佐伯くんは私の手を握ったまま、どんどん歩いていく。
 吐く息は真っ白で、耳は少し赤くなってる。

 1時間は歩いたと思う。
 空はだいぶ明るくなってきていた。



 67.人魚と若者



 私はパジャマを着替えてコートを羽織って、佐伯くんに誘われるままバルコニーからコテージを出た。
 佐伯くんが軽装だったから、てっきり終日点灯してるっていうスキー場のイルミネーションでも見せてくれるのかなって思ってたんだけど。
 私の手をしっかりと握った佐伯くんがむかったのは、はばたき山を下るバス停がある方向。

「佐伯くん、一体どこ行くの?」
「海」
「えぇっ!? 海って、羽ヶ崎の海だよね!? こんな時間にバスなんてまだ走ってないよ!?」
「タクシー待たせてるから。それで行くんだ」

 こともなげに言う佐伯くんに、私はぽかーんと口を開けて。

 ここ山だよ? 海なんて、山の反対語もいいとこで、実際ここから一番遠いところなのに。
 私は目をぱちぱちさせながら佐伯くんを見上げた。
 すると佐伯くんもタイミングよく私を見下ろした。

 昨夜まで降ってた雪のせいで、空は厚い雲に覆われたまま。
 だけど煌々と輝く月のまわりだけは雲がかかっていなくて、月明かりに照らされた佐伯くんの顔ははっきりと見えた。

 いつになく優しい目をした佐伯くんの、静かな微笑み。
 なにもかもを達観したような、どきんとしちゃうけどなんだか……意地っ張りな佐伯くんらしくない笑顔。

「頼むよ。どうしてもと一緒に見たいんだ」
「う、うん……」

 ぎゅ、と私の手を握る力を強めて、佐伯くんは再び前を見て歩き出す。

 いいよね? スキーは朝から自由行動だもん。戻るのが遅れそうなら、みんなにメールしてうまく誤魔化してもらえばいいだろうし。
 それになにより、なんだか佐伯くんの様子が気になるし。

 私は佐伯くんがバス停近くに待たせていたっていうタクシーに乗り込んで、雪の積もるはばたき山を後にした。


 ところが。

「ここでいいです」

 って、佐伯くんがタクシーを停めたのははばたき駅。
 ここから海までは、まだちょっとあるんだけど。っていうか、いっつも私、ここからバスに乗って珊瑚礁まで通ってたんだもん。

「佐伯くん、ここから海はまだ遠いよ?」
「これ以上乗ってたらをはばたき山まで戻らせるタクシー代なくなるんだ。だから、ここから海までは歩いていく」
「えっ、いいよそんな! 帰りのタクシー代を佐伯くんに払わせるわけにいかないよ!」
「財布持ってきてるのかよ?」
「う」

 ミルハニーはすぐそこだけど、家の鍵も持ってきてないし。
 下手すると、仕込みのために起きたパパと遭遇しちゃうかもしれないし。
 ひええ、そうなったら言い訳なんてできっこないし!

 仕方なく私はこっくりと頷いて、支払いをしている佐伯くんより先にタクシーを降りた。

 いつも朝ラッシュで賑わってるはばたき駅は、冬の冷たくて澄んだ空気に包まれていて、印象が少し違って見えた。
 空はさっきよりは気持ち明るくなった気もするんだけど、まだまだ夜明けよりは夜に分類される色。

「行こう、

 タクシーの遠ざかる音と一緒に佐伯くんの声が聞こえた。
 差し出された大きな手を、私は右手で握り返す。

 私たちは、車も通っていない車道を歩き始めた。

「クリパ、楽しかったか?」

 白い息を吐きながら佐伯くんが尋ねてくる。
 タクシーの中では終始無言だったのに。私は大きく頷いた。

「楽しかったよ。ハリーのライブにリッちゃんが飛び入り参加してね、それにつられて若王子先生までステージに上がっちゃって。最初怒ってたハリーだったけど、最後は3人で楽しそうに歌ってたし」
「大崎がそういうのに自分から参加するのって、なんか意外だな?」
「でしょ? 私も同じこと志波っちょに言ったらね、その前にぱるぴんや密っちたちとなんかゲームして負けたらしくて。その罰ゲームで飛び入りしたんだって」
「そっか」

