「え、バイト始めたのか?」
「うん。今日が初日なんだ」
2.珊瑚礁
朝の日課となった、はばたき駅前ロータリーでのユキとの会話。
5月に入って気持ちいい気候になってきて、天気もよくて、ユキもいて。
私はバス待ち中のユキの隣に並んで、バイト開始の報告をしていた。
「私が自分で見つけたバイト先なんだけどね、パパとママに相談したら、なんだか昔お世話になったことある人がやってるお店みたいで」
「ってことは、喫茶店?」
「そう。珊瑚礁って言ってね、海沿いにあるの」
「ふーん……はば学からじゃ遠いな。じゃあはもうミルハニーには出ないのか?」
「ううん。バイトは週2だし。ミルハニーが忙しい時は今まで通り出るから、ユキもお店に来てよね!」
わかったわかったと、ユキは苦笑しながら頷いてくれる。
ここで今日の逢瀬はおしまい。バスが来ちゃった。
「バイトもいいけど、一流大目指してるなら勉強もしっかりな」
「わかってるよ! じゃあね、行ってらっしゃいユキ!」
「ああ。も気をつけて」
バスに乗り込むユキに手を振って見送って、私もはばたき駅の改札をくぐる。
そうなんです。
私、バイトを始めることにしました。
「なんだ。おこづかい足りないのか?」
「ううん、そうじゃなくて。ただ私も将来ミルハニーみたいな喫茶店経営してみたいって思ってるから、他のお店も見ておきたいなーって」
「にしては、随分と建設的なこと言うじゃないか」
「もう、パパ! からかわないでよ。ほらここ。珊瑚礁っていう海沿いの喫茶店なんだけど」
「……珊瑚礁?」
昨日の晩御飯の最中に、私はバイトの許可を貰おうとパパに話を切り出した。
はばたきネット経由の求人情報サイトからプリントアウトした紙をパパに手渡す。
見せて見せて〜と、ママもパパの手元の紙を覗き込んだ。
「あら、マスターのお店じゃない。ここのコーヒーおいしいのよね〜」
「えっ、ママ知ってるの?」
「パパも知ってるわよね? 素敵なマスターがいるお店よ。このお店ならちゃんがバイトしに行っても大丈夫よね、パパ」
「うーん……」
ママはにこにこしながら賛成してくれたけど、パパは求人案内を見つめたまま眉間に皺を寄せてる。
「パパは反対なの?」
「いや、そういうわけじゃない。でも、コーヒー飲めないのにバリスタのお店で働くのか?」
「う」
い、痛いところを。
……私、コーヒー飲めないんだよね。
味が嫌いとかそういうんじゃなくて、体質的に合わなくて。
コーヒー飲むと、酔うんです。
摩訶不思議体質!!
「で、でも喫茶店の求人って今回ここだけだったし……」
「まぁウェイトレスがコーヒー飲めなくても問題はないと思うけど、本当にバイトするのか?」
「する!」
「ふぅむ……まぁももう高校生だし、いろんなことを見て勉強したほうがいいだろう。よし、許可を与える」
「ありがたき幸せっ! パパありがとう!」
仰々しく求人案内をテーブルに置くパパに、私も合わせてははーと頭を下げる。
ともあれ、まずは両親の説得をクリア!
