さく さく さく
足の裏で砂が鳴る。
受験勉強の息抜きに、って散歩に出かけて。
いつしか私は羽ヶ崎の海岸まで来ていた。
69.船出
「随分歩いてきちゃったなぁ……」
数学の問題集、まだ半分残してるから、すぐに帰るつもりだったのに。
無目的に家を出たら、こんなとこまできちゃったのか。
私は波打ち際にたって、右手の灯台を見上げた。
ここからだと角度が悪くて珊瑚礁は見えないんだよね。
見えたとしても、そこにはもう誰もいないんだけど。
佐伯くんに別れを告げられてから2週間近くたって。
ときどきこんな風にボーっとしたりもするけど、私は毎日受験勉強に没頭してる。
一流大に進学して、前々からの夢だった自分のお店を持つっていう目標に向かってがんばってる。
がんばってるよ、佐伯くん。
佐伯くんも、今は自分を偽らずに自由にしてる?
真冬の羽ヶ崎海岸は強めの風が吹いていて、佐伯くんが好きそうな高い波もたっていた。
「……だめだなぁ」
コートのポケットに手をつっこんで、私は自嘲する。
佐伯くんは忘れて欲しいって言ってたのに、なにをしてても思い出しちゃう。
最後の約束は、しばらく果たせそうにない。
気持ち、切り替えなきゃ。いつまでもここでのんびりしてるわけにいかないし。
帰ろう。残りの問題やっつけなきゃ。
私は「よしっ」と気合いを入れて両手をグッと握り締める。
そのときだ。
「!」
名前を呼ばれて、私は勢い良く振り返る。
「……ユキ?」
海岸線の道路の方からこっちに向かって駆け寄ってくるのは、ユキだった。
びっくりしたぁ。
ユキの私の呼び方、佐伯くんとそっくりだった。
「どうしたの? ユキがこんなとこにいるなんて、めずらしい」
「ミルハニーに行ったらさ、は散歩に行ったっておばさんが言うから。もしかしてここかなって思って」
はぁはぁと肩で息をしながら、にっこりと笑顔を見せてくれるユキ。
バスで来たのかな? 何も浜まで全力疾走してくることないのに。
ユキは深呼吸をして息を整えたあと、私を上から下まで一度じろじろと見つめた。
えーと……?
「なに?」
「いや、その。波打ち際で海に向かったまま微動だにしてなかったから。……ヘンな想像しただけ」
「ヘンな、って??」
「……海野から話は聞いたよ」
あ、なるほど。
もしかして、私がショックで入水するとでも思ったのかな。
そんなわけないのに。たかが失恋くらいで……。
でも、なんだか申し訳なさそうに顔を歪めてるユキ。
私はいつものように、へらっと笑顔を浮かべた。
「ユキが気にすることないじゃない。いいの、いいの。もう終わった話! 今は勉強に集中しないとね! あ、ちょうどユキに会えたんだし、勉強見てもらおうかな」
「僕のせいなんだろ?」
「……は?」
誰かに気を遣われるのってどうしても慣れない。それはユキだろうと一緒。だから、わざと明るい声を出して話題をそらそうとしたのに。
一体なにがユキのせい?
首を捻ると、ユキは一度唇をかみしめてから切り出した。
「文化祭で、僕に言ったことがきっかけだったんだろ? はいつも僕のために親身になってくれてたのに、それをアダで返すようなことをして……ホントにごめん!」
がばっと、ユキが頭を下げた。
私はびっくりして目をぱちぱちさせて。
あ、あかりちゃん……馬鹿正直に全部言うことないのにぃ〜。
私は一度ため息をついてから、ぽんぽんとユキの肩を叩いた。
「ユキのせいじゃないよ。学校でうかつなこと言ったらどうなるか、私知ってたし」
「でも僕があそこで変に早とちりしたりしなければ……」
「もう終わったことだよ。気にしないで。ね?」
にこ、とユキに微笑みかける。
そう、終わった話なんだから。
いつまでも引きずっていられない。
「……」
まだ眉間にシワが寄ってるユキを安心させるように、私は大袈裟に両手を振り回して。
「よーっし、帰って勉強するぞーっ。一流大合格ライン上だし、出来るとこまでやっとかなきゃ……」
自分に言い聞かせるように言ったとき、腕を上げたはずみでコートのポケットから何かが落ちた。
さくっ、と砂につきささる、くすんだ黄金の鍵。
「これは?」
ユキが拾い上げて私の手に乗せてくれたのは、あの日佐伯くんがくれた真鍮のアンティークキーだった。
そういえばポケットにしまいっぱなしだったっけ。
でもこれ、一体なんの鍵なんだろう?