 佐伯くんは明るい表情で私を見下ろして。

「あのさ、アレ、つけてくれたんだな」
「アレ? アレってなに?」
「だから、オレがあげたチョーカー。仕事の指示以外もアレでわかれよ」
「あ、チョーカーね! みんなに褒められたんだよ、似合ってるって! ありがとね、佐伯くん!」
「まぁな。さすがオレ」

 ふふん、と。いつものオレ様な佐伯くんの言葉。

 あれ? でも待って?

「なんで佐伯くん、私がチョーカーつけてたこと知ってるの?」
「あかりが写メ送ってきたんだ。知らなかったのか?」
「うええ!? いつの間に!? やだやだ、ヘンな顔してない!? そのメール見せて!」

 ちょ、あかりちゃんてばいつの間に!
 私がユキにあかりちゃんの写メ送ろうとしたら全力拒否したくせに〜! 

 私は佐伯くんに写メを見せてもらおうと懇願したんだけど、ニヤリと笑った佐伯くんはそれを拒否。

「ヤダ。お前、消すつもりだろ」
「ヘンな写り方してたら消すよっ! ねぇねぇ、見せてよ〜!」
「だめ。別にヘンな写り方もしてなかったし。……その、綺麗だったよ」

 照れからか寒さのせいか、頬と鼻を赤くした顔しながら、空いた右手で私にチョップ。

 でも、言われた私は一気に火照る!
 だってだって、私なんかよりずっとずっと綺麗な顔した佐伯くんに『綺麗だった』なんて言われたんだもん!
 うわ、恥ずかしい! 嬉しいよりも先に、恥ずかしいよ〜!!

「ああいう色、お前ホントよく似合うと思うし。生で見たかった」
「い、いやあ、生で見たってそんないいものじゃないよ、あは、あはは……」

 私はがしがしと頭を掻きながら、もう笑うしかなくて。

「あ、えと、珊瑚礁は!? 忙しかったでしょ。お疲れさまっ!」

 なんとか話題を変えようと、私は珊瑚礁のことを聞いた。
 きっと修羅場だったろうな。聞いたら機嫌悪くなっちゃうかな? とも思ったんだけど。

 佐伯くんはしばらく押し黙ったあと、清清しい、優しい笑顔を見せてくれた。

 でも、なんだか。

「佐伯くん……?」
「ああ、すっげー忙しかった。じいちゃんがさ、常連客にサービスで珊瑚礁ブレンドの豆を分けたりなんかしてたから時間ばっかかかって。洗い物片付ける時間が全然取れなくて、流し山積み。あれ、よく崩れなかったなって思う」
「あ、うん。やっぱりそうだったんだ? うーん、手伝えなくてごめんね?」
が謝ることないだろ?」