というわけで、晩御飯のあと早速メールを送って就職活動。
今朝方起きてパソコンを立ち上げてみると、採用のレスが返ってきていた。
昨日の今日っていうのが慌しいけど、思い立ったが吉日がモットーな私としては願ったり叶ったり。
期待に胸膨らませながら午前中の授業を右から左へ流したあと、昼休みに担任の若王子先生にバイト開始の申請と許可を求めに教員室へ行った。
「わっかおーじせーんせー!」
「はいはいっ。ややさん、なんでしょう?」
ぐるんと椅子ごと振り返る若王子先生。
はね学イケメン名簿の上位に名前が載ってるだけあって、いつ見ても目の保養なんだよね〜。
「今日からバイトすることにしたんだ。だから申請にきました」
「やや、今日からですか?」
「はいっ。申請遅れてゴメンナサイ」
「ふむ」
いつもの白衣姿で顎に手をあてて思案顔の若王子先生。
でも若王子先生はいつも生徒に優しい。
今回もすぐににこっと微笑んでくれた。
「きちんと反省してるようですし、今回は大目にみちゃいましょう。この用紙にバイト先の住所と連絡先を記入して、判子を押して持ってきてくださいね」
「はいっ! ありがとうございまーす」
「ところで、どこでバイトするんですか?」
「喫茶店です。海沿いの。あ、でも先生は私のバイト先じゃなくて、私の家の喫茶店に来てくださいね!」
私の言葉に若王子先生はきょとんとして。
でもすぐに、にやりといたずらな笑顔を浮かべた。
「さんの実家も喫茶店でしたね。やや、さては敵情視察ですね?」
「えっへっへー。社会勉強ですよーだ」
私もにやりと笑顔を返して、そのまま教員室を退室する。
これで学校の許可申請もクリア!
あとは放課後まで待って、珊瑚礁へ直行だ!
そして放課後。
やってきた珊瑚礁は、はね学では伝説的な灯台の横に建っていた。
多少ひなびた感があるものの、そこがかえっておしゃれなカンジ。
私は珊瑚礁までの長階段上りの疲労も忘れて、しばらく珊瑚礁をまじまじと見つめてしまった。
うちのお店とは全くコンセプトが違うみたいだけど、それならそれで得られるものも多そう。
カランカランとドアベルを鳴らしながら、私は店内へと踏み入った。
「ごめんくださーい……」
「いらっしゃいませ。あいにくまだ開店準備中でして……おや?」
レトロな内装の店内をきょろきょろ見回しながら奥に向かって声をかけると、厨房の方から一人の初老の男性がやってきた。
あ、結構味がある素敵なオジサン。
私を見て一瞬きょとんとした様子を見せたけど、すぐに優しい笑顔全開で。
「もしかして、バイトの子かな?」
「あ、はい! 私、です。今日からお世話になります!」
「元気のいいお嬢さんだ。私は珊瑚礁のマスターの佐伯総一郎です。よろしく」
にこにこと微笑んだまま右手を差し出されたから、私もその手を握り返す。
わ、ごつごつしてて大きな手。
パパの手みたい。
「それにしてもお嬢さんもはね学生だったとは。これはまた瑛に怒られてしまうかな」
「てる……?」
「いやいや。じゃあ開店前にざっと店内の説明をしようか。制服も貸し出さないといけないしね」
「あ、はいっ」
ロマンスグレイの素敵なマスターに手招きされて、私はその後をついていく。
と。
ばたん! がらんがらんからん……
「ごめん、じいちゃん! ちょっと事故って遅くなっ……」
突然珊瑚礁のドアが乱暴に開けられて、一人の男の子が飛び込んできた。
びっくりして振り向いて、その男の子を見て、さらにびっくり!
珊瑚礁に飛び込むように駆け込んだ勢いで、前のめりになってカウンターの椅子に手をついた、彼。
はね学の制服を着ていて。
1年生の証の赤いネクタイをしめていて。
ちょっと長めの髪は日に焼けてるけどさらさらで。
こっちを見て驚いてるのか、大きく目を見開いて、ついでに口も大きく開けてるけど、その顔は端正としかいいようがなくて。
う、うわ、うわぁぁぁ!
佐伯くんだーっ!
はね学イケメン名簿ブッチ切りのトップに君臨してる、佐伯くんだよ!
わぁぁ、やっぱりかっこいーっ!
……って、あれ?
『佐伯』?