「おもちゃじゃないみたいだけど。の?」
「うん……実は私もなんの鍵なのか知らなくて」
佐伯くん、誕生日プレゼントの代わりみたいなものだ、って言ったんだよね。
それが意味することを、私はちっとも思いつかない。
と。
「やぁ、お嬢さんが持ってましたか」
久しぶりに聞く、優しい声。
「マスター!?」
「こんにちは、さん。そちらの彼も、以前珊瑚礁にいらっしゃってますね」
唐突にかけられた声に振り向けば、グレーのコートに身を包んだマスターが変わらぬ笑顔で立っていた。
私もユキもびっくりしちゃって口をあんぐり。
マスターがこんな近くまで来てたなんて、ちっとも気づかなかったよ!
「あ、えと、お久しぶりですっ」
「ええ、久しぶり。その後、お元気でしたか?」
「はい」
ぺこんと頭を下げてからもう一度マスターを見上げる。
マスターは以前と変わらない優しい笑顔を浮かべていたけど、ちょっとだけ寂しそうにも見えた。
「悪かったね、急な店の閉店も、瑛のことも。受験前の大事な時期に」
「いえ……そんな、マスターは気にしないでください」
「それにしてもその鍵。全く瑛のヤツは、どこにやったか聞いてもずっとはぐらかしてばかりだと思ったら」
「あの、この鍵ってマスターの物なんですか?」
私は手の中の鍵をつまみあげる。
するとマスターはにっこりと微笑んで、
「ついておいで」
と、さくさくと砂を鳴らしながら、私たちに背を向けて珊瑚礁の方へ歩き出した。
私とユキは顔を見合わせたものの、マスターを追いかけることにした。
久しぶりの長階段を上ってマスターが向かったのは、珊瑚礁ではなく隣の古びた灯台だった。
「これ、灯台の鍵だったんですか?」
「そうだよ。さぁさん。開けてごらん」
日に褪せた灯台の入り口の横に立って、マスターは鍵穴を指す。
私は言われた通り、その鍵穴に真鍮の鍵を差して回す。
誕生日プレゼント代わりって……この灯台に何かあるの?
かちゃり、という鈍い音にどきんと一度心臓が跳ねる。
鍵を抜きとったあとドアを開けるのをためらっている私の横から腕を伸ばし、マスターがゆっくりと灯台の入り口を開く。
ぎぃぃ……ぃ
油の切れた重い扉の音。
と同時に、少しだけ湿っぽい古い空気が中からこぼれてきた。
中に入ることも躊躇していた私の背中をユキが押す。
「、入ってみようよ」
「う、うん……」
ためらいながら足を踏み入れる。
中には網や浮き具といった漁業関係の道具が壁際に置かれていて、他にもなぜか使い古されたイーゼルやキャンパスがあった。
私とユキは中央に置いてあるテーブルの前まで歩み寄って、灯台の中をきょろきょろと。
「なんでこんなところにキャンパスが?」
「恥ずかしながら、若い頃画家を目指していてね。年寄りの思い出の品です」
「えっ、マスターって画家を目指してたんですか!?」
うわぁ、知らなかった!
私は何枚か立てかけてあるキャンパスを次々に動かして、かつてマスターが描いたらしい絵の数々を見る。
「綺麗……。どうしてやめちゃったんですか?」
「画家になるための夢を追い続けるには、どうしても家族が犠牲になってしまうからね。私は画家の夢を捨てました」
振り返ったマスターの顔は穏やかで。
もしかして……佐伯くんもそんな風に思った……?
だから、夢を捨てたの?