 あ、また。

 さっきコテージで会った時に感じたこと、今の佐伯くんの笑顔にも感じる。
 優しい顔してるのに、なにかを押し込めたような表情。

 繋いだ手に、今度は私が力を込めた。

「佐伯くん、なにかあったの? なにか言いたいこと我慢してない?」

 心配そうに見上げれば、首を振る静かな答え。

「……海についたら話すよ」
「佐伯くん……」
「大丈夫。オレ、思ったより平気だ」

 いつもの佐伯くんなら見せない笑顔。
 学校で見せてる王子様の笑顔じゃない。
 でも、私が見てきた素顔の佐伯くんの表情でもない。

 今の佐伯くんが浮かべているのは、自分自身の激情を押さえつけるための仮面の笑顔に見えて。

 今さらそんな顔を見せられるのが悲しくて、佐伯くんにそんな顔をさせるなにかなんて想像もつかなくて悔しくて。
 私は手を繋いで歩いたまま、佐伯くんに寄り添った。



 佐伯くんは私の手を握ったまま、どんどん歩いていく。
 吐く息は真っ白で、耳は少し赤くなってる。

 1時間は歩いたと思う。
 空はだいぶ明るくなってきていた。厚い雪雲も、いつのまにか遠くに過ぎ去っていて。

 ようやくたどりつく、珊瑚礁最寄のバス停。
 私たちはそこから浜へと降りて行った。

 水平線上が乳白色になってきてて、夜明けはもうすぐであることを知らせてた。

「間に合った! 、水平線しっかり見てろよ?」

 私の腕を力強く引いて、波打ち際ぎりぎりまで海に近づいて、佐伯くんは弾んだ声を出した。

 私は言われた通りに水平線を見つめる。

 と。

「あ!」

 海と空が接してる水平線が強い光を放ったかと思えば、ゆっくりと太陽が昇ってきた。
 太陽のかけらが海の果てから顔を覗かせた瞬間に、空も海もとても綺麗なグラデーションに変化する。
 太陽のまわりは真珠色。それから放物線を描いて鮮やかなスカイブルー、見たこともないくらいに深い群青へ。
 海もマリンブルーやエメラルドが交じり合って、全てが生まれた母なる海ってこんな優しい表情だったんだって納得するくらいに神秘的で。

 こんな綺麗な光景、見たことない……。

 いいしれない感動に包まれて言葉もなかった私を、背後から佐伯くんが優しく抱きしめてくれる。
 感動に温もりが加わって、理由もなく涙が溢れそうになって。

「何度見ても、不思議で綺麗だ。どうしても一度、お前と見ておきたかった」
「うん……すごく綺麗。ありがとう、佐伯くん」
「オレ、この時間の海が好きだよ。穏やかで、神秘的で……人魚に会えそうな気がする」
「そうだね。こんな綺麗な海なら、人魚姫がいてもおかしくないかも」
「……人魚に会ったことがあるんだ。ここで」

 突然の佐伯くんの告白に、私は目を点にして振り返ろうとした。
 だけどそれは佐伯くんに力強く遮られてしまって、私は背後から抱きしめられたまま。

「ホントに?」
「ああ。うんと小さい頃。再会の約束もしたんだ」
「へぇ……」

 なんか、佐伯くんがこういうこと言うキャラだなんて思ってなかったから、なんて答えればいいのか迷っちゃう。
 でも小さい頃に会った、てことはなにかと見間違えたか、記憶がごっちゃになってるとか……なのかな?

「そして、再会したんだ」
「え!?」
「ちゃんと会えたんだ。オレ、ソイツがあの時の人魚だったんだって解ったとき、すっげー嬉しくて。初めて学校行くのが楽しくなったんだ」
「え、ちょ……え? 学校って、もしかしてその人魚って、あかりちゃん?」

 背中越しに、佐伯くんがこくんと頷くのを感じる。
 
 人魚と再会なんてそんな馬鹿な、って思ったけど。
 そういうことなら、納得。

 そっか。

 佐伯くんとあかりちゃんって、そんな小さな頃から不思議な縁があったんだ……。

「でも……」
「ああ。あかりはオレのことなんか思い出しもしなかった。……今ならわかるよ。わかるわけなかったんだ。自分を偽って仮面をかぶってた若者に、人魚が気づくわけないって。あとはも知ってる通り」

 うん。
 あかりちゃんは雨の日に偶然出会ったユキに恋をして、それを実らせた。

「今さら言えるわけなかった。あの時オレとお前は出会ってて、また会う約束をしてたんだ、って。言えるわけないだろ?」
「なんだか佐伯くんのほうが人魚みたいだね。言葉をなくして、一番伝えたい思いを伝えられなくて別れてしまうなんて」
「…………」
「でも、どうしてそんなこと」

