制服に腕を通し、まだ薄暗い部屋を出る。
 時刻は朝の6時になろうというところ。この時間なら、きっと間に合うはず。

 リビングを覗けば両親がいたけど、挨拶もせずに玄関に向かう。

 靴を履いて鞄を持って。
 でもオレは家の中を振り向き、最後にはわがままを許してくれた両親に向かって声をかけた。

「行って来ます。……今日は、じいちゃんのとこに泊まるから」

 そして玄関を開け放つ。
 3月に入ったというのに、ぴりっと冷えた今朝。

 今から1時間後。
 オレは飛行機に乗って、高校時代3年間を過ごしたはばたき市へと向かう。



 71.の日記



 朝一便ということもあってか、空港は思ったより空いていて、手荷物検査もスムーズに終えて、オレははばたき市に向かう飛行機に乗り込んだ。
 定刻どおりに離陸する飛行機。
 窓際の席に座るオレの隣は空席だった。

 しばらくしてベルト着用サインも消え、オレはテーブルを倒してその上に鞄を乗せた。

 そして、1冊の日記を取り出す。

 もう何度も読み返した日記帳。2006年の4月から始まるその日記には、真っ直ぐな心情が綴られていた。
 の、日記帳。

 表紙を撫でてページをめくる。

 バレンタインデーにがオレん家の前にいるのを見つけたとき、一体なんの冗談だって思ったんだ。
 エイプリルフールには早いだろ?
 ていうか、なんで制服着てんだよ?
 挙動不審にウチを見つめているを、オレは唖然として見てた。

 いろいろ聞きたいこと、言いたいこと、たくさんあったのにオレがとった態度は冷たいもので、は傷ついたんじゃないかって……今でもずっと後悔してる。
 でもオレはそういう態度しかとれなかったんだ。
 どうしていいかわからなくて。
 本当は嬉しかったのに、この期に及んで見栄を張ることのほうを選んだオレに、お前、いつものように笑ったよな。

 日記帳の1ページ目。
 見慣れたの丸いくせ字で、でかでかとかかれた言葉。

『自分に素直に今の気持ちを赤裸々に! 日記に嘘をつくのはやめましょう!』

 きっとあの天真爛漫な親父さんかおふくろさんの受け売りなんだろうけど、何度見ても笑える。
 日記に限らず、お前はいっつも自分に素直に真っ直ぐに生きてただろ?
 オレとは違って。

 ……そう、この日記を見るまでは思ってたんだ。

 バレンタインにお前が来てオレにくれたプレゼント。
 あのガラスペンはよかった。デザインもいいし、書き具合もいい。思えばから貰ったプレゼントはいっつもセンスよかった。
 
 そして、お前がいつも身につけてたガラスのリング。今それは、オレの胸元で揺れている。
 オレが灯台に置いてきたリングを見つけてくれた、んだよな?
 あの意味、わかったか?
 オレ、お前に忘れて欲しくなかったんだ。
 お前の側にいたかったんだ。……本当は。

 自分でも最低なことしてるってわかってる。
 忘れて欲しいって言ってお前を困らせたのに、忘れて欲しくなくて、オレのことをいつも思い出して欲しくて、リングを残したんだ。
 お前が困惑すればしただけ、オレのことを長く覚えててくれるんじゃないかって。
 だからクリスマスのプレゼントと一緒にこのリングを見つけたとき、すごく嬉しかったんだ。

 でも、日記帳には正直戸惑った。

 だって日記帳だろ? フツーは人に一番見られたくないモンだろ?
 なんでそれをオレに贈ったんだよ?
 いくらオレでも、人の日記盗み見るような悪趣味ないし。

 そう思って、2,3日は机の上に放置してた。

 だけど日に日に、がこれをオレに渡したことには必ず意味があるんだっていう思いが強くなってきて。
 とうとう日記帳を開いたのは、がうちを訪れてから3日目の夜中。
 あの切子のキャンドルホルダーの灯りの中、オレは日記帳を開いたんだ。


『2006年4月6日 晴れ!
 今日から私も高校生! 今日できた友達は同じクラスになった女の子3人。みんな可愛かったなぁ。
 担任の先生が超イケメン! しかもなんだか天然なカンジで癒し系ってカンジ!
 クラスの雰囲気も悪くないし、高校生活1年目は楽しく過ごせそうな予感。
 ユキははば学で離れちゃったけど、どうだったのかな。やっぱり厳しいのかなぁ、はば学って。
 でもバスロータリーで毎日会えるし、今後もユキとは仲良くやっていけそう。
 同じ学校がよかったな。一緒に登校したかったなぁ……。
 だからこそ、大学は一緒に行けるようにがんばるもんね! 目指せ一流大!』


