『カレシができました』

 そういう書き出しで始まったのは2008年7月20日の日記。
 そこにはのはにかみと戸惑いがつづられていた。



 72.消えた人魚



『なんかもう、何から書けばいいのやらってカンジ。
 今日から私は佐伯くんのカノジョになったわけで。
 あーもー、思い出すだけで間抜けすぎるよ私って……。
 ほんの数時間前まで、確かに佐伯くんは友達で親友で元仕事仲間でクラスメイトだったのに。
 一瞬でカレシになっちゃったし。
 といっても、あの瞬間にいきなり佐伯くんのこと好きになったわけないし。
 だからといって、いつから好きだったかと思い返してみても、境目なんかぜんぜん思いつかない。
 あー私、ユキのこと好きなんだなーって自分で気づいた前の恋とは全く違う始まり方だ』


 いつもの日記とは違う、独白めいた記述。
 これ、このまま読んでていいのか? って、何度も自問自答した。

 初めてだと思う。の笑顔の裏の奥底の、本当の気持ちに触れたのは。


『でもひとつだけわかることは、今現在私は佐伯くんのこと好きなんだってこと。
 それがいつからとか、そんなことは置いといて。あーでも気になる。自分のことながら気になる!』


 オレだって気になるっつーの。


『でもなんか順番があべこべだよ佐伯くん。つっこんじゃうぞっ。
 なんで告白の前にチューが先にくるかな! そういえば、ハグハグしてもらうのも初めてじゃない気がするし』


 そういうとこだけ覚えてんなよっ。


『あーでも考えてるだけでどきどきする。
 やっとこできたカレシが、あの佐伯くんなんだもんね!
 でも学校のみんなにバレないようにちゃんと気をつけなきゃ。
 誰にもナイショ。誰にも言わない。
 私と佐伯くんだけの秘密だと思えば、きっとこの状況も楽しめるよ。うん』


 これはが言い出したことだ。
 もちろんオレだってこんなことが明るみになったらエライことになるってわかってたから、にお願いするつもりだった。
 一番幸せであってほしいヤツに、一番嫌なことを強いるオレ。

 お前、そのことわかってたから、自分から言ってくれたんだろ?
 オレの負担が軽くなるように。
 そういうやつだもんな、は。

 でも、オレがもう一度読みたかったのはこんな部分じゃなくて、このあとだ。


『でもこれで、私も呼んでいいってことなのかな』


 がオレのために、オレにすら隠していたこと。


『学校でボロが出たら困るから、日記だけにしとくつもりだけど。ずっとずっと呼んでみたかった』


 オレも、それを望んでた。


『  瑛くん  』


 そのあとはいつものように、ぎゃー、だの、わー、だの。
 日記だってのに、がいつも言ってるような悲鳴が書きなぐられていて。

 この部分。

 何度読み返しても……顔が熱くなってくる。

 そして、欲が出てきたんだ。
 お前の声で聞きたいって。
 もう一度会いたいって。


 やっぱりオレ、お前と離れるなんて無理だ、って。


『2008年11月8日 薄曇り
 今日、私の軽率な行動で、瑛くんとの仲がバレそうになった。
 瑛くん怒ってたな……と思ったんだけど、さっき電話くれて私の心配してくれた。
 怒って当たり前だったのに、やっぱり優しい。それに嬉しい!
 でもこれからはもっと気をつけなきゃ。
 あ、でもでもいいこともあったもんね!
 ようやく、よーーーーやくっ!!
 ユキとあかりちゃんがハッピーエンド! おめでとーっ!!』


 文化祭のときは、に悪いことした。今でも思い出すとなんかチクチクする。
 あの時針谷に言われたことが全てだ。
 オレは、を何も庇ってやれなかった。
 ……いや、庇ってやれなかったんじゃなくて、庇わなかったんだ。

 お前にあんな不自然な笑顔作らせて。
 お前にまた嘘をつかせて。


『2008年11月10日 雨
 やっぱり私、瑛くんのファンの子に目をつけられてる。
 今日は通りすがりにわざとらしく肩をぶつけられた。
 竜子姐と密っちがすかさずかばってくれたけど……。
 こんなこと、ずっと続くのかな』


 そして、このページ。
 本当に本当に自己嫌悪に陥った。
 気づいてなかった。
 がこんな嫌がらせされてたことに。
 事実と違う悪質な噂が流れてたのは知ってたけど、こんな目にあってたなんて。


『 怖い 』


 怯えてたんだ。

 のこの言葉で、ようやく気づいた。

 がいつも笑ってたのは、なにも自分に真っ正直に生きてたからじゃない。
 アイツ、人の和が崩れるのに異様に敏感だった。いっつもまわりを見て雰囲気を盛り上げるために馬鹿なお笑いキャラを買ってでてた。