「マスター、佐伯くん……」
「孫の瑛です」
「まごーっ!?」
ついつい素っ頓狂な声を上げてしまってから、私はマスターと佐伯くんの顔を交互に何度も見比べた。
に、似てる。確かに似てるっ。
「瑛を知ってましたか」
「そ、そりゃもちろん! 佐伯くんを知らないはね学生なんていませんよ!」
「ちょ、ちょっと待てっ! ……い、いや、待ってくれないかな。じい、マスター、ちょっとコッチ」
ぱちぱちと目を瞬かせてると、佐伯くんがマスターの腕を掴んで厨房の方へと引っ張っていった。
「どうしたんだ瑛。制服が泥だらけじゃないか」
「さっき坂でタックル食らっ……ってそんなことどうでもいいよ! もしかして、……! ………!?」
「………、……」
「…………!!」
奥に行くにしたがって、どんどんフェードアウトしていく会話。
そしてフロアにぽつんと取り残された私。
うわああ……。
ここ、もしかして佐伯くんの家?
もしかして、佐伯くんも珊瑚礁の手伝いなんてしてるの?
わああ、もしかしてもしかして、はね学プリンスと一緒にバイトーっ!?
すごい偶然! そしてラッキー!
朝バスロータリーでユキで目の保養して、日中学校で若王子先生で目の保養して、放課後はバイト先で佐伯くんで目の保養!!
あああ、私天罰下るかも。
こんな幸運、享受してていいんでしょうかっ!
すると。
からんころん。
天にも昇る気持ちで狂喜乱舞していたら、珊瑚礁のドアが再び開いた。
「お疲れさまでーす」
「……あれ? あかりちゃん?」
「え? あ! ちゃんっ!?」
ごく当たり前のように開店前の珊瑚礁に入ってきたのは、はね学第一号友達の海野あかりちゃん。
私たちはお互いを見つめたまましばらく硬直してしまった。
「あ、あかりちゃんどうしたの?」
「え、わ、私はその、ここでバイトしてて……」
「そうなの!? なんだ、知らなかったよ〜。あのね、私も今日からここにバイトで入るんだよ!」
「ちゃんも!? ……あ、そっか。このあいだマスターがもう一人増やしてシフトずらせるようにするって言ってたの、ちゃんに決まったんだね」
あいかわらずぽやんとした柔らかい笑顔を浮かべながら、あかりちゃんは右手を差し出してきた。
「今日からよろしくね。私のシフトは水・金なんだ」
「私は火・木って言われてるけど、しばらくは見習いで仕事覚えるまでは水・金で入るよ。こっちこそよろしくね、先輩っ」
「もう、先輩っていってもたった1ヶ月だけだよ。それに、ちゃんのほうが実家の喫茶店のノウハウあるからきっとテキパキ動けるよ」
きゃいきゃいと、あかりちゃんと盛り上がる。
そこへ、話が終わったのかマスターと佐伯くんが戻ってきた。
わああ、佐伯くんもう着替えてる。
髪もオールバックに流しちゃって、か、かっこいい〜……。
「お待たせしましたお嬢さん。おや、あかりさんも着いてましたか」
「お疲れ様です、マスター。私、着替えてきますね。じゃあね、ちゃん」
「おや、あかりさんとお知り合いで?」
「同じクラスなんです。あかりちゃんもここでバイトしてるなんて知りませんでした」
そうでしたか、とマスターはにこにこしてるんだけど。
佐伯くんはなんだか不機嫌そう。
私がじーっと視線を向けてると、はっとしたように笑顔を浮かべた。
なんだろ、疲れてるのかな?