だけどそんなの、マスターと佐伯くんとじゃ立場が違うのに。
マスターは家族のために生きるっていう選択をしたけど、佐伯くんは夢を捨てたあとに何を選択したの?
ただ私に苦しい思いをさせたくないっていうだけで、自分のために何かを選んだわけじゃないよね。
やっぱり、私が佐伯くんの夢を潰したんだ……。
ぎゅ、と拳を握る。
と。
「、ほら。なんかの好きそうな絵がかけてある」
ユキが壁を見つめながら私を手招きした。
なんだろ?
てちてちと近寄れば、そこには壁にかけられた小さなキャンパス。
「……?」
描かれていたのは、一組の男女。
岩のようなものの上に腰掛けて、お互いを見詰め合ってる絵。
クリスマスに佐伯くんが見せてくれた朝焼けのような色が、キャンパス全体を彩っている幻想的な絵だ。
「綺麗だね」
あのとき、私もこうして佐伯くんと見詰め合ってた。
でもあの時にはもう、佐伯くんは夢を捨てる決意を固めていたんだろうな。
ああもう。
何を見ても思い出しちゃう。
佐伯くんの声、表情、おっきな手。
「それはね、人魚と若者の絵ですよ」
振り向くと、マスターが懐かしいものを見るようにこっちを見ていた。
「人魚と若者?」
「そう。……さん、どうやら瑛はこれをアナタに見せたかったらしい」
「え?」
そう言って、マスターは視線を落とした。
その視線の先には、テーブルに載せられた1冊の本、と。
「!!」
私は慌ててマスターの元に駆け寄って、ソレを取り上げた。
本の上に置かれていたソレは、ガラスのリングのペンダントトップ。
修学旅行で佐伯くんにプレゼントした、あのガラスのリングだった。
「あれ、そのリング、今がしてるのと似てるな?」
ユキが私の手元を覗き込む。
なんで、なんでこれがここに?
硬く閉ざされた灯台の中に、私と佐伯くんの友情の証のリングが。
一緒に遊びに行くときはいつも身につけてくれていたのに。
それさえも置いて実家に戻ったってことは、私、私。
もしかして、佐伯くんに、嫌われ……
「『こうして、渚で出会った若者と美しい娘は、恋に落ちました』……」
私が考えたくもない事実に気づこうとしたときだ。
突然、マスターがそんなことを言い出して。
顔を上げると、マスターが絵本を開いてそこに視線を落としていた。
手にした本はリングと一緒に置いてあったもの。
マスターはきょとんとしてる私とユキを見て、にっこりと微笑む。
「瑛のヤツはね、小さい頃から本当に強情で見栄っ張りで……どんなに辛いことがあっても、みんなの前ではケロッとしてるんだ。そのくせ……人がいなくなった夕暮れの浜で、よく一人で泣いていた」
「…………?」
「さんに、そんな自分を見られるのが耐えられなかったんでしょう。だからこんなまわりくどいことを」
「まわりくどい?」
どういう意味だろう?
この灯台の鍵とリングと絵本に、何か意味があるの?
