「や、待ってましたさん。ささ、どうぞどうぞ。お煎餅食べますか?」
「えーと、結構です……」

 にこにこと出迎えてくれる若王子先生だけど。
 さすがに今この場におよんで悪乗りすることはできなかった。
 ……やっぱり、呼び出しくらっちゃったかぁ……。


 39.2年目:2学期期末テスト


 はぁ。

 閉店した珊瑚礁のテーブルを拭きながら、私は何度目かのため息をついた。

さん、今日は随分と元気がないですね?」
「はぁ、ちょっと……。あっ、私、接客中も暗かったですか!?」
「いえいえ。接客中はプロの顔をしていましたよ?」
「そ、そうですか。よかったぁ。……はぁ」

 レジ横で締め作業をしていたマスターの言葉にどきどきしちゃう。

 ああでも。仕事中意識が散漫だったのは否めない。
 ……はぁ。だめだめだなぁ、私。

。辛気臭いぞ」
「ごめん……」
「な、なんだよ。お前、具合でも悪いのか?」

 カウンターの中で洗い物をしてる佐伯くんにも心配かけて。

 はぁぁぁ。

「ちょっと、目標を見失っちゃって」
「……は?」
「佐伯くん、私の今回のテスト順位見た?」
「いや、今回は自分の見てるうちに囲まれたから見てない。なんだよ、そんな悪かったのか?」
「うん」

 私は椅子を引いて座り込む。
 佐伯くんはマスターと顔を見合わせて。

「93位」
「きゅっ……!?」

 私の告げた順位に、佐伯くんは絶句するし、マスターは「おやおや」と目を丸くするし。

 そうなんです。
 今回の期末テストで、今までみたこともない順位まで転げ落ちちゃったんです、私。
 まぁ、勉強そのものちゃんとやってなかったから当然といえば当然なんだけどさ……。

「お前、前回の順位20番台だったよな!? 一気に70番も落としたのか!?」
「うん。さすがに呼び出しくらっちゃった」

 佐伯くんも口をあんぐりと開けてカウンターから出てきて、私の対面の椅子に腰掛けた。

「勿論若王子先生だからお説教とかそういうんじゃなくてね。勉強嫌いになっちゃいましたか? なんて聞かれただけなんだけど」
「……なにか、あったのか?」
「うーん……むしろなんにもなかったから、かなぁ」

 頬杖をついて再びため息。
 ああもう。ため息の数だけ幸せ逃げてくってわかってるけどつかずにはいられない。
 はぁぁぁ……。

「瑛」

 そこに、マスターの柔らかい声がかかる。

「ちょっと奥の備品を見てくるよ」
「ああ。わかった」

 振り向いたところにいるマスターはにっこりと微笑んでから、お店の奥に入っていった。
 マスター、気を利かしてくれたんだな。
 ああいう気遣いの出来る人になれたら素敵だよね。

 はぁ。

 マスターの後姿を見つめながらため息をつくと、ぽすっと頭にチョップが入る。

「ため息つくな、辛気臭い。ちょっと待ってろ。ホットミルク入れてくるから」
「うん、ありがとう佐伯くん」

 佐伯くんは素早く立ち上がってカウンターの中へ。
 その間、私は机に頬をつけて、視界に入るだけの範囲をふきんでなでるようにテーブルを拭いた。

 あーもう。自分が情けなくて力も入らないよ……。

 ものの数分で、佐伯くんが湯気のたつカップを二つ持って戻ってくる。
 差し出されたそれは、甘いハチミツの匂いがした。

「ほら。ソレ飲んでシャキっとしろ」
「ありがと。はぁ」
「だからため息つくなよ。……なぁ、お前が元気ないとオレ困るよ」

 目の前の佐伯くんは心配してくれてるのか、いつもより少し幼い表情で眉尻を下げていた。

 うう、いつもなら「かーわーいーいー!」とじたばたするところなんだけど、その元気もないし。

「なんにもなかったからってどういう意味なんだ?」
「うん。こんなこと話したら佐伯くん呆れちゃうだろうけどね」

 こくんと一口はちみつミルクを飲んで、私は切り出した。

ちゃんは一流大志望だったんですよ」
「そんなこと言ってたな。……だったって、今は違うのか?」
「うん。もともとね、一流大で何を勉強したいっていうわけじゃなかったから」
「は? じゃあなんで一流大狙って……」