 臆病だったからなんだ。
 人の負の感情を見るのが嫌だったんだ。それがたとえ自分に向けられたものではなかったとしても。

 『いいヤツ』じゃなかったんだ。
 だって、オレと同じで、本当の感情を隠して笑顔の仮面をかぶってたんだ。

 その場の雰囲気を壊さないように。
 ……みんなのために、自分の感情押し殺してたんだ。

 オレはの本当に気づきもしないで。

 そんなオレに天罰が下ったのかと思うような、突然の珊瑚礁の閉店。
 辛くて、悲しくて、の笑顔と温もりが無性に欲しくなってはばたき山まで追いかけて。

 なら絶対にオレのわがままを聞いてくれるってわかってた。
 甘えきってたんだ、オレ。


『2008年12月26日 曇りのち雨
 今日一日、瑛くんと連絡が取れなかった。電話もメールも返事なし。
 大丈夫かな。どうしちゃったんだろう?
 落ち込んでて返事するのが億劫なだけならいいんだけど……。
 もし明日になっても返事がなかったら、珊瑚礁まで行ってみよう。
 今この時に瑛くんを励ましてあげられなかったら私、なんのための彼女なんだか』


 連絡を急に取らなくなったオレに対して、不安な心情を綴った日記が続く。
 年末も、元日も、いつものならテンション高い日記になってたんだろうけど、書かれているのはオレを心配する言葉だけ。

 そして、日記は2009年1月30日で終わっていた。
 オレがに別れを告げた日の前日まで。

 その後のページはずっと白紙だ。

 オレはぱたんと日記を閉じる。
 そして、テーブルに肘をついて頭を抱えた。

「ごめん」

 届かない言葉を呟く。

 オレはいつだって自分のことばっかりで、お前のことなんかちっとも思いやることができなくて。
 そんなことに気づきもしないで、お前に要求するばっかりで。
 あのとき辛かったのはオレだけじゃなかったのに。
 お前はぎりぎりで踏みとどまって、自分も辛かったのに無理にそれを隠してオレに手を差し伸べてくれていたのに。

 それを見捨てるようなことを、オレは。

「……

 制服の下の、ガラスのリングをシャツの上から掴む。
 ここにあるのはのリング。

 謝りたいんだ。
 そして、呆れるくらい図々しいってわかってるけど、もう一度。

 オレは、日記帳の最後のページを開いた。

 いつもの黒いボールペンじゃなくて、青いインクで書かれた文章は、オレに贈ってくれたあのガラスペンで書いたんじゃないかって思う。


『瑛くんへ。

 今日、みんなが航空券をくれました。

 瑛くんのいる街までの航空券だよ。

 みんなが私の背中を押してくれた。

 だから明日、会いに行きます。

 でもきっと、何も伝えられないんじゃないかなぁって思うんだ。

 気づいてるかなぁ。私って、瑛くんに負けないくらいに見栄っ張りなんだよ?

 みんなに嫌われたくなくて、無理して笑ってるときも結構あるんだよ。

 普段からそんなことしてるから、肝心な時にも本音が言えなくなっちゃうんだよね。

 だから、この日記を贈ることにしました。

 この日記に書かれてることは、全て私の本当だから。

 瑛くん、好きです。

 約束どおり、これからも笑ってるからね。

 それから、時間がかかるだろうけどこの気持ちも忘れるから。

 だから、瑛くんもひとつだけ私のお願い聞いてください。

 どうかこの日記を最後まで読んでください。

 そして、本当の私を知って欲しい。

 この先は、瑛くんが自分を偽ることなく自分に素直に生きられますように。

 はね学で瑛くんに会えてよかったよ。本当に。

 それでは。

 


 に貰ったキャンドルグラスの光に包まれた部屋の中でそれを読んで、涙が出た。
 深い後悔、強い罪悪感、それから、愛しさ。

 オレは、間違ってたんだ。

 みんなの前で土下座したっていい。

 もう一度、お前に会って、それから。

『……当機は最終着陸態勢に入りました……』

 アナウンスが入り、オレはテーブルを元の位置に戻す。
 窓の外を見れば、懐かしい羽ヶ崎の海と街が見えていた。

 もうすぐだ。

 オレは目を閉じる。

 
 今オレ、お前に会いたくて仕方ないんだ。



「……ついた」

 空港からタクシーを飛ばして、辿り着いた懐かしいはね学。
 なんて、感慨深く校舎を見上げてる場合じゃない。

 卒業式はどうやら終了した直後らしい。
 外にはまだ誰も出てきてないものの、3年の教室からはにぎやかな声が響いて来ている。
 も、まだ校内にいるのか?

