、ちょっとケータリングに行ってくれるかい?」
「は? うちってケータリングなんかやってたの?」
「今日だけ特別なのよ。はいこれ、注文受けたお茶っ葉とポット一式。ちゃん、ハーブティは淹れられるわよね?」
「大丈夫だと思うけど……一体どこに持ってくの?」
「お客さんははね学の化学準備室で待っているらしいから、急いでおくれ」

「……若王子先生??」



 小話7.出張ミルハニー 〜若王子編〜



 お盆も過ぎて、新学期の始まりまでカウントダウン! という8月下旬の昼下がり。

「なんでこんなあっつい日に車で送ってくれないのパパー!!」

 はね学の校門に辿り着いた頃には、流れ落ちる汗でお茶が作れ……るわけもないんだけど、まぁそのくらい今日は暑くて。
 私はふらふらと校門の鉄柵に寄りかかろうとして、あやうくヤケドするところだった。
 最高気温36度! 現在記録更新中!

「うう……若王子先生もなんだって学校にハーブティのデリバリなんて……」

 私は開けっ放しの正面玄関から校内に入った。
 靴を指定の靴箱に入れて、上靴を持ってくるの忘れちゃったから、それは来客用のスリッパを借りて。

 電気もついてなく日も差しこまない静かな廊下を、ぺたんぺたんと足音を響かせながら、若王子先生が待ってるという化学準備室へ。

 なんだかすっごく静かだなぁと思ったけど、体育系の部活はインターハイも終了してひとときの休憩期間なんだっけ。
 志波っちょ、残念だったなぁ……。甲子園、初戦敗退だったんだよね。
 勝ち進んで行ったら応援に駆けつけようって思ってたんだけどな。メールでお疲れ様って伝えたら、志波っちょらしくサンキュ、とだけ返ってきてたっけ。

 そっかそっか。高校3年生の夏の青春が過ぎ去ったからこんな静かなんだ。
 そう考えるとこの静けさもなんだかしんみりするかなぁ。

 などなど考えながら、ようやく化学準備室の前。

 こんこんこんっ

 私は3回ノックして返事を待つ。

 ややしばらくして、油の切れた音をたてながら鉄の扉がゆっくりと開いた。
 そこからひょこっと出てきたのは、ひさしぶりのくせっ毛頭とのほほん笑顔。

「や、さんいらっしゃい。先生、待ってました」
「こんにちは、若王子先生! お邪魔していいですか?」
「どうぞどうぞ。奥のソファに座ってください」

 久しぶりに見る若王子先生は、トレードマークの青シャツ黄色ネクタイじゃなくて、休日出勤のせいかピンクのポロシャツにジーンズという普段見られないレア私服姿!
 うわーうわー! 若王子先生のジーンズ姿! かっこいー! なんかすっごくテンション上がっちゃうんだけど!
 その上から白衣を羽織ってるのもいいなぁ……。

 ……写メ取ったら怒られるかなぁ……。

 にこにこうずうずしながら勧められたソファに座り、目の前の小さなテーブルに自宅から持参したティーセットのバスケットを乗せる。

 若王子先生はというと、実験器具なんかをいつも洗ってる水場で電気ポットに水を入れて……って。

「ちょ、ちょ、若王子先生っ!? もしかして、それでハーブティ淹れるつもりですか!?」
「そうですよ? 先生いつもこの水でコーヒー飲んでます」
「え〜……」
「踊り場の水道と同じ管から取ってる水だから大丈夫。先生が実証済みです」
「大丈夫なのはわかりますけど、なんかイメージ悪いなぁ……」
「やや、さん贅沢言っちゃいけませんよ?」

 そうなんですけど〜……。

 そうこうしているうちに若王子先生は水を汲み終えて、ポットをコンセントに繋いじゃうから、仕方ない。
 私は持参したバスケットを開けて、中から乾燥ハーブやティーポットを取り出した。
 今回ママが用意したのはえーと……カモミールとジャスミンと……気分を落ち着かせる、鎮静作用のあるハーブのブレンドみたい。

「若王子先生、突然ハーブティの出前なんてどうしたんですか?」

 心安らかに、なんて成分のお茶、若王子先生には必要なさそうなイメージなんだけどな。
 私が不思議に思って声をかけると、カーテンを薄くめくってグラウンドの方をのぞいていた若王子先生が振り返ってにっこりと微笑んだ。
 そして自分のデスクの椅子をひっぱってきて、私の目の前に腰掛ける。

「このポット旧式なんです。お湯が沸くまで少し時間がかかるから、さん、先生と少しお話しよう」
「え? はい、それはいいですけど」

 いつもと変わらない笑顔の若王子先生なんだけど、なんだかちょっと違和感。
 その違和感がなんなのかはわからなくて、私は首を傾げながら若王子先生を見上げた。

「えーと、どうしてハーブティの出前を頼んだか、でしたね?」
「はい。どうせならミルハニーに来てくれればよかったのに。私が淹れるよりもママが淹れたほうがずっとずっと美味しいのが飲めたのになぁって」
「実はこのハーブティは、先生が飲むために用意してもらったんじゃないんです」
「えぇ? じゃあ誰が飲むんですか?」