 らしい文面に口元が緩んで、でもいきなりアイツの名前が出てきてムッとして。

 それからも学校での他愛の無い出来事と一緒に、ほぼ毎日はば学のアイツのことが書かれていた。
 ユキが小テストで満点取ったって言ってた。スゴイ!
 ユキがクラス委員に選出されたみたい。スゴイ!
 ……アイツに関する記述の最後は、大抵『スゴイ!』で締めくくられていて。
 は、本当にアイツのことが好きで、尊敬してたんだなって初めて思い知ったんだ。

 日記の最初の頃はそんなカンジで、全然おもしろくなかった。
 もしかしてコレ、なりのオレに対する嫌味な仕返しかよ? って思うくらいに。

 だけどある日のページで、オレは手を止めた。


『2006年4月28日 曇り
 佐伯くんと初めて会話した!!』


 そう書かれてた。
 日付に覚えが無くて、オレは続きをすぐに読んだ。


『はね学の王子様と会話しちゃったよー! 私が余所見しててぶつかっちゃったのに、
 「大丈夫?」って優しく言ってくれた!
 あんなにカッコいいのに性格もいいなんてサギだよサギ!
 みんながきゃあきゃあ言うのもわかるなぁ。また偶然装ってぶつかってみようかなぁ。あー、だめだめ、迷惑厳禁』


 廊下でぶつかった? と?
 全然覚えてない。と初めて会ったのって、珊瑚礁にバイトしにきたときじゃなかったのか?

 でも、読んでて噴出した。
 この頃の、完全に騙されてたんだなって。
 そしてミーハーな言葉のあとに、自制するところもすっげーらしい。


『2006年5月10日 晴れ!
 大事件! 超大事件! なんとバイト先が佐伯くんの家だった!』

『2006年6月3日 ピーカン晴れ
 今日は体育祭。もうちょっとで佐伯くんと2人3脚できたのに! 惜しいぞっ!』


 少しずつ、日記の中にオレの名前の登場回数が増えてくるのを見て、なにか浮き立つものを感じて。
 だけど、まだこの頃の日記はほとんどがアイツのことばかりが書かれていて。

 ミルハニーに寄ってくれた、とか。勉強見てくれた、とか。

 ただ紙の上に書かれただけの文章なのに、アイツと一緒にいられることでが幸せ感じてることが、ありありと伝わってきた。
 それなのに、オレのことと言えば。


『超びっくりー! 佐伯くんってば猫かぶってたし!
 優等生で品行方正で優しくてイケメンで非の打ち所ナッシン! ……だと思ってたら、
 口が悪くて子供っぽくてすぐにチョップしてくる、なんていうかもう可愛いんですけどー!!』


 ……可愛くて悪かったな。
 憮然としながら日記を読み進めて。

 再びオレが手を止めたのは、8月のページだった。


『2006年8月6日 曇りのち晴れ
 ユキ、好きな人がいるみたい。はね学の子って言ってたけど、誰だろう?』


 今までのテンションの高さとは一転した、冷静な文章。
 ていうか、日付にオレは驚いたんだ。

 オレがあかりからアイツの話を聞いたのが10月の終わりくらいだったはず。
 それよりもずっと早く、は知ってたのか。
 日記には、アイツの雨宿りの君を探す約束したことを後悔してるって書かれてて。

 お前、そんなに早くから、こんなに長い時間、アイツのために辛い思いしてきてたんだな……。
 なんでだよ?
 なんで自分が辛い思いしてまで、アイツのためにそこまでしてやるんだよ?

 日記を読みながらそんなこと思ったけど、オレ、わかってるんだ。
 お前はそういうヤツなんだって。自分が辛い思いしたって、自分の大事な人たちが幸せであることのほうが大事なんだって。

 そんなお前を、オレは散々傷つけてきたんだよな……。

 毎日の日記は通常通りテンション高く日常が描かれていて、だけど8月のその日以降はときどき冷静なテンションの低い日記も見受けられた。
 中でもオレが気になったのは、12月8日の日記だ。


『ユキに嘘ついちゃった。
 ユキの好きな人、やっぱりあかりちゃんだったのに、知らない人だって言っちゃった。
 私、なんて最低な人間なんだろ』


 たった3行の短い日記。
 でも人に誠実であることをモットーにしてるにとって、一番許せないことをしてしまったんだって、自分自身を強く責めてるのがありありとわかった。