「この絵本はね、瑛が幼い頃一番好きだった本なんだ。さん、よかったら君も。少し年寄りの朗読を聞いてくれるかな」
「は、はい!」
大きく頷くと、ユキもこくんと頷いてくれた。
そしてマスターは再び絵本に視線を戻して語りだす。
どこかの海での、恋物語。
美しい人魚に出会い、恋をした若者の話。
聞けば聞くほど、まるで佐伯くん自身のことを聞いてるかのような物語だった。
声を出すことができなかった人魚。
「心無い村人に正体を暴かれて……か。佐伯くんって、本当に人魚みたい……」
私の呟きに、マスターは小さく笑む。
「『人魚と別れてからというもの、若者は来る日も来る日も海を眺めて過ごしました』」
「なんだかこの若者、みたいだな」
ユキの言葉に、私は頷く。
佐伯くんと別れてから、毎日毎日このリングを肌身離さず身につけて見つめてた。
「『そして』……」
マスターはここで言葉を切った。
どうしたんだろうと思ったら、ぱたんと絵本を閉じてそれを私に差し出してくる。
「え?」
「さん。今までずっとずっと瑛のわがままに振り回してしまいましたが、孫を可愛がる馬鹿な祖父のたわごとを聞いてください」
「そんな、たわごとなんて」
絵本を受け取ってから、優しい眼差しで見つめてくるマスターを見上げる。
マスターは、にっこりと微笑んで、私の肩に手を置いた。
「強情で見栄っ張りなヤツなんです。だけど、さんと出会って瑛は変わった。でも最後の1歩がどうしても、見栄っ張りな性格が邪魔して踏み出せないんです」
「はい……?」
「ああ、もしかしたら最初の1歩かもしれないな。さん、どうかアレの背中を押してやってはくれませんか」
そして反対の手で取り出したのは、二つ折りになった小さなメモ。
それを私のコートのポケットに入れて、マスターは背を向けた。
「マスター!?」
「灯台の鍵はしばらくさんに預けます。受験勉強、がんばってくださいね」
それだけ言って、マスターは灯台から去っていった。
残されたのは何がなにやらとぽかーんとした私とユキ。
「、今何を貰ったんだ?」
「え? あ、うん……」
ユキに促されて、私は絵本とリングを一度テーブルに置いてからポケットからメモを取り出して。
広げた瞬間、息を飲む私。
そこに書かれていたのは、はばたき市からずっとずっと遠く離れた町の住所。
「! これもしかして、佐伯くんの家の住所なんじゃないか!?」
「や……やっぱりユキもそう思う?」
「そうだよ! あの人、会いに行ってくれって言いたかったんだよ!」
佐伯くんに、会いに?
私はぽかんとしてユキを見上げる。
「行ってこいよ! このまま終わりなんて嫌なんだろ!?」
「む、無理だよ!」
興奮した様子のユキに、私は慌てて両手を振る。
無理に決まってる! だって佐伯くんは、私に忘れて欲しがってるのに!
「マスターはきっと私のこと心配して気を利かしてくれたんだろうけど、当の佐伯くんにはもう会う意志なんてないんだよ? 会いに行ったって、絶対お互い嫌な思いするだけだもん」
「そんなことないだろ? だったらなんでこんなまわりくどいことしたんだよ」
「まわりくどいこと……」
そう、さっきマスターもそう言った。
リングを突っ返すだけなら、別れを告げたあのときにすればよかったこと。
……ううん、受験前だから佐伯くんなりに私がショック受けないように気をまわしただけかもしれない。
だけど、これは誕生日プレゼントの代わりって言ってたんだよね。
佐伯くんが、こんなまわりくどい意地悪なプレゼントなんてするはずないし……。
私は佐伯くんが身につけていたリングを取り上げる。
このリングが私に返された意味がわからない。
佐伯くんが、何を思ってこれを私に返したのか。
「……『そして、とうとう決心して、月夜に舟を漕ぎ出しました』」
「え?」
顔をあげると、いつの間にかユキが絵本を開いていた。
そしてそのまま言葉を続ける。
「『若者が帰ることは二度とありませんでした』……か。は人魚を探しに舟を出さないのか?」
「……いいの」
私はユキの手から絵本をそっと取り上げる。
そう、若者が帰ることは二度とないんだから。
佐伯くんは、人魚っていう名前の新しい道を探しに出たんだから。
私に出来ることは、もう二度と、佐伯くんの邪魔をしないことだけ。
リングをポケットにしまって、絵本を抱きかかえて。
「ユキ、帰ろう? 鍵閉めちゃうよ」
「……」
「予備校、今日ないの? じゃあミルハニーでお茶ご馳走してあげる!」
ユキがそんな顔しなくていいのに。
眉根をぎゅっと寄せたユキの背を押して、私は灯台を出て、鍵を閉めた。
佐伯くんからの最後のプレゼント、ちゃんと受け取ったよ。
ありがとう、本当に。
鍵がかかる音を聞きながら、私は自分の心にも鍵をかけた。
「……あっ、赤城くん! ちゃんの様子、どうだった?」
「海野」
「やっぱり……まだ落ち込んでる?」
「……海野、頼みがあるんだ」
「なに?」
「僕の親友のために、力を貸して欲しいんだ」
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