。
「私にネイル塗ってくれる人なんて一人しかいないじゃない」
「……クリスか?」
「へ? あ、なるほどね。くーちゃんもお願いしたら塗ってくれるかもね!」
「……」
「に、睨まないでってば〜。竜子姐しかいないじゃん!」
「………………は? 藤堂?」
なんで睨まれなきゃなんないんだかわからないんだけど。
ところが、困惑しながら告げたその名前に佐伯くんは目をまん丸に見開いた。
あれ? そんな意外?
「竜子姐ってネイルの勉強してるんだよ。佐伯くん、知らなかった? マニキュアの新色出るとね、竜子姐ってすぐに購入して私やぱるぴんたちで練習するんだよ。今回の花言葉のマニキュアは濃色ばかりだからまた練習台になってくれって言われて」
「……お前、それで了解したのか? おまじないつきのマニキュアを?」
「えぇ? だって女の子だよ? おまじないなんて無効になるに決まってるじゃない! あ、でも竜子姐ならいいかもね! カッコいいし並みの男子より強そうだし。『我が伴侶』にぴったりかも!」
「…………」
それにそれに、竜子姐だったら女子の気持ちもしっかりわかってくれるし、その辺の男子よりもずっとずっと理想的かもしれないなぁ。あ、でも強さと優しさっていうなら密っちもそうかな? あー、でも密っちじゃ『我が伴侶』っていうより『我がお姉様』ってカンジになっちゃうかな。あはは。
……なんてこと一人で思ってたときだ。
不意に感じた殺気に、私はびくんとすくみあがって、ゆっくりと佐伯くんを振り返る。
そこには、両腕を組んだまま仁王立ちしつつも、とびっきりのさわやかな笑顔を浮かべた佐伯くんが。
但し、額に交差点マークあり。
「え、ちょ、ど、どうしたの佐伯くん!?」
「別に? どうもしないけど?」
「ってプリンスしゃべりになってるじゃんっ!」
「それよりさん、開店前にそのマニキュア落とそうか?」
「えええ!? アセトンで!?」
「当たり前だ。今日のはアセトンの刑」
「なんで罪になってるのー!?」
プリンススマイルに黒オーラを背負った佐伯くんはまさに無敵。
……まぁ、結局はマスターが間に入ってくれて、私はネイルリムーバーを買いに行くことが出来たんだけど。
開店直前にコンビニまで走って行こうとお店の裏口を開けたところで、私は佐伯くんに呼び止められた。
「いいい急いで帰ってくるから! 100メートル18秒で行ってくるから!」
「遅いだろ、それ……。そうじゃなくて、ほら」
「え?」
びくつく私にため息つきつつ、佐伯くんが私の右手を掴んでその手に何かを落とした。
……小銭入れ?
「あ、何かお遣い?」
「そうじゃない。ほら、つけ爪ってあるだろ? それも一緒に買ってこいよ」
「え? なんで?」
「なんでって……よく知らないけど、つけ爪なら簡単に取り外しできるんだろ?」
「そうだけど。……あ」
私ははっとして佐伯くんを見上げた。私と視線のぶつかった佐伯くんは、なんだか気恥ずかしそうに髪を掻きあげてぷいっと横向いちゃうけど。
もしかして、私に気を遣ってくれてる?
珊瑚礁で働くときにいちいちリムーバーでネイル落とさなくていいように、とか。
うわぁぁ、なんかすっごく感動しちゃうんだけど。
「い、いいよ佐伯くん。そんなの、自分のお小遣いで買えるから」
「いいから。こういうのはサラッと流せ」
「でも」
「いいんだ。このくらい」
小銭入れを返そうとした私の手を押し返す佐伯くん。
い、いいのかな。佐伯くんにこんなことしてもらったなんてファンの子にばれたら私、吊るし上げどころじゃ済まないよね。
うわーうわー、親友特権! なんかすっごく優越感!
私は素直に佐伯くんの厚意を受け取ることにした。渡された小銭入れをぎゅっとにぎりしめて、笑顔を見せる。
「ありがとう佐伯くん!」
「あー、うん。さっさと戻って来いよ?」
「マッハで戻ってくるであります、隊長!」
「あのな、マッハっていつの時代だよ……。あ、それから」
びしっと敬礼した私に苦笑しながら、佐伯くんは言葉を続けた。
「そのつけ爪、藤堂に塗らせるなよ?」
「え? なんで? 自分でやるより竜子姐に頼むのが一番綺麗に出来そうなのに」
「だからそれはオレが……」
「……え?」
私、びっくりしちゃって。
ものすごい勢いでもう一度佐伯くんを見上げたら、佐伯くんはそんな私の反応にたちまちカーッと赤くなっちゃって。
「……塗って、や……らなくもない」
って、そっぽ向きつつもいつもの佐伯くん節。
うわ、もう駄目。
佐伯くん、可愛すぎる!!
そのままゴロゴロと悶えたいのを必死で我慢した私は、再度びしっと敬礼して、
「その時はよろしくであります、隊長!」
「あ、ああ、うん。なら、よし」
そして佐伯くんは照れ隠しなのか、私の頭に手を伸ばしてきて、わしゃわしゃっと乱暴に撫でてくれた。
後日。
「……なぁ、これってフツーのマニキュアだろ?」
「そうだけど……フツーじゃないマニキュアってあるの?」
あの時買ったつけ爪に佐伯くんがマニキュア塗ってくれることになったから、私は自分の家からストックしてあったマニキュアを何色か持ってきたんだけど、それら全部を1個ずつ確かめた佐伯くんてば、なぜか難しい顔をして。
「オレが塗るんだよな?」
「うん。塗っていただきますよ?」
「それなのに、フツーのマニキュア持ってくるのか? お前は」
「えぇ? だからフツーじゃないマニキュアってなに?」
押し問答を繰り返す私と佐伯くんの背後で、いつものようにマスターはお腹を抱えて笑いを堪えているのでした。
もう、なんでなんだろ?
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