 怪訝そうに聞き返す途中で、何かに思い当たったのか眉をひそめる佐伯くん。
 多分それ、と私は頷いた。

「ユキが一流大志望だったから、私も一流大目指してただけだったの」

 私の言葉に、佐伯くんは不愉快そうに顔をしかめた。

 親の意思に背いてまで、自分の意志を貫いてる佐伯くんにとってみれば、私の大学志望動機なんて不純で不愉快極まりないんだろう。
 でも私はユキの側にいたいっていう気持ちが一番大切だったから。
 自分自身の人生に多大な影響が出てくる大学進学を安易に考えてた。

 だから、いざユキに失恋して追いかけるものが無くなってしまえば、勉強なんて全然身に入らなくて。
 修学旅行や文化祭や、バイトや友達つきあい。楽しいほう楽しいほうに簡単に流されて。

 93位って順位は当然の結果。

「先の目標が無くなっちゃったからすっかりやる気失っちゃったの。パパとママが勉強に関して全然うるさくなかったから、それに甘えちゃったんだ」

 さすがにこれだけ順位を落としちゃったら怒られるかな、とも思ったんだけど。

『補習を受けるような点数でもないんだろう? だったら、が打ち込みたいと思うものに集中していてもいいんじゃないかい?』

 珊瑚礁に来る前に電話して今回のテスト結果を伝えても、パパの返事はあっさりとしたものだった。
 だからその集中したいものがなくなっちゃったんだってば。
 はぁ。

 かちゃん

 佐伯くんがカフェオレを飲み干してカップを置いた。
 視線をテーブルに落としたその表情は、眉間に皺が寄ったままの険しい顔。

 ……やっぱり、軽蔑されちゃったかな?
 佐伯くんは自分に厳しいもんね。自分の生き方を誰かに依存することなくまっすぐに自分の足で進んでるんだもん。

 私は佐伯くんの親友! なんて浮かれてたけど。
 うう、呆れられて解消されちゃうかな。

 佐伯くんはふーと短く息を吐いて、私を上目遣いに睨み上げる。

「オレ、アイツ嫌いだ」
「は?」

 ところが佐伯くんの口から出たのは予想外の言葉。
 きょとんとして佐伯くんを見れば、テーブルに頬杖ついて、カラのカップの底にたまってるコーヒーの粉をくるくるまわしながら。

「お前もアイツに縛られるの、もうやめろよ」
「アイツって、ユキ?」
「ソイツ。いいだろ別に、アイツがいようがいまいが、お前が一流大受けたって」
「それはそうなんだけど」

 わぁ。

 てっきり佐伯くんに愛想尽かされるかと思ってたのに。
 心配してくれてるんだ。
 ……優しいんだ、佐伯くん。

「アイツの話はもうおしまい。、今考えてみろよ。お前がさ、将来やりたいこと」

 佐伯くんは身を乗り出して私の目を覗きこんできた。

 うわー佐伯くん、綺麗な目してるなぁ。
 なんて感心してる場合じゃなくて。

「夢は一応あるんだよ? 私もパパやママみたいに、自分の喫茶店持ちたいの」
「だったらそれに向かってがんばればいいだろ?」
「そうなんだけどさ。その場合、いろんな道があるじゃない? 一流大に進んで経済学部で経営学ぶか、専門学校に進んで調理の腕を磨くか。私は親が経営者だから、高卒でミルハニーに弟子入りして学ぶって手もあるし」
「そっか。そう言われるとそうだよな」

 温くなってきたミルクをこくこくと飲み干して。
 佐伯くんは椅子に大きく持たれかかって、組んだ足の上に手を置いた。

「ならどの道でも選択できるように一流大行ける成績キープしとくのが得策だな」
「うっ……か、考えてみればそうだね」
「そうだよ。お前アイツに固執しすぎなんだ。とりあえずお前、学年末でまた20番台に戻ってこいよ。じゃなきゃチョップ&無給バイトの刑だ」
「えええ!? ちょ、私の成績と珊瑚礁全く関係ないじゃんっ!」
「ウルサイ。人に心配かけた罰だ」
「あうう……き、厳しいなぁ……」

 ニヤリと笑う佐伯くんに、がっくりと肩を落とす私。
 学年末でまた70番上げるって、尋常じゃない努力が必要だよ絶対!