 私は目をぱちくり。
 すると若王子先生はにっこりと微笑んだまま、自分の真後ろのカーテンを勢いよくあけた。

「わぁっ」

 突然飛び込んできた真夏の陽射しに、私は慌てて両手で目の前を覆って。

 ほんの数秒、光に慣れてきた頃。
 グラウンドに誰かがいることに気づいた。

「……あれ?」

 夏休み前に見たときより短くなってる髪に少し驚いたけど。
 その人以外誰もいないグラウンドのトラックで黙々と走っていたのは、リッちゃんだった。

「若王子先生、今日って陸上部お休みじゃないんですか?」
「お休みですよ? インターハイも終了しましたし」
「ですよね? うわ、すごいなリッちゃん。自主練してるんだ」

 なんかちょっとびっくりしちゃった。
 リッちゃんって若王子先生にしつこく勧誘されて、渋々陸上部に入ったんだと思ってたけど、しっかり打ち込んでたんだ。

「あ、わかった! このハーブティ、リッちゃんへのご褒美なんでしょ! ピンポンですかっ」

 わぁぁ、これは帰ったら早速密っちに報告だ!
 若王子先生とリッちゃんってアヤシーよねー! なんて言ってたけど、みんなお休みの学校で禁断のらぶらぶ特訓ですかー!

 なんて一人勝手に盛り上がっていたら、若王子先生はちょこっとだけ困ったように眉根を寄せて。

「ブ、ブーです。これはご褒美じゃなくて言うなれば治療です」
「わーやっぱりー!! ……じゃなくて、え? 治療、ですか?」

 うん、と。
 若王子先生は大きく頷いて、椅子を回転させてグラウンドを見つめた。
 視線の先のリッちゃんは、一心不乱に足を前に運んでる。

「先週、陸上部もインターハイを終えました。大崎さんすごかったです。なんと100メートル個人で4位入賞しました」
「ホントですか!? すっごいリッちゃん! 陸上部に入って1年もたってないのに全国4位!」
「うん、みんな驚いてた。そしてみんな大崎さんの健闘を称えました。……でもね」

 遠くを見つめるように、若王子先生の目が細められる。

「解散したあと、大崎さんものすごく泣いたんです」
「泣いた……?」
「全力を出し切れなかったことを悔いて泣いたんです」

 若王子先生は、呆気にとられてる私を振り向いて、にこっと笑顔を見せる。

 全力を出し切れなかったって、体調不良だったとか? 足を怪我してたとか?
 一体どういうことですか? って視線だけで訴えてみれば、若王子先生はこっくりと頷いて。

「大崎さんは先生がスカウトして陸上部に入れました。大崎さんにしてみれば面倒くさかったと思います。朝練はあるし放課後は潰れるし、先輩後輩の上下関係もあるし」
「確かにリッちゃんが苦手そうなことですよね、それ」
「だから練習もほとんど適当でした。まぁ、その適当な練習でもあれだけのタイムを出すんですから、大崎さんは伸びしろがものすごくある選手だったんです」
「はい」

 体育祭も活躍してたもんね。3−Bのポイントゲッター! って。

「6月の終わりくらいだったかな。大崎さんがインターハイ代表選手に選ばれたとき、1年生の頃から陸上部でがんばってきた子が代表落ちしました」
「あー……なんか、気まずいですね、それ」
「うん。でもそれは純粋にタイムで競う選考会での結果だったから、代表に選ばれなかった子も涙を浮かべながらも納得してくれました」

 なんか、そういうの聞いちゃうとやるせないな。
 どんなに努力してもがんばっても、才能とセンスのある人のちょこっと本気に敵わないなんて。

「でもその日以来、大崎さんは真面目に練習するようになったんです。大崎さんなりに何か感じたんだね。自分が走らないことで傷つく誰かがいること、自分が本気にならないことで踏みにじられる努力があることを」
「……はい」

「でもね、遅かったんです」

 いつもの穏やかな口調のまま、若王子先生は少しだけ目を伏せて。
 グラウンドを走るリッちゃんに背を向けて、ソファに腰掛けてる私を見下ろした。

「そりゃそうです。インターハイはまさにその頂点に向けて1年間必死に努力を続けてきた人間が集まる場所だ。どんなに才能があったって、たった1ヶ月半でたどりつけるはずがない。大崎さんはその時持ってる実力は出し切ったけど、本来自分の中に眠っている能力を開花させきることはできなかった」
「で、でも、それでも4位入賞なんてすごいじゃ」
「大崎さんはね」