 今日という日に、なんでそんな懺悔めいたこと言い出したんだろう、佐伯くん。

 太陽がすっかり姿を現した空と海を見つめながら尋ねれば、佐伯くんは不意に私の体を解放した。
 振り向けば、朝日に照らされた佐伯くんの横顔は痛々しいくらいに歪んでいて。

「佐伯くん、なにか、なにがあったの?」
「珊瑚礁、な」

 ぽつりと、呟くように口を開き、そこからこぼれ落ちる言葉。

「昨日、閉店したんだ」
「うん。それで?」
「……お前、こんなときまでそういうボケかますか?」

 眉尻を下げて、ぷっと吹き出す佐伯くんだったけど。

「閉店。珊瑚礁、終わったんだ」
「……えっ!? まさか閉店って、お店辞めちゃったってこと!?」
「そういうこと」
「どうして!?」

 なんで!?
 突然のことに私の頭がついていかないよ! どうして閉店になっちゃうの!?
 だってだって、今日もお客さんがいっぱいで忙しかったんでしょ??

 私は思わず佐伯くんの両腕を掴んで詰め寄る形で。

「マスターが決めたの!? なんで、急に閉店なんて!」
「……俺、わかってたよ。気づかない振りしてたんだ」
「わかってた、って……」
「口に出しては言わないけど、じいさん、俺がいっぱいいっぱいなの見かねてたんだ。それで……」

 そんな。

 佐伯くんがずっと、笑いきれてない笑顔を浮かべてた理由って、これだったんだ。
 でもどうして? 私、マスターの考えがわかんないよ。

 だって、佐伯くんがずっとずっと、自分を偽ってまでがんばってたのって、全部珊瑚礁のためだったのに。
 佐伯くんの心のよりどころだったのに。
 珊瑚礁のために、楽しいはずの高校生活を犠牲にしてまでがんばってたのにっ。

 私は佐伯くんの腕を掴んだまま、俯いてしまった。

 こんなのってないよ……。



 そんな私を抱き寄せる佐伯くん。
 肩口に私の額を押し当てて、いい子いい子するみたいに私の髪を撫でて。

「さっきも言ったろ? オレ、思ったよりも平気だ」
「嘘だよっ。そんなはずない!」
「全部わかってたことなんだ。こうなることくらい。こうなりたくないって思いながら、どこかで覚悟決めてたんだ」

 私の肩を押しやって、佐伯くんは私の顔を優しい顔で見つめてくる。

「だからそんな顔するなよ。オレは何も守ることができなかったけど、お前には笑ってて欲しいんだ」
「うん。……うん」

 佐伯くんが笑って欲しいっていうなら、ずっと笑ってるよ。

 私が笑うことで佐伯くんの慰めになるなら、どんなことがあっても笑ってるから。

 一度大きく深呼吸してから、私は笑顔を浮かべた。

「……
「なに? 佐伯くん」

 そんな私を見ていた佐伯くんが、寂しそうに笑いながら手を伸ばしてきた。
 その手は私の左頬を包んで。

 真珠色から朝焼けの茜色に変わった空の下。

 佐伯くんは、壊れ物を扱うかのようにそっと。

 冬の冷気にすっかり冷え切った唇が、私に触れた。

 逃げることも取り乱すこともなく、私は自然にそれを受け入れて。

 離れたあと、佐伯くんの顔にあったのは、変わらない寂しそうな笑顔。

「最後まで『佐伯くん』だったな、オレ」
「え?」

 ぽつりと呟いた言葉を聞き取れなくて聞き返したんだけど、佐伯くんはただ静かに微笑むだけで。

「メリークリスマス、。お前に会えてよかった」
「……うん。メリークリスマス、佐伯くん」

 笑顔を返せば、佐伯くんはくしゃっと私の頭を乱暴に撫でた。




 その日以来、佐伯くんとは一切連絡が取れなくなった。
 携帯も繋がらないし、メールも返って来ない。
 珊瑚礁に行ってみても、人の気配はなかった。



 私が佐伯くんに再会できたのは、それから1ヶ月以上たってからのこと。

 でもそれは、決して感動の再会なんかじゃなかった。

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