 ぱたんとテーブルに伏したところを、ぽすんとまたチョップを入れられて。

「お前の悩みは単純なんだよ。解決したんならさっさとテーブル拭き終わらせろ」
「はぁぁい」

 カップ二つを持って、佐伯くんはカウンター内に戻る。
 私も立ち上がって、テーブル拭きを再開した。

 だけど。……ふふふ。
 さっきまであんなにインに入ってたのに、嘘みたい。
 佐伯くんの言葉とあったかいハチミツミルクで、すっかり心がぽっかぽかだよ?

 ああ私、いい友達持ったなぁ〜。

 基本単純思考回路の私はすっかり立ち直り、緩む口元そのままに元気よくテーブルを拭いた。

「なぁ、お前ってさ」

 洗い物を再開した佐伯くんが、カウンターの中から声をかけてくる。

「なに?」
「自分の店持ちたいって言ってたけど、ミルハニーは継がないのか?」
「継がないんじゃなくて、継げないの。パパとママの口癖でね、あのお店はパパとママの夢そのものだから、例え私でも渡せないって」
「へぇ……。なんかいいな、そういうの」
「だよね? 私もそう思う!」

 あのお店はきっと、パパとママがおじいちゃんおばあちゃんになっても二人でやっていくんだと思う。
 それを想像したら、私も将来旦那さまと一緒に喫茶店経営したいなぁ〜なんて思って。

 あはは、私ってば将来の夢も恋愛ありきなんだ。我ながら笑うしかないよね。

「佐伯くんは珊瑚礁を引き継ぐの?」
「そのつもり。じいちゃんとばあちゃんが作り上げた夢を、オレが引き継いで紡いでいくんだ」
「素敵だね、そういうの」

 珊瑚礁を語るときの佐伯くんは、いつもいい顔してる。
 本当に本当に珊瑚礁が大好きなんだなぁ。
 目を輝かせて近く遠い未来に思いを馳せて夢を語ってる佐伯くんの顔、一番好きかも。

 すると、佐伯くんの手がぴたりと止まった。
 じーっと私の方を見てることに気づいて、私もテーブルを拭く手を止める。

「どうしたの?」
「いや、その。オレたちの夢って同じなんだなって」
「そうだね。今は同士、いずれはライバルだね!」
「……な、なぁ。お前さ、イチから店作るつもりなのか?」

 うん?
 ちょっと視線を逸らしながら尋ねてくる佐伯くんに、私は首を傾げながらも。

「そのつもりだけど……」
「そっか……オレ、さ。二人で店やったら、きっといい店になるなって思ったんだけど」
「あ、それもいいかも! 佐伯くんも私もある程度ノウハウあるもんね。協力しあったらいいお店できるかもしれないよね!」

 佐伯くんの提案に、私は笑顔で答える。

 ところが。
 佐伯くんの表情はみるみるうちに不機嫌そうに変貌していって。

「お前な……。オレが今、どういうつもりで言ったか……」
「え、どういうって」
「これだ。はぁ……」

 がっくりと肩を落としたかと思えば、すぐに顔を上げて私を睨みつけて。

「人の気も知らないで……」
「え、えと」
「ウルサイ。あっち行け」

 あっちって、これ以上行きようがないよ佐伯くん……。

 なにがなにやら、すっかり不貞腐れてしまった佐伯くんを困り果ててみていたら。

 奥で声を殺しながら、お腹を抱えて笑いをこらえてるマスターが見えた。
 ええ〜……もう、なんなんだろう……。

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