 だけど、馬鹿だよ。
 、お前馬鹿だ。
 自分が傷つく必要ないのに。もっと自分の幸せ考えてればよかったのに。


『2007年2月14日』


 日付だけが書かれたページ。
 そのページだけ妙にぼこぼこしてるのは、きっと、涙のあと。

 なぁ。
 お前はいつもオレや他の友達が辛い思いしてるときに、身を粉にしてまでも励ましてくれたのに、なんで自分が辛いときに頼らなかったんだよ?
 もっとわがまま言えばよかったんだ。声に出して苦しいって言えばよかったんだ。


『2007年2月20日
 あかりちゃんが珊瑚礁バイトをやめてしまった。佐伯くん、すごく落ち込んでた。
 佐伯くんの気持ちは届かないのかな。
 佐伯くんが素直な気持ちを伝えるの苦手なんだって、私でもわかるのに。
 ユキとあかりちゃんと佐伯くんと、全員が幸せになる道なんて……やっぱりないのかな。
 私にできることってなんだろ?
 とりあえず、今週末は精一杯佐伯くんを励ますのだ!』


 自分が辛いときでも、他人の世話ばっか焼いてさ。
 お前見てると、お前の日記読んでると、落ち込むんだ、オレ。

 2月のそのページ以降、オレの名前が出てくることがまた多くなっていた。
 でもそのほとんどが落ち込んでないか、元気でやってるか、そんなことばかりで。
 ちっとも気づかなかった。がそんなにオレのこと心配して気遣ってくれてたなんて。

 オレは、たった一人がんばってるつもりでいたんだ。


『2007年4月27日 晴れ
 私、もっとみんなのこと考えて行動しなきゃだめだ。
 今日、佐伯くんにユキとあかりちゃんのことを知ってたこと、バレて。
 どうしていいかわからなくて伝えられなくて、でもそれが結局佐伯くんを傷つける結果になっちゃったんだ。
 でも佐伯くんは許してくれた。やっぱり優しいな、佐伯くんって。
 早く失恋の傷から立ち直ってくれるといいんだけど』


 アイツがはば学生徒会の連中と一緒にはね学に来た日。
 オレがにカッコ悪い八つ当たりをした日。
 その日の日記が、コレか?

 なんでオレが『優しい』人になってんだよ? この時、お前もアイツのことが好きだったんだって知らなくて、あんなにひどいこと言ったオレに対して。

 そして、1週間分がぽっかり抜け落ちた7月のページ。
 が珊瑚礁であかりをなじった日からの1週間分が抜け落ちていた。そうだよな、お前、寝込んでたんだもんな。
 お前があんな感情的に他人をなじったのなんか初めて見たから、正直驚いた。
 アイツのことがずっと好きだったんだって知ったのも、この時だったよな。


『2007年7月16日 晴れ
 今日はみんながお見舞いに来てくれた。志波っちょのミルクゼリー超ーおいしかった!!』


 ……志波のミルクゼリー? なんだそれ?


『それに、お店が忙しいのに佐伯くんもお見舞いに来てくれた。
 佐伯くん、私の話も聞いてくれて、すごく励ましてくれた。
 おかげで元気でちゃった。ホント、なんであんなイイ人よりもユキを選んだんだろ、あかりちゃんって。
 きっともう大丈夫。私はユキへの思いを断ち切る。そして、あかりちゃんとユキのことを応援するって決めた。
 いつまでもくよくよしてらんない! 気持ち切り替えて明日からまた学校がんばるぞ!
 佐伯くんのお手製シャーベットもおいしかった!』


 単純なヤツ。
 あんなに好きだったヤツを自分の友達に取られて、なおかつ応援してやるなんて、お人よしも過ぎるだろ。

 お前みたいなヤツ、絶対この先オレみたいなヤツに利用されて辛い思いするに決まってるんだ。

 だから、だからこそ、オレはお前から離れようとしたのに。

 後悔と罪悪感で唇を一度噛み締めてから、オレはページをめくる。
 が、飛び込んできたのは、沈んでるオレが馬鹿なんじゃないかってくらいの久しぶりにテンション高いアホな文章。


『2007年7月22日! 晴れ! もう晴れ晴れ!
 佐伯くんと手繋いじゃったー!!!!!』


 日記帳の罫線も無視して、馬鹿でかい文字でそう書きなぐられたページ。これ、遊園地に行った日のだ。


『私が失恋して落ち込んでるのを励まそうとしてくれたんだって。
 佐伯くん超優しい!! もうあかりちゃんは選択を間違ったね! 絶対ユキより佐伯くんのほうがいい人なのに!』


 いい人って、お前が言うな。


『それなのに余計なコト言って佐伯くんの気分を害した私はなんて嫌な子なんでしょうっ……。
 もっとしっかりしなきゃ。私なんかより佐伯くんのほうがずっとずっと大変なんだから。
 あともう一つ、きゃほー! なコト!
 佐伯くんとのツーショット写真ゲット! デコ全開のなんて顔って言われたけど、もう一生のお宝だもんね!』