「えっと、初めましてだね、佐伯くん。私、。1−Bで、あかりちゃんと一緒のクラスなの。これからよろしくね」
「あ、ああうん。こちらこそよろしく、さん」
学校でも遠目にみかける佐伯くんのキラースマイル。
珊瑚礁の制服着用の大人っぽい雰囲気でそれをされると、かなりクラクラきてヤバイです。
「あのさ、さん。お願いがあるんだけど」
「え、なに?」
わ、佐伯くんに話しかけられた。
思わず心臓が跳ね上がる。
つくづく私ってミーハーだなぁ……。
「ここで僕がバイトしていることは、他の誰にも言わないでほしいんだ」
「どうして?」
「……ここ、遅くまで営業してるし、学校の子に知られると常連客に迷惑がかかるっていうか」
「あ、ああ〜、そうだよね! バレたらはね学女子の溜まり場になっちゃうよね!」
はね学プリンスの異名をとるだけあって、佐伯くんファンの子は本当に多い。
そんなパワフルな女子高生が集団で押しかけてくるようなコンセプトのお店じゃないもんね、珊瑚礁って。
私は佐伯くんに笑顔を向けて大きく頷いた。
「誰にも言わない。約束するよ」
「ありがとうさん。それじゃあ今日は海野さんについて仕事を覚えてもらえるかな」
「うん。……じゃなかった、はいっ」
私は元気良く返事して、右手を差し出した。
ところが佐伯くんは面食らったような顔をして、私が差し出した右手を見下ろしている。
「えーと、よろしくの握手のつもりだったんだけど……」
「あ、ああそうか」
私の言葉にようやく気づいた、と言わんばかりに佐伯くんは慌てて私の手を握り返した。
ほんの一瞬だったけど、ぎゅっと握った佐伯くんの手は思いのほか骨ばった男の人の手をしていた。
って。
うわぁぁいっ! 佐伯くんと握手しちゃったよーっ!
しばらく洗わないっ、1週間は洗わないぞっ、この右手っ!
「じゃあお嬢さん、こっちの制服に着替えたら奥の洗面所で手を消毒してきてください」
……って、そういうわけにもいかないか。
ともあれ。
こうして私のバイトは、ロマンスグレイの素敵マスターと、はね学プリンス佐伯くんと、仲良しあかりちゃんの3人とともに始まった。
接客自体はミルハニーでやってきたことと大差ないから、むしろあかりちゃんよりもソツなくこなすことが出来た。
えっへっへー、佐伯くんが驚くくらい接客は完璧だったもんねっ。
さすがにまだコーヒーを入れたりっていう中の仕事はやらせてもらえなかったけど、それはまぁおいおいだ。
日がとっぷり暮れた頃に、私は無事にバイト初日を終えることが出来た。
「やぁお嬢さんは素晴らしい! さすがはミルハニーの看板娘ですね」
「えっ、ミルハニーって、あの駅前の紅茶専門喫茶?」
閉店後の片付けの最中。
マスターが、まぁリップサービスもあるんだろうけど私を褒めてくれて、その言葉に佐伯くんが過敏に反応した。
「そうなんだよ。ちゃん家ってすっごく紅茶とケーキのおいしいお店なんだよね」
「へぇ、そうなんだ。どうりで接客が板についてると思ったよ」
「えへへ、ありがと佐伯くん」
「ミルハニーか……一度偵察……じゃなくて食べに行ってみたいと思ってたんだよな……」
ぶつぶつ。
佐伯くんは私に言ってるのか独り言なのかよくわからない口調で何事かつぶやいている。
でも佐伯くんなら大大、大歓迎だ。
ママが。
「よかったらバイト休みの日にでも来てよ。パパに友達価格でってお願いしておくから」
「うん、じゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな」
「ちゃんのお父さんのハニートースト! また今度私も食べに行くからね!」
「うん、いつでも来てよ!」
などなど。
和やかムードでお店の清掃も終えて、私は帰路につくことになった。
それにしても嘘みたいな本当の話。
あの! 佐伯くんとこれから一緒にバイトするんだなぁ〜。
なんだか少しよそよそしい雰囲気ではあるんだけど、まぁ初対面だからね。
あああ、自慢したいなぁ。でも言わないでって言われた以上は黙ってなきゃだめだろうなぁ……。
今日は日記に書くこと多すぎて寝るのが遅くなりそう。
明日は寝坊しないように気をつけなきゃ。
そんなことを考えながら、私は足取り軽く自宅へと帰っていった。
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