 若王子先生はぷすぷすと独特な沸騰音を鳴らし始めたポットに歩み寄った。

「大崎さんは、泣いたんです。もっと早く練習を始めていれば、もっと真剣に走ることに向き合っていれば、って。こんな中途半端な終わり方をしてしまった自分のせいで、上を目指していた仲間の晴れ舞台を台無しにしてしまったって、すごく後悔してた」
「リッちゃんが、仲間のために……?」
「はい。ね、さん。大崎さん、変わったと思いませんか?」
「思います!」

 私は力強く頷いた。

 誰とつるむことなく、いつも一匹狼で飄々としてて、他人は他人、自分は自分、やりたいことやって何が悪いっていう生き方してたリッちゃんが、そういう理由で泣いたなんて。

「インターハイ以来、大崎さんは毎日ああしてただがむしゃらに走ってるんです。今日みたいに暑い日も、なかなか休もうとしない」
「え、ちょ、止めなきゃ駄目じゃないですか! こんな暑さの中で走り続けてたら熱中症になっちゃいますよ!?」
「大丈夫。そのために先生がここで見守ってるんですから。気温も湿度も時間も、全部計算した上で、休憩は取らせてますよ」
「あ、そですか……」

 ほ、と息つく私。

 でもそうなると、若王子先生ってリッちゃんのためにこんながらんがらんの学校に出て来てる、ってことだよね?
 うわ、なんかすっごいいい話聞いたあとだってのに、私のテンション変な方向に行っちゃいそうなんですけど!

 すると、ポットをコンセントから引き抜いてテーブルの上まで運んできた若王子先生が。

「さて、ここでようやく最初の話題に戻ります。先生が頼んだハーブティ、おいしく淹れてくれますか?」
「おまかせクダサイっ! 効能バッチリの淹れてみせますよっ」
「やや、さすがはさんです。うんうん、頼もしい限りです」

 にこにこしながら若王子先生は私の目の前に再び腰掛けた。
 私はポットのお湯をティーカップとティーポットに注ぎながら、ハーブティを淹れる手順を頭の中で反芻して。

「さっきこのハーブティ、リッちゃんの治療に使うって言いましたよね? 疲労回復ならビタミンのあるハイビスカスとか、あとルイボスとか、そっちのほうがよかったんじゃないですか?」
「そうだね。でも大崎さんに取り急ぎ必要なのは気持ちを落ち着けさせることです」

 ガラスのティーポットの中で、徐々に黄金色に染まっていくお湯を見つめながら、若王子先生は言った。

「先生、後悔は無駄なことだと思いません。人は誰だって間違うし……踏みとどまって動けなくなることもある。だけどそれは、さらに高いところへ進むためのステップですから」
「はい」
「後悔しない人間は傲慢だと思うし、自分を省みることは重要なことです。でもね、君たちのような世代はいろいろと思い悩むあまりずぶずぶと沈んでしまうこともあります。そんな自分を傷つけるだけの後悔なら、先生はオトナとして教師として止めなきゃいけない」

 一瞬、若王子先生の顔から笑顔が消えて、初めて見るような大人の真剣な顔になって。
 あまりに真摯な表情だったから、私もいつものようにはしゃぎたてることも出来ずに見惚れちゃったりなんかして。

 でも、ホントに一瞬。
 すぐに若王子先生はいつもの若王子スマイルに戻った。

「今の、ちょっと先生っぽくなかったですか?」
「ああ惜しい! 今の付け足しがなかったら金八先生よりも説得力あったのに!」
「ややっ、タイミングを間違えましたか。しくったぜー」

 ちっとも困った様子もなく笑う顔もいつもどおり。
 でも若王子先生、私今の、すっごく感動しちゃいましたよ?

さん」

 そろそろ出来上がりかな、という頃。
 若王子先生はよっこいしょ、と立ち上がったあと、化学準備室からグラウンドに通じるドアに手をかけながら、私を呼んだ。

さんもめいっぱい青春してください。後悔も挫折もその先も、青春時代を生きる君たちの特権なんですから」
「はいっ! もちろんです!」
「や、さすがはさん、いい返事です。それじゃあ先生、大崎さんを呼んできますね」
「わかりました。とびっきり美味しいの用意しときますね!」

 グラウンドからの逆光で、若王子先生の笑顔は半分しか見えなかったけど。

 後悔も挫折もその先も、か。なんだか思いがけずいいお説教聞いちゃったな。
 もちろん若王子先生に言われなくたって、ちゃんは精一杯青春しちゃうけどね!

 とはいえ。

 せっかくの師弟愛の雰囲気をぶち壊すのも野暮ですから。
 私はハーブティを注いだあと、手早く荷物を片付けて。

 先帰ります、ってメモだけおいて。

 二人が戻ってくる前に化学準備室を後にしたのでした。

 今日のことは日記に書き留めるだけにしておこうっと。ごめんね、密っち!

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