 そういえば。
 3年目の文化祭のときに教室アルバム計画をたてたときも言ってたな。
 オレと一緒に写ってる写真で、この時のこの写真が一番気に入ってるって。

 約束通り、お前はプリンターでコピーした写真にもオレにくれた。
 お前と別れてからも、オレ、その写真を机の一番目に付くところに飾ってるよ。
 友達やクラスのみんなに嘘ついて、無理して笑い続けてたじゃなくて、心の底から楽しんでる笑顔を見ていたかったから。


『2007年8月5日 薄曇り
 佐伯くんとふたりで花火見た! しかも佐伯くんの部屋で! マイルームで!』

『2007年9月4日 雨のち曇り
 今日は若王子先生の誕生日。若王子先生の誕生日をなにがなんでも祝おうZ!友の会による作戦も大成功!
 珊瑚礁の仕事でこれなかった佐伯くんもコーヒー届けてくれて、若王子先生楽しそうだった。よかったー!
 それにそれにっ!
 修学旅行の自由行動! 佐伯くんと一緒に回れることになっちゃった! 超ラッキー!』


 2年の半ばくらいになってくると、オレの名前の登場回数がアイツと逆転するようになってた。
 しかも、オレとのやりとりのいちいちに嬉しいとか楽しいとか、浮かれまくったコメント残して。

 自然とオレの表情もゆるんでくるような、の楽しい毎日が記録されてるページ。

 そんな中、オレが再び手を止めたのは修学旅行から戻ってきてから書いたらしい、旅行の総括日記の一部分。


『……で、枕投げでついに佐伯くんが素の自分をみんなにさらけ出すことが出来た。
 ほんの一部の人たちだけだけど、素顔のままでいられる瞬間が増えてよかったな。
 枕投げもすごく楽しそうだったし。
 佐伯くんは素直な自分を出してるときが一番生き生きしてるんだから、卒業までにもっと学校が居心地よくなってるといいな。
 そのお手伝いが私にできればいいんだけど。……』


 これの修学旅行日記じゃなくて、オレの日記になってないか?
 フツーはどこが楽しかった、何して楽しかった、って形になるだろ?
 それなのにの日記には、オレが修学旅行中にどうしたこうした、楽しそうでよかった、嬉しそうでよかった、そんな感想ばかりが書かれてて。

 すっげー嬉しい反面、相当凹んだ。
 こんなときまでオレは、お前に気を遣わせてたのかって。

 やっぱりお前にとってオレはマイナスの存在でしかなかったんだと、初めて読んだときはここで日記を閉じようかとも思った。

 それでも未練がましく、の心情が描かれた日記をめくっていたら。


『2007年12月11日 曇り
 今日はなんだか佐伯くんに元気わけてもらっちゃった。
 甘ったれた理由で道を見失ってた私に、佐伯くんらしく叱咤激励してくれて。嬉しかった。
 あんなに落ち込んでたのが嘘みたい。
 なんか佐伯くんってはちみつミルクだ!』


 ……はちみつミルク?

 独特の表現がいまいち理解できなかったものの。
 この日付は確か期末テストの翌週。が前代未聞の点数を取ったときの……。
 あのときか。

 がバイト中から落ち込んでて、自分の進路を見失ってたとき。
 確かにハッパかけたような記憶はあるけど。

 そっか。

 こんなに喜んでくれてたのか。
 オレも、お前の役に立ててたんだな。

 心の中に温かいものが広がっていくのを感じて。

 オレは日記を大きくめくった。


『2008年6月14日 晴れ
 うぎゃーーーーーーっっっ!!!』


 ページ一杯に書かれたの悲鳴は無視して。


『2008年7月20日』


 オレの誕生日の翌日のページで、手を止める。


『カレシができました』


「お飲み物はいかがなさいますか?」
「うわぁっ!?」

 真横から降ってきた声に、オレは慌てて日記を閉じる。
 振り向けば、お茶やスープを載せたサービスワゴンと、営業スマイルを浮かべたアテンダントが腰を折りながらオレのほうを伺ってて。

「……お客様?」
「あ、こ、コーヒーで!」

 忘れてた。ここ、オレの部屋じゃなくて飛行機の中だった!
 差し出された紙コップを握り締めたまま、アテンダントが通路向こうに消えるのを確認して。

 はぁぁ……。

 右手で髪を掻きあげながら、コーヒーを一口。
 熱を持った頬をぺちぺちと数回たたいてから、オレは再び日記帳を開いた。

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