 オレは意を決して玄関に足を踏み入れた。
 あ、上履き持ってきてない。
 ……いや、これからを探すのに来賓用スリッパはないだろ?

 などと思っていたら。

「あれ……えぇっ!? 佐伯くん!?」
「え!? ほ、ホントだ、佐伯くんだぁ!」

 げ。

 靴箱前の廊下で、こっちを見て目を丸くしてる女子が二人。
 なんか見覚えあるようなないような、名前は思い出せない女子だ。

「佐伯くん、来てくれたの!?」
「嬉しい! 佐伯くんと一緒に卒業できるなんて!」
「あ、いや……」

 つい条件反射でいい子ぶるオレ。

 ていうか、別にお前らのためにきたわけじゃないし!

 ついでに、この二人の大声のせいでどこからともなく他の連中が集まってきだした。
 こんなとこで時間くってる場合じゃないってのに、身動きがとれなくなる。

「ちょ、ちょっとごめん! オレ、僕、用事が」

 わらわらと集まってくる女子にあっという間に囲まれて。
 くそ! どうしたらいいんだよ!

 と心の中で舌打ちしていたら。

「佐伯テメェ! どのツラ下げて来てんだよ!?」

 懐かしい、針谷の怒声。

 オレもオレのまわりに群がってた女子もぴたりと動きを止めて、声が飛んできた廊下を振り向く。
 そこには、相変わらずの赤いツンツン頭をした針谷が肩を怒らせて立っていた。
 胸には卒業生用の造花。

「針谷……」
「お前のせいではなぁ!!」

 づかづかと鼻息荒く近寄ってくる針谷の剣幕に、オレを取り囲んでいた女子もささっと離れて行く。

 わかってる。覚悟は出来てる。
 オレがいなくなったあと、お前たちがのことをずっと守っててくれたんだよな。
 殴られたって構わない。
 だけど今は、を探すのが先だ。

「悪いけど、あとにしてくれ」
「逃げんのかよ!」
「逃げない。必ず後で説教受けるから」

 目の前まで来てオレの胸倉を掴み上げた針谷を、冷静に見返す。
 こんなこと言って針谷が納得するとは思ってない。
 とりあえず1発殴られておけばいいか?

 そんなことを考えていたときだ。

「ハリー、ちょぉ待ち!」
「佐伯が来たんなら、を探すほうが先だろ!?」

 どたばたと走りこんできたのは、西本と藤堂だ。
 血相変えて、っていうのが一番しっくりくる表情をして、額にはうっすらと汗も書いていて、卒業式というよりは体育祭の後ってカンジだ。

 じゃなくて、今、なんかひっかかること言わなかったか?

がどうかしたのか!?」

 針谷の肩をのけて、オレは西本と藤堂の元に駆け寄る。
 いきなり態度を変えたオレに外野がざわめいてるけど、そんなことどうでもいい!

 西本は眉間にシワを寄せながらオレを見上げて。

に会いに来たんやな?」
「ああ。いまさらって思うだろうけど」
「ったく、遅いんだよアンタ!」

 藤堂が苦々しく言い放つ。

 なんだ?
 なんか様子が変だ。

 すると、今度は針谷がオレの腕を掴んで走り出す。

「おいっ、なんだよ!?」
「うるせぇ! いいから来やがれ!」

 有無を言わせず針谷はオレを引っ張っていく。
 後ろを振り向けば、西本と藤堂も厳しい顔をして着いて来ていた。

 つれて来られたのは3−Bの教室。
 針谷が乱暴に開け放った扉の向こうには、懐かしい顔が揃っていた。

「佐伯くん!?」
「来たのかよ!?」
「あ、ああ……」

 目を丸くしている元クラスメイトたちの中で。

「……大崎?」

 教壇の近くで、若王子先生と志波に心配そうに見守られている大崎の姿が目に飛び込んできた。
 いつも尊大な態度で偉そうにしていた大崎が、なぜかうっすら青ざめているようにも見える。

「瑛くん! 大変なの!」
「あかり……? は?」

 焦った様子で駆け寄ってきたあかり。
 困り果てた顔でこっちを見てるのはクリスと水島。
 氷上と小野田とセイは、他のクラスメイトと一緒に額をつき合わせて、何事か真剣に討論してる。

 なのに、がいない。

 以外の3−Bのメンツは全員いるのに。

「あかりっ、はどこなんだ?」

 なんでそんな泣きそうな顔してんだよ?

に何かあったのか!?」
「瑛くんっ……ちゃんが!」

 どくん。

 が、どうしたんだ?

 オレは早まる鼓動を感じながら、あかりの言葉を待った。

 そして、あかりは口を開く。

「攫われたのっ」
「さ、攫われた!?」

「カメリア倶楽部に、姫子先輩に連れていかれちゃったのっ!!」


「…………は?」

Back